「私は他人に合わせることを主体的に選んでいる」~日本人は同調圧力に負けてマスクをし続けるのか②

 政府の意向に従って、花の都の上野の杜を顎マスクで歩いている。
 もちろん人通りの多いところや屋内では普通に口を覆う。
 それで誰も何も言わない。
 これが「同調圧力でマスクを外せない国」の姿なのだろうか。
 という話。(写真:フォトAC)

【日本人がマスクを外さないのは同調圧力のためなのか】

 政府は何とかして屋外の日本人からマスクを外したいようですが、外国人観光客が日本に来ずらいといった実態でもあるのでしょうか、それとも外国の会議に出る際、国内を慮って日本人の政治家だけがマスクをしているのが恥ずかしいからでしょうか?
 いずれにしろコロナ禍の初期、あれほど「ウィルス感染にマスクは無効」といったアナウンスがあったにも関わらず、一斉にマスクを買いに走った日本人は、外せという指示にも従いません。

 一方でマスクを外したい一部の人たちは、等質性を好む多くの日本人に互いを締め付け合う同調圧力が働いているからだと言って”遅れた“日本を嘆いていますが、ほんとうに私たちは同調圧力のためにマスクを外せないでいるのでしょうか?

 インタヴューをすれば人々は「他人の目が気になる」と言い、「街の人たちの半数(あるいは三分の一)が外したら自分もマスクを外す」と言ったりします。そこから同調圧力の話が出てくるのですが、コロナ禍初期はまだしも、現在、人間が密集しない屋外でマスクをしないからと言って怒ったり注意したりする人はどれほどいるのでしょう? 仮にいたとしても、それは日本人の一万人にひとりくらいの特別な人なので気にする必要はありません。

 実際に先週の土曜日、上野の美術館に予約時刻よりも15分も早く着いた私は、しばらく顎マスクであたりを散策しましたが、誰も変な目つきでこちらを見たりしませんでした。そもそも私のことを見ていない。

【私は他人に合わせることを主体的に選んでいる】

 昨日も言いましたが、私に限って言えばマスクをするのは同調圧力のためでなく、主体的な同調行動です。ファッションやIT機器を選ぶように、自らの意志でマスク着用を選んだのです。
 もちろん「他人の目」も意識しますが、それは人々がどんな反応をするか心配だということでなく、彼らの意志がどこにあるのかを探らなくてはならないからです。探ったうえで、信念に大きく反しない限り、できるだけ多数派の側に身を置いていたい、余計な争いごとや気づかいさせたるようなことはしたくないという思いから、同調行動をとっているに過ぎないのです。別な言い方をすれば1400年前の聖徳太子の「和を以て尊しとなす」をかたくなに守っているだけのこと、圧力に負けたわけではありません。

 屋外において日本人がなかなかマスクを外さないのは、こうした凡人がこの国では主流だからだと私は考えています。他人はどうでもいい、今はマスクが多数派だからオマエも合わせろと言うつもりもない、ただ私がみんなと同じでいたいのです。

 そうした行動を取りたがる日本人の性向自体が問題なのだというお話しでしたら、筋が違いますから別の機会にしましょう。「いやいや、ほとんどの人がマスクをしているという状況そのものが圧力になるのだ」ということでしたら、それも「多数派はどこまで少数派を慮ってやらなくてはならないか」という別の問題ですからこれも別にします。
 いま話しているのは、2022年暮れの現状で、マスクをつけろという同調圧力がほんとうにあるかどうかということです。

【不満に同調せず、不満を見捨てず】

 私は結局、いまの状況を「同調圧力」という用語を使って説明し非難する人たちは、自分がマスクを外して街中の少数派になる選択ができないことに苛立っているのではないかと疑っています。自分に変わる勇気がないから、みんなの方で変われ、ということです。
 同様のことは、いまの日本社会にはまだまだ年功序列が残っている、だから自分はやりがいのある仕事を任されない、あんな無能の下にいなければならない、出世ができないという人も、それは半分以上が自分の責任で、真の実力社会ではひとたまりもない人たちではないかと疑っているのです。

