カイト・カフェ

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「初めてのことと慣れたこと、そして経産婦あるある」~シーナ、レインボーママ(二児の母)になる3

 予定がすべて狂った第二子の出産
 さらに 前回は里帰り出産で 母子同時退院
 それが都会での出産となり 母子別退院となると
 さまざまに違った面が出てくる
というお話

f:id:kite-cafe:20190619215523j:plain(写真はイメージ。本人ではありません)

 

【初めてのことと慣れたこと、そして経産婦あるある】

 産まれた赤ん坊は体重わずか2300gあまり。そのまま保育器に入ることになります。
 第一子のハーヴも保育器への直行でしたが、新生児仮死で産まれたハーヴと早産ながら35週と十分な時間のたっている2300g越えの第二子とでは、心配の度合いが違います。
 元気に「オギャー」と叫んで生まれた子ですので、シーナの張り切り方も違います。

 またハーブの生まれた病院はできるだけ早く母子同室にする方針だったので病棟のあちこちから泣き声が聞こえて、それが横に子どものいないシーナをどれほど傷つけた分からないのですが、今度の病院は新生児を母親の横に一切置かない方針のようで、病室からは子どもの声は全く聞こえないのです。

 皆と同じだという状況はずいぶんシーナの支えになりましたし、横に赤ん坊のいないことで体力的にもずいぶんと休まったようです。

 1日4回、1階につき30分の面会というのはハーヴのときと同じで、慣れたものだと余裕さえ見せています。
 そんな余裕からか、12時間半もかかった出産も「私にしては安産」と、シーナは肯定的にとらえます。いつどんな場合も、前向きに気持ちを切り替えられるのはこの子の最も優れた点です。

 ただし慣れていたからこそ戸惑うことも少なくなかったようです。
 例えば沐浴の際、以前は顔を石鹸で洗わず、ガーゼを使ってお湯だけで拭くように言われたのが、今は積極的にベビーソープを使うように言われるとか、細々とした点で違いがあり、そのたびに、
「これも経産婦あるあるなのですが――」
と看護師さんから説明を受けたようです。第一子と二子と違いに戸惑うことは、経産婦にはよくある話だという意味のようです。

【里帰り出産でないとこうなる】

 私はと言えば産まれたその晩に赤ん坊に会いに行き、新生児科の特別病棟のガラス越しに赤ん坊を見て、翌日は、以前書いた通り息子のアキュラの引っ越し。夕方、そのアキュラとともに病院にってまた同じ部屋で赤ん坊を眺め、さらに翌日――これは書きませんでしたが――引っ越しの際に新たに発見された不手際のために、三度目のアキュラのアパートへ。そしてその日の夕方、妻が一人でかっ飛ばしてきた軽自動車を運転して田舎に戻りました。

 翌日は妻に勤務があり、私に畑の世話があり、婿のエージュは運動会の振替で家にいたからです。

 ただし1日半家にいただけで私は再び東京に戻ります。孫のハーヴを見る人がいないからです。
 出産を終えたシーナは病人ではないので一週間で退院してきますが、赤ん坊の方は早産の基準の上限である妊娠36週6日までは病院から出してもらえません(下限は妊娠22週0日)。
 つまりシーナの退院までの1週間(実際にはすでに消化した3日間を除く4日間)は、ハーヴの面倒を見るために、そして退院してからはさらに大変な仕事のために、私は東京に残らなければならなかったのです。大切な仕事とは「ミルク運び」のことです。

【ミルク運びの日々】

 シーナが入院中は1日4回、1回につき30分の面会のたびに乳をやっていればよかったのですが、母乳の生産者が退院してしまうと、母乳そのものを配達しなくてはならなくなります。

 具体的に言えば午前10時にシーナを病院に届けそこで授乳。午後3時に私が迎えに行く直前に再び授乳。残った時間の乳についてはシーナが家で搾乳したものを凍らせて病院に預け、時間を測って保育士さんが哺乳瓶から与えるのです。

 この搾乳というのもなかなか大変で、昼夜を問わず3時間おきに行っては冷凍保存し、搾乳器はそのたびに熱湯消毒しなくてはなりません。母子一緒に退院して来くれば必要のない作業ですので負担感も多少大きくなります。
 ただしこうした作業のために私たちがウンザリしてしまったかというと、そうではないのです。

【出産はいつも奇跡の連続だ】

 ひとつにはハーヴのときと違って見通しがあるということ。

 初めて直に乳を与えるときは新生児は乳首をうまく咥えられない。咥えても簡単に乳が出て来ない。人間の乳首は哺乳瓶のようには楽に乳を通してくれないのです。

 ハーヴのときはそれがつらくて、シーナは様々に工夫し、何とかしっかり咥えさせよう飲ませようと何度も挑戦したみたいです。ところが第二子の場合はうまく行かなくても気楽に構え、
「大丈夫よ。今にうまくなるから」などと声を掛けたりしているらしいのです。

 沐浴のときの泣き声も、ハーブのそれは悲鳴に聞こえ、第二子のそれは歓声に聞こえているのかもしれません。

 新生児のための七面倒くさい作業がイヤでないのは、人生においてそうした経験がそう何度もあるものではないからです。自分の子どもについて言えばせいぜい2~3回。孫の世話を全部しても今どき10人以上ということはないでしょう。それに孫の場合は、厄介な部分を全部子に任せられます。

 そしてなにより、奇跡の場に立ち会えたということが私の喜びを大きくします。
 先日も引用したテレビドラマ「コウノドリ」の台詞から引用すると、

 たくさんの試練を乗り越えて赤ちゃんはこの世にやって来る。出産はいつも奇跡の連続だ。

 それを喜ばずに、何を喜びとできるのでしょう。
 私は喜々としてその仕事を遂行しました。
                        (この稿、続く)