「『家庭訪問は玄関先で』が非現実的なワケ」 

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 中国の諺に曰く
 「上に政策あれば 下に対策あり」
 家庭訪問はぜひとも必要と思う教師がいて
 どうしても来てほしいと願う保護者がいれば
 「訪問は玄関先で」などと決めても自然に漏れていく
 引き留める保護者を無碍に振り切って関係を悪くすることもない
 それが現場で起こっていることだ
  

というお話。

------------------------------------
 更新しました。

「キース・アウト」

2019.05.22
家庭訪問における先生への「おもてなし」暗黙のルールがあるって本当?

 

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「世間知の学習 2」~引っ越し編

 息子のアキュラが突然九州へ転勤
 学生時代から住み慣れた東京のアパートを去ることになった
 知識があればアタフタせずに済んだのに
 経験がないばかりにたいへんなことになる
 特にリサイクル家電と粗大ごみの始末が・・・

というお話。

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【アキュラ、東京を離れる】

 息子のアキュラが突然の九州転勤で、学生時代から慣れ親しんだアパートを引き払うことになりました。土日を挟んでたった5日で任地に向かわなくてはなりません。

 私のところは父も弟も、私も妻も娘も公務員という一家ですので、民間企業のやることには慣れていません。
 おまけにアキュラはおっとりというよりは素っトボケたところのある子ですから気が気ではなく、娘に言わせれば“相当に過保護”な話ですが手伝いに行くことにしました(シーナは私を過保護だと非難しますが、その過保護の恩恵を誰よりも受けているのがシーナだと思うのですが・・・)。

 その引っ越しの過程で学んだこと。

 

【遠隔地への引っ越しは料金がハンパじゃない】

 学生時代から住んでいるアパートはワンルームのトイレバス付。キッチンも申し訳程度のものです。
 転居先にはベッドも冷蔵庫も洗濯機もあるそうなのでそれらはすべて廃棄。布団はほとんど“腐っている”状態なのでこれも廃棄。
 スノーボードやガスストーブ、そしてなぜか持っている製麺機(ラーメンからうどんまで何でも作れる)は必要なさそうなので実家へ移送。
 結局、引っ越し先へもっていくのは机といす、三つの衣装ケース、こまごまとしたものを3個の大型段ボールに。テレビ1台、コンピュータモニター3台、といった感じでベッドなどがない分、普通の学生よりも少ないくらいです。

 シーナが都内で引っ越ししたときの荷物はざっと5~6倍の分量でかかった費用が6万円弱。そのことを参考に、いかに遠いとはいえ4~5万円というところかなと思って見積もってもらったらなんと18万円弱!
 いくら会社持ちとはいえ、それはないと思ってあと2社に見積もってもらったところ、大小同異でどうやらそれが相場らしいのです。

 高速料金だけでもかなりかかるというのが引っ越し業者の説明です。日時を問わないなら帰りのトラックを空荷しないで済む日を選ぶので、それだとずいぶん安くなるという話もありましたがそういう訳にもいきません。
 支払いは会社だと言わなければもっと安くなったのかもしれませんが、だいぶ驚き、そして納得しました。

 

【リサイクル家電は厄介】

 荷物も整理して引っ越し業者も決まってヤレヤレなのですが、残る問題はリサイクル家電と粗大ごみです。このうちリサイクル家電には決まった手順があります。

 家電リサイクル法の対象となる「家電4品目(エアコン、テレビ、冷蔵庫・冷凍庫、洗濯機・衣類乾燥機)」は処分料を払って引き取ってもらうものです。
 同種の新しい製品を購入する場合は購入業者に、廃棄だけの場合は買った店に持ち込むのが原則ですが、アキュラのように購入した店舗が遠隔地にあったり、そもそも買った店が分からない(友だちから譲ってもらったりした)場合は郵便局で専用の「家電リサイクル券」をもらい、必要事項を記入して料金を払った上で製品に添付して処理場に持ち込むことになります。
 もちろん民間の回収業者に代行してもらえば済むことですが、自分でできることは自分でしましょう。私はケチなのです。

 ただ、それにしても慣れない東京で、日曜日にやっている郵便局を探し、必要な手続きをして車で処理場に運ぶのは気の重いことす・・・と思い悩んでいるうちにふと気づいたのは、「郵便局は全国区」ということです。もしかしたら同じ用紙が地元にもあるんじゃないかと。

 そこで慌てて近くの易郵便局で話を聞くと目の前にあり、ここで支払って東京で使っても構わないということでした。言われてみれば当たり前で、国法によって行われることが地方限定であるはずがありません。