 もちろん社会的要因で願いのかなわない人もいれば、個人的な能力や努力ではいかんともしがたい場所にいる人もいますから一概には言えませんが、社会の不満に同調することなく、しかも見捨てることなく、そうした人たちの話を聞いて行こうと、私は思っています。
 

「それぞれの国のそれぞれの同調圧力」~日本人は同調圧力に負けてマスクをし続けるのか①

 久々に都会に出たが、人出は多く、そのほとんどがマスクをしている。
 彼らは同調圧力に屈した人々なのだろうか?
 少なくとも私はそうではない。自らマスクを選び取ったのだ。
 同調圧力なんてどこの国にもあり、日本が特別なわけでもないはずだ。
という話。

【東京に行ってきました】

 ちょっとした用事があって久しぶりに東京に行ってきました。そのついでに美術館に行ったり東京駅近くで知人と食事をしたりと、私としては極めて珍しい2日間を過ごしてきました。
 コロナ感染第8波上昇中というのに何をしているのだと自分自身思わないわけではありませんが、一方で感染予防が叫ばれながら他方でマスクを外して旅に出ようみたいな政府のキャンペーンもある中で、何をどうしたらいのかよく分からなくなっているのです。

 とりあえずオミクロン対応のワクチンは接種してあるし、東京の単位人口当たりの感染者数は我が田舎県の半分以下しかないところから、「ウイルス感染しないように」ではなく、東京の人より私のかかっている可能性の方が高いので「感染させないように」を気にしながら、2日間を楽しんできました。しかしそれにしても街々の人出は多かった。しかも大半の人は屋外でもマスクをつけたままなのです。

【私は自らの意志でマスクを手放さない】

 私はメガネをかけている上に鼻孔に形態上の問題を抱えていて、そのためマスクなんて大嫌いです。幸い年金生活者なので家族以外の人と会う機会はほとんどなく、畑仕事が生活の半分なのでカラスやタヌキからうつされる心配さえしなければ、一日中マスクなしでいられる生活を2年半も送ってきました。
 つまりマスクをしないことが常態なのですが、そんな私でも、さすがに買い物で店に入るときや、今回東京で過ごした二日間も人通りの多い屋外にいる時間は、ずっとマスクをつけたままでした。政府からは人と十分な距離が保てる場合はしなくてもよい、と言われているにもかかわらずです。
 それはなぜか?

 ここで同調圧力の話を持ち出すのは正しくはありません。なぜなら私は自分から進んでマスクを受け入れたのであって、何ぴとの圧力も感じてなかったからです。自主的な行動です。これを同調行動というのだそうです。ファッションやコンサート会場での立ち振る舞いなどが同じ領域に入ります。
 同調圧力は逆で、行動の主体が他にあります。「少数意見を持つ人が多数意見に合わせるよう暗黙のうちに強制する」のは他者であって自分ではありません。ちなみに「法律を守れ」「マナーを守れ」といった内容は多数決の問題ではありませんから、これも同調圧力と呼ぶのはいかがなものかと思います。

 同調圧力はコロナ禍の初期、マスク着用や行動自粛を迫る社会の雰囲気として突然もち出されてきた言葉で、日本は特にそれが強い国だと言われています。しかしどうでしょう?
 コロナ禍初期は多くの人が恐怖に駆られていた特殊な時期で、江戸時代の村ならまだしも、近現代において日本が特に「少数意見を持つ人が多数意見に合わせるよう暗黙のうちに強制する」傾向が強かったとは、私にはとうてい思えないのです。
 同調行動をとることが好きな国民で順法意識も高いですからどうしても同質性は高くなってしまいますが、同調圧力なんてどこの国に行ったってあることではないのでしょうか?

【それぞれの国のそれぞれの同調圧力

 私が最初にそれに気がついたのは、むかし勤めていた学校でアメリカ人のALT(外国語指導助手)と話した時です。彼女はこんなふうに言うのです。
「私はシャイでナイーヴな性格なので、日本が合っていて、日本がとても住み心地いい」
 シャイなアメリカ人がいるというのは驚きでしたが、考えてみればあたり前のことで、どんな国にもいろいろなタイプの人間はいます。シャイな彼女は生き馬の目を抜くような母国でおそらくたいへんな苦労をしてきたのでしょう。
アメリカでは陽気でないと生きていけない。それが苦しい」

 また最近聞いた話では、アメリカ人は「ひとり飯」ができないのだそうです。ひとりで食事をしていたりすると必ず誰かが走ってきて、
「まあ、どしたの? 友だちがいないの? 一緒に食べてあげようか」
といったふうになってしまうらしいのです。そう思って見なおすと、確かにアメリカ映画の食事風景は異性どうしにしろ同性どうしにしろ、必ず誰かと食べているように見受けられます。こういうことも同調圧力というのではないでしょうか?

