1960年代以前、若者は自分たちの歌すら持たなかった。
70年代、文化は若者の専有物となった。
80年代、若者文化は多様化し、統一性を失う。
その陰で、まったく存在しなかったものが成長してくる。
――という話。
(写真:フォトAC)
【若者が共通の歌を持たなかった時代】
少し先走って話が手順前後になってしまいました。時間を1960年代に戻します。私が子ども時代を過ごした50~60年代は「世間」と呼ばれる大人社会はありましたが、子どもたちは個々バラバラで、共通の文化というものを持っていませんでした。
1960年に起こった第一次安保闘争は学生たちが手を結んで行った初めての大規模な反政府運動でしたが、彼らの中で歌われたのが西田佐知子の「アカシアの雨が止むとき」という昭和歌謡の本命みたいな曲だったことは象徴的でした。若者は自分たちの歌を持たなかったのです。
1969年を頂点とする第二次安保闘争ではかろうじて歌える歌が出てきます。1969年春、新宿駅西口地下広場では若者たちが反戦フォークソングを歌ってベトナム戦争や安保体制に抗議する即興的な音楽運動「新宿フォークゲリラ」が始まり、岡林信康(「山谷ブルース」「友よ」)・高石ともや(「受験生ブルース」)・高田渡(「自衛隊に入ろう」)といった政治色の強い歌手たちが背後から学生運動を支えようとしました。しかしそれとても一部の学生にしか共有されない音楽でした。
【若者の時代70年代】
若者が自分たちの音楽を持ったのは1970年代に入ってから。吉田拓郎や森山良子が政治の匂いのまったくしない曲を歌い始め、72年に荒井由実(松任谷由実)、73年にキャンディーズ、76年ピンク・レディ、78年にサザン・オールスターズがデビューすると、もう音楽界は若者向け一色になってしまいます。中でもピンク・レディは爆発的な破壊力で小学生にも購買力のあることを証明し、大人から幼稚園児まで巻き込んでピンク一色にしてしまいます。
当時の音楽をけん引したのは『夜のヒットスタジオ』(1968?1990 フジテレビ)や『ザ・ベストテン』(1978?1989 TBS)といったテレビの歌謡番組。ファッションやライフスタイルは、女性の場合、『anan』(1970年創刊)と『non-no』(1971年創刊)。男性向けには『POPEYE』(1976年創刊)がアメリカ西海岸カジュアルを紹介して若者の憧れを形づくったと言われています。
まさに若者全盛です。しかし言ってみれば、この時期の若者文化は詰まるところ『ヒットスタジオ』『べストテン』『anan』『non-no』『POPEYE』なのです。文化の全国統一。北から南まで同一色。ヒットスタジオやアンノン(『anan』『non-no』)さえ見ておけば若者文化が分かる、流行が分かる。だからそれに合わせていれば、誰からも非難されない、馬鹿にされないという評価の基準が出来上がっていたわけです。大人社会も単一でしたが子ども社会もひと色でした。
かつて私が「若者の価値観は相対化できる(お前だって「世間」を気にしてるじゃないかと言える)」と考えたのは、こうした文化の形態が20世紀を通して主流だったからです。
【多様性の80年代】
1980年代はまさに若者文化の爛熟期であり、多様性の進んだ時代でした。
バブル経済の影響でブランド志向が強まり、ディスコやファッション・車など「消費で自己表現する」スタイルが定着します。過去の文化的伝統をまったく引き継がず、消費に明け暮れる「新人類」が登場して大人たちを唖然とさせたかと思うと、短ラン・ボンタン・リーゼント・バイクといった二世代も前の不良ファッションが再燃し、さらに一方、都会的で洗練されたニューウェーブの流れもありました。
それぞれが派手で自己主張が強く、ひとの耳目を引きやすい存在でした。しかしその陰で、あとから考えるとまったく静かに、地下水脈のような新たな潮流が静かに起こっていました。オタク文化です。
(この稿、続く)