「いのちのこと」4〜その直前

  ぼろぼろに疲れ果てた娘を見舞って家に戻ると、いくらもしないうちに本人から電話が入ります。
「今、診察が終わって陣痛促進剤を進められた。怖いけどやってみようと思う。家族の承諾が必要なので10時までに印鑑をもって来て」
 あわただしい話でした。10時までそれほど余裕のある時刻ではなかったのです。
 妻にメールを打って事情を説明し、それから病院に出かけて待機室に入るとシーナは朝よりもさらにやつれた感じでした。

「大変だったね」というとウンウンとうなづきます。
 ほどなく担当の女医がやってきて説明をします。
――ずいぶん長い時間がかかったが子宮口はまだ十分に開いていない、小さな破水もあってこのままの状況を続けることは胎児にも母体にもよくないと考える、そこで陣痛促進剤を使ってお産を早めたいと思う――。
「使用する促進剤はオキシトシンと言って・・・」
 そのホルモンの名前を聞いて私はフッと微笑みたくなりました。それが「幸福ホルモン」だと知っていたからです。

 オキシトシンは良好な人間関係の中で分泌されるもので、抱擁や愛撫によっても生産されるので「抱擁ホルモン」などとも呼ばれています。しかし私がその名を知ったのは最近の研究で、自閉症の患者にオキシトシン点鼻薬を継続的に使ったところ飛躍的な効果があったという記事を読んでいたからです。アスペルガー症候群にはさらに大きな改善が見られたとありました。
 その「幸福ホルモン」を投与されシーナはついに一番望んでいたものを手に入れる、あと数時間でシーナは幸福に包まれる、そう考えると私までも何とも言えない幸福感に包まれる感じがしました。

 副作用などの説明を受けてから署名捺印すると、医師は「ではすぐに準備をしますのでしばらくお待ちください」と言って席をはずします。
 その間に私は、少し心に引っかかることがあったのでシーナに訊ねます。
「さっき、電話で『怖いけど』って言っていたけど、どういうこと?」
 陣痛促進剤というのは私の理解では出産のための陣痛を前倒しにするものです。それは最後のハードルを手前に寄せるだけのことであり、これまでの長い苦しみに終止符を打つという意味でむしろ喜ばしいことではないのかと思ったのです。しかしシーナの説明はよく理解できるものでした。
 すでに30時間に渡って微弱とはいえ強い痛みに耐えてきたのです。それをはるかに上回る痛みというものが想像を絶していたのでしょう。もう体力的にも限界に来ていました。

 妻はその日たまたま特別な学校行事があって、休んで付き添うということができません。エージュは急いでも3時間の遠方で今は勤務中、そばにいられるのは私だけです。そう思ってぐずぐずしているとシーナが言います。
「お父さん、ごめんなさい。私が泣いたり叫んだりするところ、エージュにもお父さんにも見られたくないの。家で待っていて」
 それもそうです。
 私は家に戻って昼食をとり、それから職場に行って、きっと長い長い苦痛に耐えているシーナを思いながら午後の仕事にとりかかりました。

 午後の2時近く、私の携帯に電話が入ります。病院からです。
「まもなく分娩室に入ります。シーナさんがご家族に付き添ってもらいたいというので電話をかけましたが、どうされます?」
 私は迷いました。シーナは私が行くことを好まないかも知れません。
「ありがとうございます。2時に妻が行くことになっていますから、よろしくお願いします」
 そう言って電話を切り、すぐに妻に確認のメールを打ちました。2時に行くというのは朝から決まっていたことです。
 すると周囲の同僚が声をかけてくれます。仕事はいいから行ってあげなさいということです。私は迷いましたが繰り返し声をかけられ、結局、病院に駆けつけることにしました。結果的に、それは本当にありがたい配慮だったということになります。
 声をかけてくださった方々には、今も深い感謝の気持ちを抱いています。

                          (この稿、続く)