 フランス人は自由・平等・博愛を起点と国づくりをしてきましたから、いまでも自由を最大の価値として容易に政治家の言うことをききません。そんなところからシャルル・ドゴールは「人間を知れば知るほど、私は犬が好きになる」と言い、昨年6月、ロックダウン中のパリ、エッフェル塔下で、バカ騒ぎをした若者たちにマクロンは激怒せざるを得なかったのです。しかし当時のフランス人だって未知のウイルスであるコロナが怖くなかったはずがありません。中には意に反してバカ騒ぎやホームパーティに参加せざるを得なかった人もいるはずです。かれらは自由でなくてはいけないという同調圧力に縛られています。

 私の友人のひとりは、若いころ留学で行ったイタリアでホームスティ先の男の子に、「ナンパのしかたを教えてほしい」と言われて面食らい、自らの生き方を反省したと言います。女性に声もかけられないイタリア人というのも、生きずらそうです。しかしその子は「この国では男の子がまず声をかけなくてはいけない」という圧力のもとにいます。

(この稿、続く)

「日本人ブランドを高め、維持する」~ワールドカップ清掃の何が悪い!②

 ワールドカップの会場での清掃は、
 結果的に日本人ブランドを高め、維持することに繋がる。
 企業の仕事も外交もやり易くなる。それをわざわざ、
 ゴミを増やして、彼の国の身分制度を維持してやる必要はない。
 という話。(写真:フォトAC)

【いきり立つほどのことはなかった】

 カタールサッカー・ワールドカップ会場では、日本人サポーターたちが敗戦にも関わらずスタジアムを清掃して、また海外のメディアで評判になっています。別の国では敗戦に怒った市民が暴動を起こしたといった報道もあり、対比されたわけでもありませんが、自ずと日本の評価を高めることになりました。諸外国はサッカーで暴動を起こすくらいが当たり前ですから。
 
 昨日は金曜日以来のわだかまりと敗戦ショックで言いたいことを一気にまくしたてましたが、落ち着いて考えたらワールドカップ清掃にケチをつけられたことなど、大した問題でもありません。
 Twitterで価値に小便をかけた(スミマセン、二日たっても適切な表現が浮かびません)人たちも、これが不道徳な人物でなければ私も頭に来たりしませんでしたし、有名人でなければTwitterで評判になりYahooニュースで取り上げられることもありませんでした。いつも申し上げている通り、日本には1億2600万人に近い人が住んでいて1万人にひとりといった稀有な変人が1万2600人もいるのです。その中に有名な悪人が二人ほど混じっていて、だから少々騒ぎになったという、その程度の話です。気にしないようにしましょう。

 もっともTwitterのアクティブユーザーは4500万人もいるとかで、そこからわざわざこの二人を選び出して記事にしたのはYahooニュースです。
 通称ヤフコメと言われるYahooニュースのコメント欄は、旧2ちゃんねるの流れをくむ人々の鬱憤投擲場みたいな言われ方をします。しかしなかなかどうしてYahoo自体がせっせと炎上のタネを探し出しては競技場の中央に投げ込んだりしている様子もあるのです。炎上による広告収入が目的なのでしょうが、ニュースと名乗っているにしてはあまりにもエゲツナイ態度。そうは言っても私もしばしば投擲参加者ですし、Yahooニュースの便利さには勝てませんが――。