 これで問題解決! と思ったらそこに躓きの石があり、リサイクル製品はメーカー・サイズごとに処分料が異なり、それが分からないと支払額が決まらない。今や私は田舎、アキュラは九州で、すぐに確認することができません。

 しかし私は運の強い人間です。
 アキュラに連絡すると何と数年前、購入する際にさまざまな商品を比較するためメーカーやサイズのついた紙の張られたままの写真を撮ってあったのです。スマートフォン内ですから、写真はすぐに発見されます。これで一件落着。

 もっとも予め家電リサイクルについて知っていれば、ちょっとメモするだけでこんなにやきもきする必要はなかったのですが。

 

【粗大ごみの処分は数万円から無料まで、方法が複数ある】

 残るはベッド、布団、カーペットといった普通の粗大ゴミです。

 ネットで調べると「無料回収業者」がいくらでも出てくるのですが、これが実に胡散臭くて手を出すのが怖い。
 先に書いたようにリサイクル家電は廃棄すること自体に数千円のお金がかかるのです。それを無料回収というのはどう考えても筋が通りません。

 さんざん迷って第六感で良心的な感じの一社を選び電話をすると、
「リサイクル家電でも何でもここ5年以内のものが1点でもあれば、他は5点まで無料で回収します」
という話。これはよく分かる。

 業者はその新しい家電を例えば3万円で売って、残りの粗大ごみは正規に処分したり不法投棄すれば、その差額が収入となる。 “売れるリサイクル家電がなければすべての処理料金を払ってもらった上で自分の収入も上乗せして請求すればいい‘ そうやり方なのです。どちらにしても業者の手間賃は払うことになります。
 そうなるとやはり自分でやった方がいい、自分でできることなら何も業者を使う必要はない、ケチな私はそう考えます。

 調べると粗大ごみ廃棄の方法は二つ。

 ひとつは「粗大ごみ処分券」というものを指定業者のところで購入し、それを品目ごとに張って回収日にアパートの前に出す方法。
 もうひとつは直接、処理業者のところに持ち組む方法

 しかし前者は、例えば料金800円のものには300円券2枚と200円券1枚を張るといったふうに面倒くさいことこの上ない。しかも回収日に合わなければ出せない。
 アキュラは引っ越しの土日にしか来られませんから無理でしょう。私が週日に行ってやるということもありますが、それだと私の交通費だけで業者に払う分は出てしまいます。

 その点で後者だと、慣れない東京を車で走る気の重さはありますが処分そのものは無料となりますからその方がいいのかもしれない、そう思ってどこに持ち込めばよいのかを調べると、なんと、処理工場はアキュラのアパートから数分のところにあったのです。

 私は自分の運の強さに思わずガッツポーズをしたりします。
 なんだ超正解の答えが最初から目の前にあったじゃないか!

 しかしこれが実は大きな問題の発端になったのです。

                         (この稿、続く)
 
 
 

「世間知の学習 1」~病院編

 この一週間 家族にさまざまなことがあってなかなか大変だった
 そこで学んだこと
 もしかしたら世の中に人には「あったりまえ」なのかもしれないが
 世間知にはときどき大穴があったりして困ることも多いので
 いちおう列挙しておく

というお話。

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 【紹介状を持って行かないと料金が上乗せさせられることがある】

 91歳の母が転んで手首を傷めました。

 木曜日の夕方、母から電話があって「さっき転んで手首を骨折したらしい。近くの整骨院に行きたいのだが、電話番号が分からず困っている。調べてほしい」とのことでした。

 そこで疑問点がふたつ。
 私も2度ほど骨折をしたことがありますが、痛みは半端なかった。日ごろから大げさな母のこの落ち着きは、どう考えても骨折だとは思えない。
 整骨院は「骨を整える」と書くが、果たして折れた骨まで整えてくれるのか、なんとなくそんな気はしない。

 午後4時もだいぶ回っていて、離れたところにいる私が駆けつけても、それからでは病院に間に合いそうもありません。骨折でもなさそうです。
 そこで番号を知らせると、しばらくして「6時の予約が取れた」との報告がありました。空はなんとなく暗くなり、今にも降り出しそうです。

 しかたなく車を出して母の足で10分とかからない接骨院まで連れて行くと、いくらもしないうちに戻ってきて、
「やっぱり折れているらしいって。紹介状を出すからA病院に行けって。それ(紹介状)を持って行けば5400円安くなるって・・・」

 ここでまたまた二つの疑問。
 これだけ痛みの伴わない骨折があるのかい?
 紹介状は割引券か?

