シーナの二度目の出産の折に感じた三つのこと
今の車でありがたかった
出産は案外金がかかる
女の子を持つということの特別な意味等
どうでもいいこと 三連発
というお話。
(写真はイメージ。本人ではありません)
【ドライブ支援のありがたさ】
昨日書いたミルク運びの一週間。毎日片道40分の東京の道を二往復ずつしたのですが、思いのほか大変ではありませんでした。
もちろんかつて短期間ではありましたが東京で運転手の仕事をしていたことがあって、この地域のドライバーがいかに親切で優しいかを知っていたということもありますが、片側三車線、右左折のレーンが複雑に入り組む都会の道を渡り歩くのに、現代は素晴らしい支援者がいるからです。
自動運転装置とカーナビゲーションです。
自動運転といっても私が運転したシーナの車についているのは、先行車との距離を一定に保ってくれるクルーズコントロールと高速道路で車線を維持してくれるハンドル支援。高速道路は使いませんでしたので、実際に使用したのはクルーズコントロールですが、これが実に勝手がいい。
時速50kmなら「50km」と指定するだけで速度を維持してくれて、前に車が入れば自動的に速度を落とし、その車が抜けたり先行車がスピードを上げれば設定速度まで戻してくれる、そういう優れものなのです。
うっかりスピードを出し過ぎたり、注意力を欠いて先行車に近づきすぎたりといったことは一切ありません。スピードメータに注意したり、横入りの車に気を使ったりということがまったくないのです。
気をつけなくてはならないのは信号くらいなものです。
もうひとつ。
慣れない道でのカーナビの威力はもちろん知っていますが、シーナの車のナビには右左折する交差点の入り口で「ブン、ブン」と軽快な音を立ててくれる機能がついています。
スピードが出過ぎているとダメなのですが、ある程度ゆっくりだと「ブン、ブン」と言われてからハンドルをきればいいので、“ナビを見ていたのに次の交差点と間違えて通り過ぎてしまった”といったことは起こりません。とても便利です。
私はこの「ブン、ブン」がたいそう気に入って、タイミングが分かるようになると一緒に「ブン、ブン」と言って楽しんだものです。
この二つの装置のお陰で、慣れない道もさほど疲れずに運転できます。そうなると遠い昔、助手席に地図を広げて高いビルや看板をと対照させながら、そして同時に周囲の車に気を遣いながら運転していた若い自分の神業に感心したりします。
もちろん今はそんな技術はありませんし、神業に頼らなくていい素晴らしい時代の到来を肌身で感じているのです。
【赤ん坊は金がかからない――訳じゃないということ】
少子化の問題に関してテレビを見ていると、“識者”の中には「若い夫婦の経済的負担を和らげない限り、少子化傾向に歯止めがかからない」といった意見を言う人がいたりします。
そんなとき、私はたいてい心の中で、
「赤ん坊なんて、ちっとも金なんかかからないだろう」
と毒づいています。
先日見たテレビドラマで、若い夫婦の男性の方が、
「子どもをひとり育てるのに一千万もかかるって言うじゃないか。そんな金、ウチのどこにあるんだ」
と、子どもを持ちたい妻の願いを跳ねのける場面がありました。しかし仮に一千万円かかるにしても(そんなにかからねぇだろう!)、そのうちの半分以上は子どもが大学に行くようになってからです。特に赤ん坊の間なんて、寝て、オッパイ飲んで、オムツを汚しているだけです。金なんてほとんどかからない。
「一か月のオムツ代なんて、オマエが飲み会を一回減らすだけで簡単に出てしまうぞ」
ところが、今回の出産に関してシーナが病院に払わなけれなならなかった出産費用は65万円にもなったのです(赤ん坊の入院費用は別ですが全額保険適用なので0円)。健康保険から下りる「出産育児一時金」が一律42万円なので、その差23万円がシーナの持ち出しとなります。
これは「東京」「大学病院」「夜間救急搬送」「(午後5時半だったための)時間外出産」などのさまざまな条件が重なったためですが、なんといっても最初の「東京」が大きい。
ちなみに第一子のハーヴの場合は、「田舎」の「総合病院」で「時間内出産」だったために、出産費用は40万円弱。一時金は出産費用が42万円より少ない場合、差額が本人に渡されるため、ハーブのときは黒字になったのです。つまり産んだら儲かった――。
“産んだら儲かる”のと“23万円の支出”とでは、天と地ほども違います。若い夫婦の中には払えない人も出てくるかもしれません。
これは私の無知でした。
田舎では市町村から祝い金として10万円~20万円と贈られるところもあります。少子化を本気で考えるなら、日本中どこで産んでも家計を逼迫させない根本的な仕組みがないと無理かもしれません。
田舎ではなく、都会の出生率が爆発的に上がって、溢れた子どもたちの親が良き環境を求めて地方に下る、そして地方を潤す。そんなふうにはならないものかと、改めて考える機会になりました。
【女の子を持つということ】
終わり良ければすべてよし。
二度の分娩は二回とも大変でしたが、シーナは「私にしては安産」とか言って、いずれはもう一人産みそうな気配さえ見せています。
産んでくれるのはもちろんいいのですが、親の私たちも気が気ではありません。
「それでも1度目より2度目の方が多少なりとも楽だったのだから、3度目はもっと楽なのかもしれない」
そう思うよりほかにありません。
そこでふと考えたのは、これがシーナでなく、アキュラの嫁だったらそこまで気を揉んだのかということです。
おそらくそうではないでしょう。
出産の最悪のかたちは赤ん坊と母親の死です。赤ん坊が危険だということになればシーナは当然「自分はいいから、赤ん坊を助けて」と言うに違いありません。しかしその父親である私は「母親(シーナ)の方を助けろ」と言うでしょう。そして口にしてはいけないことまでしゃべるかもしれません。
「赤ん坊なんてまた産めばいいじゃないか!」
親とはそういうものです。
しかし息子の嫁は自分が育てた人間ではありません。シーナに対する思いと同じようにその子を見ることはできないかもしれない――。ひじょうに冷たい言い方になりますが、客観的にはそういうこともあり得ます。
ただしそれにもかかわらず、他方で私はその子も大切にするだろうという想いもあるのです。
日本の家制度は古くて封建的で一刻も早く克服しなければならないように言う人がいますが、一面でよくできた制度だとい言いたくなる面もあります。
自分の娘は可愛いしその娘が産んだ孫はやはり可愛い。しかしその子は家制度の下では“他家の子”なのです。違う名字をもって大人になり、私たちの面倒なんか見てくれません。
他方、息子の配偶者はよそ様が産んだ見知らぬ女ですが、その人は私の姓を継ぐ子の母親となります。
古い常識にとらわれて息子が「家を継ぐのは自分なのだから、当然、親の面倒はオレが見る」ということになると、私自身の最後の世話はその女性にも頼まなくてはならないかもしれないのです。
情の上ではシーナに勝る女性はいないはずなのに、結局アキュラの配偶者も同じように大事にすることになる――家制度はそんなふうに守られてきたのだなと、改めて思ったものです。
(この稿、終了)