【あの人たちは私たちが育ててきた】

 ところで、悪人のひとりの大王製紙元会長は、
サッカー場のゴミ拾いを褒められて有頂天になる日本人が悲しい そんなちっぽけな自尊心が満たされてうれしいか?」
などとおっしゃっていますが、私は日本人が褒められるのを聞くとどうしてもうれしい。ひとつには単純に、日本代表がドイツに勝って嬉しいとか、別の場面では日本人大リーガーが活躍してうれしいとか、オリンピックで日本選手が金メダルをとったのでうれしいとか、そういったのと同じです。ちっぽけかもしれませんが同胞が活躍するのは悪い気はしません。清掃をしたのはサポーターの日本代表みたいな人たちですから、誉められるとやはりうれしい。

 そして同時に、公共の場を美しく整えるという習慣は、「自分の出したゴミは捨ててはいけません」とか「来た時よりも美しく」とか「クリーン大作戦(遠足などの行先での清掃活動)」とかいって私たちや私たちの先輩が、繰り返し教え訓練してきたことだからうれしい。
 もちろん親も企業も地域も清掃の重要性を指導してきましたが、計画的・組織的・全体的に子どもを指導したのは、日本では学校と幼稚園・保育園だけです。そうした教育の成果が、いま遠い外国の地で花咲いている、うれしくないわけがないじゃないですか?

【日本人ブランドを高め、維持する】

 日本人の評価を高めることは日本ブランドを高め、維持することです。
 いまとなれば信じられないことですが、私が子どもだった1960年代、日本の工業製品といえば「安かろう、悪かろう」だったのです。おそらく1920年前後、第一次世界大戦が終わったばかりのヨーロッパに大量に流れ込んだ日本製品が粗悪だったからでしょう。60年代といえばそのわずか40年後でしかありません。そこからソニーやホンダを先頭に、地道な努力を重ねてようやく日本製品のブランド化は進められたのです。

 そして同時に海外の日本人駐在員や旅行者は、日本人自体をブランドとして育てることに成功しました。日本人だというそれだけの理由で、信頼してもらえる世界をつくったのです。
 今や多くの国々で、日本人は手続きを簡略化してもらったり優先的に対応してもらえたりするようになっています。信用度が違うのです。ワールドカップの清掃は、それを一段と強化するはずです。

 国際サッカースタジアムで掃除をしたくらいで、とバカにする人もいますが、評価とかブランド作りとかは、そうしたささやかな活動の積み重ねの上にしか成り立ちません。大量の資金と人員を注ぎ込んで次々とインフラを整備をするだけの国が、どれほど地元の人々の信頼を勝ち得るかは、彼の国を見ればわかることです。

【下層民の生活を守ることで身分制を維持させる】

 昨日までの報道では、イラン、サウジアラビア、モロッコやフランスなどのサポーターも清掃活動を始めたとか。サッカーといえば勝っても負けても飲んで暴れるフーリガンのような行動がつきものですが、「サッカーといえば応援グッズと一緒にゴミ袋をもって行くものだ」といった文化が定着すればどんなにすばらしいことか。資源保護だとかSDGsとか言っても、結局はそういったところから始めるしかないのです。

 舛添さんの言う「観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう」というのは筋の違う話で、「ゴミを増やすことが、清掃を業にしている人を豊かにする(だからどんどん捨てよう)」と言い換えればとんでもないことだとすぐに分かります。
 たかがワールドカップ中のごく一部の試合で、観客が掃除をすると失業者が増えるなどということはないと思いますが、それにしても下層民の生活を守ることで身分差別を続けさせることに、それほどの意味があるとは、とうてい私には思えないのです。
 

「不道徳な人間に道徳を教えられる」~ワールドカップ清掃の何が悪い!①

 残念ながら昨夜のコスタリカ戦は零封殺。
 しかし負けたスタンドとロッカーで、そのあと黙々となされたことがある。
 その場を清掃し、整えることだ。
 この美風に、何人たりとも、ケチをつけてはいけない。
 という話。(写真:フォトAC)

【封殺されたそのあとで】

 生粋のコンジョウナシで、期待が裏切られるのが怖いばかりに昨夜も午後7時のキックオフをリアルタイムで見ることができず、NHKニュースを見たあとで30分ほど家事をし、8時からは「鎌倉殿の13人」で実朝が暗殺され、公暁が惨殺されるのを見たところでチャンネルを変えると、間もなく日本代表がカタールで封殺されてしまいました。
 どうやら日本チームは私が見ていないと勝つというのは思い込みで、私なんぞが見ていようがいまいが、勝つときは勝ち、負けるときは負けるようです。当たり前ですが――。
 しかし勝っても負けても、現地の日本人サポーターや選手には、試合のあとやるべきことが残っています。スタンドとロッカールームの掃除です。悲嘆にくれるその時間を、間違いなく黙々とゴミ拾いしているに違いありません。