 病院に救急口から入って手続すると確かに、
「紹介状のない初診の場合は、5400円が別途にかかります」
 まっすぐ来なくてよかった――しかしこれって、明らかに緊急の場合でもどこかに寄ってから来た方がいいってことかい?

 

【痛みを伴わない骨折がある】

 小一時間も待たされたあげく救急医に診てもらうと、手首をあちこち何度も押さえた上でほとんど痛みのないことを確認して、
「どうも折れてはいなさそうですね。痛みもほとんどないみたいですし、少し様子を見ましょう」
 ホラ、ホラ、ホラ、そうじゃない、骨折でこんなに簡単に済むはずがない。
 私は安心して診察室を出ようとします。すると医師が、
「でも、念のため、レントゲンを撮ります?」
 いやその必要はありません、と言おうとしたらそれより先に、
「お願いします」
と母が言う。
 やれやれ。

 91歳の母とゆっくりゆっくりレントゲン室まで歩いて撮影し、またゆっくりゆっくりと戻って待っていると、ずいぶん経ってから件の医師が待合室まで足を運んでくれ、
「どうも折れているみたいです」
 え?
「整形の担当医がいま会議中で来られないので、しばらくお待ちください」

 それからまたずいぶんと待たされて整形外科医に診てもらうと確かに骨折で、ギブスをつけると母は立派な骨折患者になりました。
 それにしても心配性の母が、レントゲンを主張してくれなかったらどうなっっていたのだろう?

 固定後のレントゲン写真を改めて撮って、病院を出たのはもう9時をだいぶ回ってからでした。私はいつも夜を母の家で過ごすので、そのまま実家に帰って泊まることにしました。

 ちなみに5400円は免除されたものの、時間外診療などのために総額で1万300円ほどかかってしまいました。後期高齢者の治療費としては破格の高額です。

 

【痛みが後からやってくる(場合がある)】

 翌朝は何も言っていなかったのに、10時ごろに母から電話。
「痛くなってきてどうしようもないけど、鎮痛剤、飲んでもいいかな?」
「痛かったら飲めばいいだろう。そのために渡されたのだから。なぜ飲まないの?」
「だって治りが遅くなるっていうから」
 たしか昔そんな話を聞いた覚えもあります。しかし一ヵ月もかかる骨折の治療が2~3日延びたって何ほどのことか。母は時々へんなことにこだわります。

 ただ母には気の毒ですが、普通の骨折ぽくなってきてホッとした部分が私にはがあります。まったく痛みのない骨折というものがむしろ不安だったからです。

 

【腫れは、さらにあとからやってくる(場合がある)】

 痛みはそれから三日ほど続き、四日目の土曜日には治まりました。ところがそのころから手首より先がどんどん膨らんできて、日曜日の夜には赤ん坊の手のようにパンパンになってしまいました。
 指先が紫色にならなければ大丈夫と思っていたのですがさすがに“赤ん坊の手”には驚いて、翌日、病院で診てもらうことにしました。翌日というのは昨日のことです。

 月曜日の外来ですから予約患者でいっぱいのはずです。そこで時間をずらして10時半ぐらいに受付をしたのですが、それでも順番の回る様子はなく、名前を呼ばれたのは3時間近く過ぎた午後1時20分ごろ。しかし診察は1分弱で、
「ギブスをするというのはこういうものです。気持ちが悪いかもしれませんが我慢してください」

 診察室を出たところで看護師さんが追いかけて来てくれ、指導がありました。テーブルの前では腕を乗せて過ごすとか寝るときは胸の上に置くとか、できるだけ心臓の高さ以上で保持すること、三角巾の使用も有効だといったお話をさあれ、、その場で首からかけてくれたりもしました。
 有難いことです。

 後悔したのは、なぜ調べなかったのかということです。これだけ検索フェチな私が、どうして「腕 ギブス 腫れ」と検索窓に入れるのを怠ったのか――。

 まあ、そういうこともあるわな、という程度の話かもしれませんが。

                       (この稿、続く)

 

 

「良い子・悪い子・普通の子」~黄金週間、池袋のプラレール博に行ってきた

 ゴールデン・ウィーク中に
 ハーヴと一緒に池袋の「プラレール博」に行ってきた。
 その会場情報(来年のために)と
 そこで見た子どもたちについて考えたこと

というお話。

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【池袋サンシャインシティプラレール博」】

 大型連休中の話ですが、孫のハーヴを連れて池袋のサンシャインシティ「プラレール博」を見に行ってきました。正式には「プラレール博 in TOKYO~超デカッ!プラレールトンネル登場!~」というのだそうです。

