「いのちのこと」6〜その直後

 世の中にどうしようもなく間の悪い人がいます。本人の性格や人間性と関係なく、とにかく間が悪くてしばしば憎まれる人です。

 出産直後、車いすで病室に運ばれるシーナのうしろを歩く私に、ピンポイントで電話をよこした人など、まさにそうです。どうせろくな用件ではないことは分かっていましたが仕事関係の人です、万が一重要なことだったら後々困ることになるのかもしれません。しかたなく私は踵を返して玄関に出ます。病院内にも携帯の許可された場所があるのですが、建物の中は電波状況が極めて悪く、外に出ざるをえなかったのです。そして実際に折り返し電話をかけてみると、やはりほんとうにろくでもない用件でした。

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 しかしせっかく外に出てきたのだからと、ついでに必要なところに連絡をすることを考えました。婿のエージュには院内からメールを打ってありますので、まずエージュの実家、心配してくれた私の母や弟、妻の姉妹、それからシーナの弟のアキュラと、電話で話せる相手には電話で、出られない相手にはメールでと次々と連絡し、かれこれ30分ほどもかかって病室に戻ります。

 シーナの病室に入ろうとした瞬間、携帯を手にした妻が逆に飛び出しきました。特別な相手らしく、そのまま廊下の端にいって会話を続けます。どうやらエージュの母親のようでした。
「はい、ありがとうございます。何日も苦労しましたがついさっき生まれました。仮死状態だったのですが、今は母子とも元気です」
 私は何という言い方をするのだとイラッとしました。少し泣き始めるのが遅かったとはいえ、「仮死状態」はないだろう。もっと柔らかい言い方もあるし、そもそも言わないでもいいことだ。

 しかし妻は勝手な判断で言ったわけではなかったのです。私が席をはずした30分ほどの間に医師が来て、簡単な説明をしていったらしいのです。中軽度新生児仮死だったと。感染症もありそうなのでしばらく保育器の中で過ごさなければならないと。
 シーナの出産の状況は、私が耳で聞いていたよりもずっと大変なことだったのかもしれません。

 アプガー・スコアという新生児の評価ないしは判定があります。心拍・呼吸・肌の色・反射・筋緊張の五つの項目に対して0〜2点の3段階で評価した合計を表すもので、最高が10点となります。生後1分後と5分後に判定し、合計7点以上が正常、4〜6点が軽症仮死、0〜3点が重症仮死という区分けになります。
 1分後判定で正常値であれば5分後判定はしません。5分後判定でも正常値に至らなければその後20分間にわたって1分ごと、正常値になるまで判定が繰り返されます。
 1分後判定と5分後判定では5分後判定の方がより重視されます。それは5分経っても心拍数が上がらず脳に酸素が供給されないと脳細胞が急速に死に始め、あらゆる臓器に問題が発生し始めるからです。
 シーナの子は1分後判定で2点、5分後判定で4点しかありませんでした。7分後の判定で8点と記録されていますから、2度目の「おめでとう」を聞いたころから急速に状況が改善された様子がうかがえます。直前の6分後判定が記録に残らなかったことから、その時点でも7点がクリアできていなかったことも推測されます。非常に微妙な数字です。

 私が耳でとらえていた現場の状況――モニターで増幅された大きな心音、何人かの女性の声、途絶えたモニター音、「おめでとう」の言葉と直後の異様な静けさ、ひそひそささやきあう声、男性医師の登場と小さな歓声、二度目の「おめでとう」――三つのアプガー・スコアが表現するのはその生理学的経過です。現場に立ち会わなかった私にとって、その間に起った事は半ば抽象的な物語です。
 しかし同じ時間を、シーナや妻はもっと生々しい、圧倒的な現実にさらされていたのです。

 赤ん坊が生まれたら枕元に並べてピースをして記念写真を撮る、それしか考えていなかったシーナにとって、それは朦朧とした視界の中で、全身紫色のぐったりした赤ん坊があっという間に連れ去られる恐ろしい事件でした。あまりにもあっけなく、むしろとらえどころのないような事実です。
 “死産”という言葉が真っ先に浮かんだ妻にとって、それは絶望と怒りの瞬間だったようです。
「息してないじゃない! なんでみんな何もしてくれないの!」
 あまり凄惨さに、私もそれ以上は聞いていません。

 赤ん坊が連れ出されてのちの長い長い時間を、静まり返った分娩室の中でシーナとその母親がどんな時を過ごしていたのか、私には知る由もありません。しかし想像するだにやりきれない話です。

 同じ時間、私は新生児室のガラス窓に顔を寄せて、保育器の中でどんどん肌の色を良くし、元気に手足を動かす赤ん坊の姿を無邪気に眺めていました。
 

                                (この稿、続く)