【不道徳に道徳を語られる】

 話を4日ほど戻します。
 水曜日、勤労感謝の日の夜、布団に入ったままワールドカップ・サッカーの日本対ドイツ戦を見ていたのですが、前評判通り一方的に押しまくられていて、1点取られてなお状況が悪くなり続けたのでハーフタイム前にスイッチを切って、寝ました。贔屓チームを最後まで見届けられないコンジョウナシです。そして朝、起きたら世界が変わっていた――。

 その日のテレビは朝から晩まで日独サッカーの話ばかりで、堂安も浅野も、一生分のシュートを一日で決めているような有様、やがて夕方あたりから外国メディアは日本人サポーターがいつもの通りスタジアムの清掃を行ったことを尊敬の念をもって報じはじめ、遅れて選手たちのロッカールームが使用後、異常な美しさで清掃・整頓されていたという写真も出回って、いつものことですが、無関係な私まで、ちょっと鼻の高い気分でした。あのオリヅルもとても良かった。

 ところがその日のうちにヤフコメ(Yahooニュースのコメント欄)あたりに、「ワールドカップでは掃除をするが、Jリーグの会場は汚いまま」だとか、「使ったところをきれいにするなら、渋谷ハロウィーンはどうなんだ」とかいった、ケチをつける意見が散見するようになり、翌金曜日、大王製紙の元会長がツイッターで、「こういうの気持ち悪いからやめて欲しい」「ゴミ拾い褒められて喜ぶ奴隷根性」などと投稿、さらにサッカー場のゴミ拾いを褒められて有頂天になる日本人が悲しい そんなちっぽけな自尊心が満たされてうれしいか?」と重ねて投稿すると大炎上となり、一部には支持する意見も相当に流れたとか。https://twitter.com/mototaka728

 そうかと思うと舛添要一・前東京都知事ツイッターで、
「日本のサポーターがスタジアムの清掃をして帰るのを世界が評価しているという報道もあるが、一面的だ。身分制社会などでは、分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう。文化や社会構成の違いから来る価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない」https://twitter.com/MasuzoeYoichi
などと投稿し、それを読んだ瞬間、私の頭の中で数十か所の回路が一瞬にして切れました。

 一方は会社の資金100億円以上を引き出してギャンブルに使い、もう片方は税金から1年間で6000万円もの出張費を使い、湯河原と都庁の間を公用車で通い、大量の美術品や書籍を公費で購入した男です。こんな連中に道徳を語られ、しかも対象が私の最も大事にしているワールドカップ・サッカーやラグビーのサポーター・選手の話だったのでキレたのです。
 こんな美しい、道徳的な話に、なぜ小便をかけるような仕打ちができるのか――。

kite-cafe.hatenablog.com

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【美しいもの、道徳的なものを無条件で守る】

 そもそも「道徳教育」というのは美しい生き方・勇気ある生き方・価値ある生き方を学ばせ、「(今はできないにしても)自分もかくありたい」と強く願わせることを目的として行われるものです。
 道徳の授業なんてきれいごとばかりで実社会を反映していないとか、立派な人の話ばかりでさっぱり面白くないとか言う人がいますが、きれいごとだからいいのです。

 「開運 お宝鑑定団」の中島誠之助さんによりますと、鑑定師はよいもの、一流のものだけを見て育てられるのだそうです。本物だけを見て育った目には、偽物・まがい物はすぐにピンとくるのです。目が濁っていないので汚いものは嫌悪感をもって反応します。それと同じで、子どもたちは、善きもの、美しきもの、価値あるものだけを見て育たなければなりませんし、育つ権利があります。