 プラレールというのは青いプラスチックのレールの上を走る鉄道玩具のことで、単三電池一本で自走する三両編成車両は全国のJR・私鉄をモデルとしていて、これまで発売されたものは何百種類あるのか分からないほどの人気商品です。ハーヴも候補の1人ですが、ここから何人の鉄オタが育ったか分かりません。

 そのプラレールを一堂に集めて、展示やらイベントやらをやるのが「プラレール博」で、ハーヴは前々からとても気にしていたのです。ただしこの大型連休は母親も父親もさまざまな事情があって連れて行けず、そこでたまたま東京に来ていた私に連れられて行くことになりました。

 当日は開場予定の10時の1時間前に着くように家を出て、実際には8時55分に到着しました。整理券をもらって組ごと呼び出されたら入場口に行くようになっていました。
 ところが私の受け取った券は第2グループで、受け取って10mも歩かないところで回収され、そのまま待合所のような広いスペースに入れられてしまいました(上の写真)。何のための整理券なのかよく分かりません。

 入場までの時間をあちこちで潰す予定が、いきなりの待合所に入れられて少し困りました。これといって時間潰しのためのおもちゃを持ってきていなかったからです。母親のシーナにLINEで助けを求めるとYoutubeの鉄道動画などを紹介してくれましたが、あまりもちそうにありません。

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 ところがハーヴは、私の心配をよそにたっぷり一時間、プラレールのカタログを見たりジュースを飲んだりしておとなしく過ごしてくれたのです(右写真)。

 何ておりこうなんだ!!

 そこへ来るまでの電車の中も、そこそこ距離のある歩行の間も、ずっときちんとしてここでも大人の対応!
 ハーヴ、偉いぞ! その子を育てたシーナたちも偉いぞ!
と感心したのですが、周りをよく見るとほとんどがそんなおりこうさんばかりなのです。

 みんなも偉いんかい?

 もちろんギャーギャー騒ぐ子もいますが、それはまず確実に2歳以下の子どもです(体に貼ってある“迷子シール”に年齢が書いてある)。3歳以上はみんなおとなしく待つことができている――。

 そこには混むことを予定してさまざまなものを持ってきた親たちの深謀遠慮もあるわけですが、それにしても我慢強い。
 都会の子は待つことに慣れているということなのか、田舎の子でも3歳以上はこうなのか、そのあたりはよく分かりませんが少々驚きました。

 

【会場内部の様子】

 第2グループのお尻くらいで待合所に入って待つこと一時間。第1第2グループは同時入場なので私たちでも10時10分くらいには入場ゲートを通過できました。

 フロアが三つあって、第1がプラレールトンネル(レールを積み上げてすべてに列車を走らせる)を中心とするジオラマエリア(フォトスポットもいくつかある)。第2フロアがプラレールショーと物販エリア。第3フロアが「プラレール釣り」や「模型づくり」のあるアトラクションエリア。

 10時に入場できた第一陣とはいえ私たちは最後の方、どこへ行ってもたぶん列のお尻ですからから選択権がありません。
 そこでまず一番から、ということでジオラマ中心の第1フロアに行ったのです。
 ところが驚いたことに、どうやら私たちより前の数百人はほとんどがアトラクションのフロアに行ったらしく、ジオラマ会場はガラガラ状態(下の写真)。

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 たっぷり30分はあちこち見物してショーの始まる第2フロアへ。ここもそこそこ空いてしばらく見た後、物販では帰りに買うものを確認しそのまま第3フロアへ移動しました。

 しかし思っていた以上にどこも混んでいて、レール遊びの場所は約1時間待ち。結局どの列にも並ばず、第1フロアに戻ってきました。するとこんなふうになっていたのです。

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 これでもまだ混乱の序の口。おそらく30分毎くらいに次々とグループを入れたのでしょう。この後さらに混んできて、11時ごろにはプラレールトンネルを通過するのに「1時間待ち」になってしまいました。始まったばかりのころはハーヴが10分間で3回くらいも通過した場所なのに。

 私たちは、なんて運がいいんだろう!

