カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「いのちのこと」5〜その瞬間

  病院の駐車場で場所を探していると、遠くで妻が盛んにスペースを指し示しています。一歩早く到着していたのです。私は大きく手を振って了解を示すと妻に“急げ”と手で合図します。妻は1〜2分早く到着しましたがシーナに声をかけることがでなかったようです。
 分娩室の前の廊下にはカーテンが張ってあってそれ以上先には安易に入れないようになっています。私はカーテンのこちらで待機し、妻はカーテンの向こう側で廊下から分娩室の中を見ています。扉は閉まっていないようでした。
 そうこうするうちに「ご家族の方」と呼ばれ、妻が中に呼び寄せられます。
 まったくそのつもりがなかったので少し慌てた様子で入って行こうとする妻を呼びとめ、私は携帯を渡して出産後の記念写真を撮るように依頼しました。それを受け取ったものの妻は上の空の感じです。

 室内からは単調で大きな音がリズムよく聞こえてきます。最初は分からなかったのですがそれは異常に増幅された胎児の心音のようでした。シーナの叫び声や泣き声が聞こえるかと思ったのですが、周囲の人たちの声は聞こえるのにシーナのそれは聞こえてきません。おそらく歯を食いしばって耐えているのでしょう。
「さあ、もう一度、がんばっていきみましょう」「そうです、うまいですね。少し休みましょう」「さあ、もう一度」
 さまざまに声が聞こえてきます。その間も増幅された心音がドクンドクンと大きな音を立てています。
 その音が一瞬小さくなり、しばらくしてまた大きくなって、また小さくなって消えて、長いのか短いのか分からない無音の後で、
「ああ、出ました。おめでとうございます」
の声が何人からか上がります。しかしそのあとの声がない。赤ん坊の泣き声がない。医師や看護師の声がない。何かこそこそと話す声が聞こえ、「〜呼びましょう」という話が出て、電話で何かを相談する聞き取れない言葉が続きます。
 2〜3分後、私の背後からヒタヒタとスリッパの音がして、ずんぐりとした白衣の男性が横を通り、カーテンを回り込んで分娩室に入っていきます。そこから何かのやり取りがあって、やがて女性たちの“アー”という歓声とも安堵ともつかない声が上がります。
「おめでとうございます。ほら、小さいけど、声、聞こえるでしょ」
 最初の「おめでとうございます」の瞬間に時計を見ました。それが出生時刻だからです。そして第2の「おめでとうございます」のときも時計を見ました。ほぼきっかり5分です。その間なにがあったのか、カーテンのこちら側の私には分からないことです。

 さらに5分ほどして、赤ん坊は布に包まれ、看護師に抱かれて私の前を通り過ぎようとします。私が覗き込むと看護師は一瞬立ち止まりました。腕の中には、ほんど紫色といっていい赤ん坊が小さく抱かれていました。しかしほんとうに一瞬立ち止まったという感じだけで、またそそくさといってしまいます。
 そのまま目で追っていると、近くの扉からナースステーションに入り、ぐるっと回りこんで私の目の前の新生児室に内側からもどってきました。
 シーナの子は保育器に入れられると手際よく紙オムツをつけられ、胸にモニターの端末が数箇所張られていきます。足首にも何かのセンサー装着され、右手の手首には点滴の針が刺されてから包帯でぐるぐる巻きにされていきます。音は聞こえませんが、かすかに動いているようにも見えます。

 私は長いことその様子を見ていました。
 シーナはさらに15分ほどして、出産の後処理を終えて車椅子で運ばれてきました。伏し目がちで新生児室の前もやり過ごしかねない感じだったので私が止め、保育器を指差して「あれがシーナの赤ちゃんだよ」と教えてあげました。シーナはちらっとそれを見て、小さな声で「かわいい」とつぶやきました。
 私は何かひどい違和感を持ちました。しかしそれが何なのか、そのときは分かりませんでした。
                            (この稿、続く)