 ナイチンゲールシュバイツァーマザー・テレサも、みんな幸福な子ども時代・青春時代を過ごした人たちです。そうした育ち方をした人たちの目に、貧しさや悲しさ、不幸な様子は実態以上に大きく映ってきます。そして嫌悪感が走るのです。貧しさや悲しさ、不幸そのものに対する嫌悪です。だから彼らは生涯を嫌悪するものの撲滅に捧げることができたのです。

 そうした観点から考えると、ワールドカップ(サッカーやラグビー、そしておそらくその他でも)でサポーターや選手たちが世界に見せる姿は、ほんとうに大切にしなくてはならないと思うのです。
(この稿、続く)

「財産はあってもなくても、いざという日のためにやっておくこと」~財産は残せばいいというものでもない③

 自分が死んだあとで、子どもたちが遺産を巡って不仲になるのは困る。
 自分が死んだあとで、財産がどこにあるのか分からないのも困る。
 自分が稼いだ金が手つかずのまま残るのも、早く底をつくのも困る。
 老人の悩みは尽きないが、ここに名案がある。
という話。(写真:フォトAC)

【定年を迎えたら、そろそろ遺言状を書く】

 子どものいない夫婦で、夫が死んだらとたんに今まで付き合いのなかった夫の兄弟姉妹が現れて、遺産の半分も持って行ってしまった、というような事態を防ぐ方法は簡単です。遺言状を書いておけばいいのです。
 自筆で、
「全財産を妻に譲る」
と書き、日付を入れて署名捺印。それだけでいいようです。さらに財産目録を加えておけば間違いありません(目録はパソコンでも可)。保管場所はどこでもいいのですが、現在は法務局で保管してくれるそうですから今度確認してみましょう。

 故人の兄弟姉妹ではなく、実の息子や娘たちの間での血みどろの相続争いを防ぐにも、遺言状は一定の効果を発揮するはずです。ただし内容がある程度の妥当性をもつものでないと、かえって災いのタネです。

 開いてみたら誰も知らない愛人の名前と「全財産を譲る」という記述があって問題が発生する、というのは推理小説でときどき出てくるパターンです。家族がいるのに「全財産を愛犬に譲る」というのもやめた方がいいでしょう。死んだ後で神様が許してくれません、たぶん。
 もっとも相続者が愛人であろうと愛犬であろうと、直系の親族と配偶者には“遺留分”という一定の認められた相続権利があり、それを冒してまでも全財産をそれらに渡すことはできないようです(例えば配偶者と子が相続人の場合、配偶者は遺産の4分の1、子も全員合わせて4分の1)。

【デジタル遺産の整理は急務】

 故人の預貯金がどこにどれくらいあるか分からない、有価証券があるかもしれないと言ったときは、心当たりの銀行・郵便局に片っぱし照会し、証券会社などからの手紙などを頼りに探しまくるということができますが、困るのがデジタル遺産です。とりあえずパソコンが開けない、スマホが開けないではなにも調べることができません。
 家人の知らないインターネット銀行口座があって、そこから常時ネット上の課金が引き出されているとなると、貯金は減る一方です。
 
 その他ちょっと考えただけでもネット銀行以外に、スマホ決済・証券口座・FX口座・暗号資産・ポイントなど、お金が入っていそうな場所はたくさんあります。逆に放っておくと支払いが止まらないものとして、サブスク・オンラインゲーム・有料クラウドなども、早めに気づいて停止すべきです。
 思い出としてブログやSNSの記録をどうするか、クラウド上の写真や動画、データをどうするかも、誰かに知らせておくべきでしょう。それらのいちいちについて、IDやパスワードが分かるようにしておかなくてはなりません。
 
 私は物覚えの悪いこともあって、この点については早くから整理してあり、パソコンのパスワードを記入してある場所は家人に教え、その他のIDやパスワード、課金の有無などはエクセル上に記録してUSBメモリに入れてあります。そのUSBも特別な場所にしまって家人に教えてあります。

【一番いいのは使い切ること・・・だけど】

 若い人の多くは自分の残す遺産などということを本気で考えませんから、
「自分が稼いだ分は、全部自分で使って死ぬ」
とか平気で言いますが、私のようにそれなりの歳になると、その厄介さに頭がくらくらするほどです。
 一番の問題は、当然「いつ死ぬか分からない」ということ。事故や病気で早死にして「全部自分で使って」の遥か手前で終わってしまうこともあれば、逆に予定よりも長く生き過ぎてしまい、まったく足りなくなってなお生きている、ということも考えられないわけではありません。どちらにしても目標未遂。ちょうどうまくいくなんて自殺でもしない限りありえないのです。