 さらに30分ほど遊んで、最後に買い物をして帰ろうとしたのですが、今度はこれが大変。下調べの時にはガラガラだった物販エリアもぎゅうぎゅう詰めで、おまけにレールは「量り売り」などという凝ったことをしているので、「計量」で長蛇の列、「会計」で長蛇の列とうんざりするほど待たされました。
 買ったものを手に持ったままで会場を回るのが嫌なので後回しにしたのですが、やはり「今できることを後回しにしってはいけない」というのは真実でした。

 

【考えさせられた子どもたち】

 先程、“3歳以上の子はみんなおりこうさんだった”みたいな言い方をしましたが、実はそうでもない子もいました。

 ひとつはパイロンとコーンバーでつくった仕切りをくぐって展示物に触ろうとする子たちです。親が何度注意してもすぐにバーをくぐろうとします。注意の言葉が抑制として全く働きません。

 さらに大変なのが、そのコーンバー伝いにジオラマ周辺をぐるっと回ろうとする子。たくさんの子どもたちがバーに張り付くようにしているのに、それをいちいち蹴散らし跳ね除けて進んで行くのです。

 親は何をしているのだという思いと、こんな子は簡単に親を振り切ってしまうだろうなという思いが、同時に訪れました。いずれにしろこの子たちの親は大変です。

 子どもを育てる三つの要素、持って生まれた性格、親の育て方、学校を中心とするその子の社会環境。
 その中で「持って生まれたその子の性格」というものがいかに大きいか、シーナやアキュラを育てた私自身の経験や、今、孫のハーヴの育ちを見ながら思うのはそのことです。

 育てにくい子を持つ親は他の親より数倍も優れた養育力を持たなくてはなりません。しかしそういう優れた力を持つ人を選んで難しい子が生まれてくるはずもなく、難しい子を持ったからといって急に養育力が高まるわけでもありません。

 私は年がら年じゅう教員の多忙を嘆き、なんとかしろと言い続けている人間です。しかしそれでも他にできる人がいない以上、難しい子の成長は教師が本気で支えていくしかない、そう思っている人間でもあります。
 親はなんといっても素人ですから。 

 

 

 

「都市の盛衰と文化」~二つのクリムト展を観てきた 3

 クリムトの生涯は ウィーンの再開発とともにあった
 ウィーンの興隆がモダニズムを支えた
 そしてウィーンが終わるとき ウィーンモダンもクリムト
 エゴン・シーレも終わってしまった

というお話。

f:id:kite-cafe:20190517072731j:plainグスタフ・クリムトベートーヴェン・フリーズ」《左側》部分)

グスタフ・クリムト

 ウィーンで空前の建設ラッシュが始まったころ、グスタフ・クリムトはその郊外に彫り師の子として生まれました。7人兄弟の第二子で、二人の弟もそれぞれ彫刻師、彫金師になっていますからいわば芸術一家、というより職人一家だったようです。


 3人とも博物館付属の工芸学校に学び、そこで知り合ったフランツ・マッチュとともに学生時代から美術やデザインの請負仕事を始めます。まだ十代の後半に差し掛かったばかりのころです。

 学校を卒業すると弟のエルンスト、友人のマッチュとともに芸術家紹商会をつくり、クリムトはさらに精力的に室内装飾の仕事に取り組みます。
 24歳のころにはリング通り沿いに建てられたブルク劇場の装飾を任され、続いて美術史美術館、のちにウィーン大学講堂の天井画なども手掛けるようになります。

 芸術家としての出発はかなり順風満帆で、クリムトは早くから名声を博し、31歳の若さでウィーン美術アカデミーの教授にも推薦されています(実際には就任しなかった)。しかしその前後から運命に狂いが出始めたようで、父と弟のエルンストをほとんど同時に失ったり、1894年に手掛けたウィーン大学の天井画は著しく評判が悪く、撤回せざるを得なくなったりしています。

 1897年には自身も参加していた美術家組合とうまく行かなくなり、脱退して新しい組織を立ち上げます。
 「ウィーン分離派」です。
 
 

ウィーン分離派

 当時のウィーンは「音楽の都」としてはつとに有名でしたが、美術の方はさっぱり発展せず、フランスで興った印象派の影響もほとんど受けていませんでした。

 印象派に大きな影響を与えたジャポニズムを決定的にしたのは、1873年のウィーン国際万国博覧会(*)だったにもかかわらず、です。

(*)ウィーン万博は明治政府がはじめて正式に参加した万国博覧会で、1300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居とその奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置したりしました。
 シーボルトの紹介で日本政府にアドバイスすることになったG・ワグネルは、西欧の模倣でしかない日本の工業製品を展示することに何の意味もないと考え、日本的な美術工芸品を中心に出展することを勧めました。
 そのため産業館には浮世絵や工芸品を展示し、そこに置かれた名古屋城の金しゃちほこや鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いたといいます。会場で販売された産品は飛ぶよう売れ、閉会後はイギリスの商社が日本庭園を丸ごと、木石まで買い取ってしまったそうです。