 では一般的に、日本人はどのくらいの財産を残して死んでしまうのかというと、これがよく分からない。
 ある調査では平均6,140万円、中央値3,450万円だと言います(*1)。平均値が中央値の2倍近くになっているのは何十億円も残した人たちが引き上げているためです。
 しかし法律では最低3,600万円、配偶者+子二人の標準家庭で4,800万円の基礎控除を越えると相続税を支払わなくてはならないのに、実際に支払っているのはわずか8%程度。中央値の3,450万円から考えると少なすぎる気もします。多くの家が枠内に収まるように節税しているか、調査自体が不正確なのかもしれません。
 ただ、前にも言ったように60歳以上の高齢者の貯蓄現在額が1555万円(中央値)で、遺産はその上に不動産などを加えて考えますから、予定外に多くの財産を残して死ぬというのは、どうやら事実のようなのです。

 しかしそれにしても自分で稼いだものを使い残して死ぬのは悔しいし、遺産となって死んだ後で感謝されてもうれしくない、そういう人は少なくないでしょう。
 ――私もそういう人間ですが、実はしばらく前、自分にピッタリの方法を発見したのです。それは残すのではなく、あげるというやり方です。

【死んで感謝されるより、生きているうちに感謝されたい】

 退職金もほとんど手つかずですし質素な生活も改められない、結婚以来の共稼ぎで妻にも多少の財産がある。そうなると手持ちの財産の大部分は将来、子どもたちへの遺産になってしまうわけです。だったら死んでから感謝されるのではなく、今のうちに渡して感謝された方がどれほどいいか分かりません。
 一気に数百万円、あるいは1千万円を越える(人によっては億を越える)金を渡して、子どもたちが身を持ち崩さないか――そうした心配をする人もいるかもしれませんが、大丈夫。日本の税制では1年間に110万円を越える贈与をした場合は、とんでもない贈与税がかかる仕組みになっています。ですから遺産になってしまいそうな貯金を、50万円、100万円と何年もかけて小出しに渡せばいいのです。
 贈与ですから気まぐれでかまいません。これは早く死にそうだと思ったら110万円の限度額いっぱいを渡し、「ヤバイ、長生きしそうだ」と思ったらやめればいいだけのことです。

 私は二人の子のうち、弟の方を大学院に進学させて、姉より二年長く学費と生活費の面倒を見ました。弟が希望し、姉は希望しなかったからです。そこに教育資金の差がありますから、当面この方法で姉の不足分を補おうと考え、実際に行っています。

「財産の少ない家でこそ起こる 血みどろの争い」~財産は残せばいいというものでもない②

 子どものいない家で夫が亡くなる。しかし遺産の半分しか妻のもとに残らない。
 財産の少ない家で、わずかな遺産を巡って血みどろの兄弟争いが起こる。
 それらすべては、
 故人が生きているうちに、やるべきことをやっておけば防げたはずのことだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【夫婦子ナシ、しかし夫の遺産すべてが妻のものとは限らない】 

 一昨日は最後の方で「法定相続人が妻ひとりだったりすると基礎控除額は3600万円しかありません」と書きましたが、これは少し誤解を招きやすい表現です。と言うのは「法定相続人が妻ひとり」というのは極めて稀なケースだからです。

「え? 子どものいない夫婦なんて世の中ざらで、その場合、一方が死んだら相続人は他のひとりでしょ?」
 そう考えた人は極めて普通です。普通はそう考えて、夫が死ねば妻は財産のすべてが自分のものになると考えます。ところがそうではないのです。
 法定相続人には、配偶者に続いて、権利を主張できる第一順位グループ、第二順位グループ、第三位グループの人々がいるからです。