 クリムトはそうしたジャポニズムの影響もしっかりと取り込んでいます。
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 今回、新美術館に展示されている「愛」(右図)では、上の両端に描かれた植物は、よく見れば薔薇ですがうっかりすると白梅にしか見えません。
 一昨日紹介した東京都美術館に展示されている「ユデットI」は、クリムトが初めて金箔を使った作品ですが、これは尾形光琳の影響だと言われています。

 ウィーン分離派は基本的に美術家組合に飽き足らない人々の集まりでしたので、雑多な才能がひしめいていました。そのことは必然的に分離派を絵画・彫刻・工芸・建築を合わせた総合芸術へと向かわせることになります。

 計23回開かれた分離派展でまず注目されたのはポスターであり、やがて建築模型や家具、食器なども評判になります。
 結成メンバーのひとり、ヨーゼフ・ホフマンはウィーン工房を立ち上げ、住宅・インテリア・家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品・本の装幀など、生活全般に関わる様々な分野でデザインを行いましたが、今回の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」にはそうした作品も数多く展示され私たちを楽しませてくれます。

 クリムトはウィーン工房に強い関心を示しましたが、分離派の一部は美術の商業化だと激しく非難しました。
 1905年、クリムトは自ら立ち上げたウィーン分離派を去り、以後は上流階級の女性の肖像画や風景画を数多く書いて過ごしました。

 1918年、第一次世界大戦の終わった年に、クリムト脳梗塞と肺炎によりウィーンで亡くなります。それは同時にハプスブルグ家のオーストリア帝国の終焉であり、チェコスロバキアハンガリーユーゴスラビアポーランドが次々と独立し、ウィーンの衰退も決定づけられたのです。
 
 

【都市の盛衰と文化】

 「ウィーン・モダン」と呼ばれる芸術上の一大潮流はウィーンの都市開発と密接な関係を持っていました。
 ハプスブルグ家はマリア・テレジア以来の潤沢な資金をふんだんに都市に投下し、それが経済をフルに動かし、クリムトたちの芸術運動を下支えしたのです。経済的発展が文化と密接につながっていることを示す典型的な事例です。

 ときおり、環境保護社会福祉の観点から、
「もうこれ以上の経済発展は望まない。これからは人を守り、環境を守り、つつましく生きて行こうではないか」
 そういった意見を聞くことがあります。

 個人の生活としてはそれもいいでしょう。
 しかし国全体として考えるとき、経済発展を止めてしまって果たして今の文化水準を守ることができるのか――そういう怖れが私にはあります。環境保護にも社会福祉にも、経済発展は欠かせないのではないかという経済半可通の恐怖です。

 クリムトの弟子のエゴン・シーレの作品から、師の影響を感じ取るのはとても困難です。それは師が追い手に帆をかけて颯爽と生き抜いたのに対し、30歳も年下のシーレが、ヨーロッパが自信を失い迷い始めた時期に生きようとしていたからです。その絵画表現には憂いと迷いがあるといえます。
 第二次大戦の終了とともにヨーロッパの覇権もオーストリア帝国も、ウィーン・モダンもクリムトもシーレも、すべて終わってしまった――。

 国立新美術館「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」で、クリムトとシーレが同時に語られるのはそのためです。
 

***********************************

東京都美術館
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」
2019年4月23日(火)〜 7月10日(水)
《休室日 5月7日(火)、20日(月)、27日(月)、6月3日(月)、17日(月)、7月1日(月)》
開室時間  午前9時30分~午後5時30分
 ※金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)


国立新美術館
「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」
2019年4月24日(水)~8月5日(月)
毎週火曜日休館
開館時間 10:00~18:00
※毎週金・土曜日は、4・5・6月は20:00まで、7・8月は21:00まで
※5月25日(土)は「六本木アートナイト2019」開催にともない、22:00まで開館。
※入場は閉館の30分前まで


「国立新美術館のクリムト」~二つのクリムト展を観てきた 2

 国立新美術館の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」は
 クリムトが時代と社会からどういう要請を受けて生まれてきたかを提示する
 そこには悲劇の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が生み出した新生ウィーンの
 たくましく発展する姿が重なる 

というお話。

f:id:kite-cafe:20190516072319j:plainグスタフ・クリムトベートーヴェン・フリーズ」《右側》部分)

 

国立新美術館クリムト

 国立新美術館の、「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の何が良かったのか――。
 ひとことで言うとそれは、いかなる理由でクリムトが世に出てきたか、歴史と社会の中で芸術家はいかに育ってくるのか、その2点がとてもよく分かったからです
 
 