【法定相続人の話】

 どういうことかと言うと、一般的に言って、夫婦と子ども二人の4人世帯で夫が死ぬと、妻と二人の子が遺産を相続することになります。妻が半分、残りを子どもの人数で割ります。
 子がふたりとも死んでいる場合は孫、孫も物故者だとするとひ孫と、まっすぐ下に降りていく流れの人々が第一順位の相続人です。子が生きていれば孫やひ孫が相続人に名を連ねることはありません。
 ところが子や孫がすでに一人も残っておらず(あるいは最初からなく)、夫婦二人だけで暮らして来たという場合、夫が亡くなると意外なことが起こります。夫の実家の両親、両親がいなければ祖父母が第二順位の法定相続人として立ち上がってくるのです。妻は夫の両親に遺産の半分を渡さなくてはならないのです。
 
 もっとも「夫」が自然死するころには両親・祖父母は死に絶えているのが普通ですから、その場合は第三の法定相続人として兄弟姉妹が立ち現れてきます。それが最初の「夫が死ねば妻はその財産のすべてが自分のものになると考えます。ところがそうではないのです」の意味です。

 このルールを知らないと、夫が死んだ後で日ごろはつき合いのない兄弟姉妹が突然現れて、財産の半分を持って行ってしまう、という驚くべき事態は理解できません。本格派推理小説の「妻も子もいない富豪が死んで兄弟姉妹が集まった通夜の席に、突然誰も知らなかった愛人と隠し子が現れて場を一気に地獄絵にしてしまう」という事件の始まりも理解できません。とうぜん分け前に与れると思っていた兄弟姉妹の取り分が、すべて隠し子ひとりのものになってしまうわけですから穏やかではありません。
 ただし遺産相続の地獄絵は、そんな複雑なケースではなく、むしろ一般的な兄弟関係の中で起こるといいます。

【財産の少ない家でこそ起こる血みどろの争い】

 一般に資産数億、数十億といった人たちは、日ごろから弁護士を入れてきちんと財産管理をしているものです。遺言状もしっかり残しておかないと事業そのものに影響を与えて、迷惑をこうむる人も少なくありません。法的にしっかりしていることは相続人の方も承知していますから問題も起こりにくいのです。

 ところが残す財産は数百万円、数千万円といった段階だと、あえて遺言状などつくらない人も多くなります。そもそも自分の財産がどれほどあるか(住宅の資産価値など)、それすらつかんでいない人もかなりいます。
 本人ですらはっきりしていないのですから相続人はなおさらで、多いのか少ないのか、どこにあるのかも分かっていないという家はむしろ一般的なのかもしれません。それが親の死で一気にはっきりさせなくてはいけなくなる。
 想像以上に莫大であれば問題は少ないかもしれませんが、逆だとわずかな財産を巡って争いが勃発しかねません。現役で働いていて家族も養わなくてはならない子どもたち世代の中には、そのわずかな遺産が喉から手が出るほど欲しい人だっているかもしれないからです。
 
 先日テレビに出ていた弁護士は財産分割について、
「夫婦だったらドライにやればいい、元は他人なのだから。親子だったら最後は親が譲るからこれもいい。ところが兄弟姉妹はそういうわけにはいかない。こじれれば、あなたはあの時ピアノを買ってもらったとか、このときはああだったとかがバーッと出てきて、それに配偶者が絡んでくると絶対に譲れなくなって、弁護士が入るとプラマイゼロどころかマイナスになってもやめなくて、その上で言うのが『金の問題じゃアない』。本当に血みどろの争いになってしまう」
 
 自分の子どものことを考えたとき、姉は自らブラコン(ブラザー・コンプレックス)と言うくらいに弟が可愛いし、弟の方は金銭的自立心が強くて(金をもらえば言うことをきかなくてはならないから、というところもあって)家族であっても金銭を受け取ることを潔しとしない潔癖さですから、「今のうち」は私が死んでも「血みどろの争い」ということにはなりそうにありません。しかし10年後は分からない。20年後となるとさらに分からない。二人ともそのころには、決定的に金の必要な状況が生まれてくるかもしれないからです。
 
 先の弁護士はこんなふうにも言います。
「だからそれを考えると親御さんが自分の意志を持って、自分のお金を全部使いきってもいいし、こんなふうに使ってほしいと言ってもいいし、あなたにはこうしてもらったからこれを残すといったふうに、手がかりを与えておくことがすごく大事だと思う」
(この稿、続く)