【ダ・ビンチとゴッホは違う】

 芸術と言えど時代や社会情勢から自由ではありません。それは当たり前で、私はよく言うのですが「その人はどうやって食っていたのか。その答えが芸術を規定する」のです。

 例えばレオナルド・ダ・ビンチの最初のパトロンメディチ家の「偉大な君主」と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチです。次がミラノ公国の君主のルドヴィーコスフォルツァ。最後はヴァチカンの教皇レオ10世でした。いずれも第一級の権力者、超お金持ちです。
 そうなるとダ・ビンチの絵は、どんなに大きくても小さくてもいい。彼の絵の飾られる教会や宮殿にはさまざまなサイズの部屋がありますから、どっちみち飾る場所に事欠かないのです。。
 注文主が焦れて怒らない限り、完成までに幾日かけても構わない。一枚の絵の代金で数年分の生活費が賄えますから気楽にやっていられます。
 ただし基本的に注文制作ですから好きなものを描いて買ってもらうという訳にはいきません。どうしても描きたいものがあれば、勝手に描いて自分で持っているだけです。有名な「モナ・リザ」はおそらくそうした作品です。死ぬまで側に置いて手を入れていましたから。

 しかしずっと後のゴッホとなるとそういうわけにはいきません。彼の絵は画商を通して小金持ちの邸宅に飾られることが予定されますから、自然とサイズは決まってきます。
 ダ・ビンチの絵の飾られる建物と比べるとずっと小さくなりますが、その分むしろ採光はいい。つまり明るい壁に掛けられる絵ということになります。コントラストを強めにして主人公を浮き立たせるといった工夫はいりません。
 モノクロとはいえ、すでにカメラのある時代です。本物そっくりに写すという点では写真にかないませんから、自然とフォルムは甘くなります。しかしそのことは芸術家をむしろ自由にしました。

 つまりダ・ビンチとゴッホでは、絵画の歴史的な発展以外に、まったく異なった表現を生み出すだけのたくさんの条件があったわけです。

 では、クリムトが世に出てきた歴史的・社会的条件とは何か――。
 国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の面白さはそこにあります。
 
 

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世】

 ウィーンに生まれウィーンに死んだグスタフ・クリムト1862年-1918年)の生きた時代は、ほぼオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に重なります。
 
 フランツ・ヨーゼフ1世(以下、ヨーゼフ1世)は、フランス2月革命のあおりを受けて起こったオーストリア3月革命の混乱の中で、わずか18歳で叔父から譲位され、86歳で亡くなるまで68年間も帝位にあった人です。

 3月革命でいったんは革命派に押し込まれたもののその後盛り返し、新絶対主義と称する新しい絶対主義を打ち立てて自由主義国民主義を抑圧しました。

 新絶対主義というのは、「民衆への政治的権利を譲渡しない代わりに、皇帝は万人のための近代的な経済・行政・教育システムを完全に保障しなければならない」と理論づけられるもので、一面で開明的ではありましたが、ヨーゼフ1世自身は王権神授説を頭から信じているような古い一面も持ち合わせていました。国民は大いに失望します。

 ただし即位後に繰り返された戦争では常に将兵の先頭に立ち、死を恐れなかったことからまず軍人の信頼を勝ち取り、続いて起きた自らの暗殺未遂事件によって民衆の同情を得ると、次第にオーストリア国民に受け入れられるようになり、やがては絶大な敬愛を受けて「国父」と称されるまでになり、その治世は安定します。

 彼の生涯は戦争には負け続け、聡明で将来を期待された長男には情死(心中自殺)され、国民的人気を誇った最愛の王妃も暗殺されるという不幸なもので、晩年、後継に指名したフランツ・フェルディナント大公は夫人とともに1914年6月サラエボで暗殺されてしまいます。これが「サラエボ事件」で第一次世界大戦の直接の契機となります。ヨーゼフ1世は84歳で宣戦布告の書類に署名し、その終結を待たずに亡くなりました。
 オーストリアハプスブルク帝国はその二年後、滅ぶことになります。
 
 

【リング通り】

 ヨーゼフ1世の生涯はまったくさえないように見えますが、首都ウィーンに限って言えばむしろハプスブルク家絶頂の感がありました。
 ウィーン市内の人口はすでに18世紀から増え続けていましたが、19世紀前半の50年間だけで倍増し、住まいを求める人たちは20万人にも膨れあがっていたのです。

 当時のヨーロッパの都市は大部分が周囲を壁で囲まれた城塞都市でしたが、ウィーンも例に漏れず、小さな枠の中に自身を押し込めていたのです。それが今や限界となりつつありました。

 またその頃、武器の大型化によって“城壁で都市を守る”ということ自体が意味をなさなくなっていて、ヨーゼフ1世はついに城壁の撤去を決意します。

 壁に沿って続く広い空き地は戦略的に重要なものでしたが、それも整備して全体を道路とします。期せずして巨大な環状道路ができたわけです。これをリング通り(リング・シュトラーゼ)と言います。

 そのリング通り両側に、ゴシック様式を模した市庁舎や新古典様式の帝国議会、美術館、博物館、教会などが次々と造られます。巨大な兵舎や国防省、警察の中枢――空前の建設ラッシュが始まり、装飾画家のクリムトが縦横無尽に仕事する場がこうして用意されるのです。

                (この稿、続く)
 
 

「東京都美術館のクリムト」~二つのクリムト展を観てきた 1 

 東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本 1900」を観てきた
 どんな場合も本物を観ることは重要なことだ
 分からなかったものが 鮮やかに理解できることがある
 都美術館では「ベートーヴェン・フリーズ」が圧倒的だった
 壁のあの高さ あの大きさの「ベートーヴェン・フリーズ」は
 展覧会でないと観ることができないからだ
 しかしやや食い足りない面もあった

というお話。f:id:kite-cafe:20190515150235j:plainグスタフ・クリムトベートーヴェン・フリーズ」)

東京都美術館の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」】

 グスタフ・クリムトに関する二つの展覧会を、二週連続で二つとも観てきました。

 東京都美術館「クリムト展 ウィーンと日本 1900」国立新美術館「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」です。

 東京都美術館の方はだいぶ前から知っていて前売り券も用意していたのですが、新美術館の方はタイトルの前半にしか覚えがなく、今回東京都美術館に行くにあたって休館日や開館時刻を調べているうちに突然気がついたのです。

 もしかしたらタイトルの「クリムト、シーレ」の部分は私の調べた時期にはなかったのかもしれませんが、そうではなく、最初からあったものとすれば「150周年記念ウィーン・モダン」と読んだだけで後半を意識から飛ばしてしまったのかもしれません。もともと私は「○○美術館展」とか「○○時代アート展」とかいったものを好まないからです。

 私が好きなのは個人の総合展のようなもので、作家がどういう変遷を成長をたどってきたかを見ることのできるもので――というか、そういう鑑賞の仕方をして初めて「ああ、だからこの芸術家の表現はこうなるのだ」と分かるような気がしているからです。
 美術館や時代で括った展覧会だと個々の作家の作品は数点に留まることが多く、慧眼の鑑賞者ならともかく、私のようなポンコツには理解できません。

 東京都美術館の「クリムト展」はその意味で納得できるもので、グスタフ・クリムトの成長と変化の跡はしっかりと見て取ることができました。

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 修行時代の自然主義的な作品から装飾画家として独り立ちを果たした時期、初めて金箔を用いた代表作「ユデットI」やいかにもクリムトらしい「女の三世代」「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」など、よく知られた作品が多く並びます。
 中でも「ベートーヴェン・フリーズ」は複製とはいえ、本物が展示されているウィーンの「分離派会館」の室内を模した「コ」の字型の壁に掲げられて圧倒的な存在感をみせていました。
 フリーズと言うのはギリシャ建築などで屋根のひさし下の帯状装飾のことを言うようで、クリムトはそれにベートーヴェン「第九」リヒャルト・ワーグナーの第九解釈を表現したといわれています。

 最後の展示室には多くの風景画が掲げられています。
クリムトは風景画にも独特の味わいがあって私は好きなので、その点で今回の展覧会は満足のいくものでした。

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 しかしクリムトクリムトたらしめている女性の肖像が、比率としてはずいぶん少なく、そちらの点では物足りないような気もします。
 名作「接吻」を持って来いとは言いませんが、もう数点、クリムトらしい女性の肖像画があったらさらに良い展覧会になったのにと惜しむ気持ちもありました。

 新美術館の方には「エミーリエ・フレーゲの肖像」が来ています。

 さほど興味のなかった国立新美術館の美術展ですが、クリムトの来日は30年ぶりとか。次の機会に私は生きていそうにありません。そこでエミーリエ・フレーゲに会いに行くだけでも価値はある、そう考えなおして翌週(つまり今週)の月曜日、ひとりで出かけてみたのです。
 他に用事もありましたし。

 ところがやはり新美術館の企画展は凄い。私はすっかり堪能して帰ってきたのです。

                          (この稿、続く)

f:id:kite-cafe:20190515150543j:plain本文挿入(上から)「ユデットI」「エミーリエ・フレーゲの肖像」「女の三世代」