カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「12月になりました」~子どもに話してやりたい12月のウンチク

 サンタクロースの活躍する12月だが、
 サンタ・ルチアの祝祭もある。サンタ~ルチ~ア♪♪
 スケートの日はあるけど、ボクシング・デイは拳闘の日じゃない。
 そして甲子園がサラダボウルになぞらえられる、
という話。(写真:フォトAC)

【12月になりました】

 今日から12月、1年の最後の年です。
 日本では旧暦12月を「師走(しわす)」といい、平安の昔から「高僧であってもお経をあげるのに忙しく、あちこちを走り回る月」だとか「偉い先生でも忙しさのあまり走り出す月」だとか言われてきたようですが、実のところ語源についてはよく分からないそうです。
 さまざまな説を聞かされましたが、私としては「して(行って)」「果(は)つる」、つまり一年間いろいろやってきていよいよ果ての月となった(「し・はつ」)が語源だという説が一番しっくりきます。ただし「高僧が走る」「師(せんせい)が走る」は一般に通用する話ですから、小中学生くらいまではそれでいいように思っています。

【12月の年中行事】

 12月は日常的な業務のまとめの月ですからそれだけで十分に忙しく、これといった行事はありません。それでも――、

  • 12月13日――正月事始め(正月準備の開始の日)
  •  12月13日――聖ルチア祭
     キリスト教の聖名祝日のひとつ、聖ルチアの日。各国でさまざまな祝い方があるようです。
     なお、聖ルチアはイタリア語でサンタ・ルチア。そう、あの「サンタ~~ルゥチ~ア」なのです。ただし歌は「聖ルチア」の歌というよりは、ナポリのボルゴ・サンタ・ルチア地区の観光船乗りが、「こっちの舟にお乗りよ、サンタ~~ルゥチ~ア」と呼び込む宣伝歌のようなものらしいのです。
    「フニクリ・フニクラ」が登山鉄道の会社の、PRソングだったというのは有名な話ですが、イタリアという国、なかなかしたたかなものですね。
  •  12月24日――クリスマス・イヴ
  •  12月25日――クリスマス
  •  12月25日――北野天満宮、終い天神
     菅原道真が生れ、流され、亡くなった日がいずれも25日ということで毎月25日に開かれていた縁日の最終日。早朝から露店が並び、参拝者でにぎわうそうです。
  •  12月25日――スケートの日
     1861年に、北海道に滞在していたイギリス人がはじめてスケートを滑って見せた日。
  •  12月26日――ボクシング・デー
     スポーツのボクシングだと思ったらそうではありませんでした。もともとは教会がクリスマスに寄付を募り、箱に入れられた(boxing)クリスマスプレゼントを貧しい人に贈る日であったことから"Boxing Day"と呼ばれたそうです。現在はカードを配達するために働きづめだった郵便配達員など、クリスマスの日にも働かなければならなかった人たちにゆっくり休んでもらう日、という位置づけだそうです。
  •  12月31日 - 大晦日(日本)
     月の満ち欠けで一カ月を区切る太陰暦(旧暦)ではひと月の最終日は30日であるのが普通でした(29日の月もある)。そこで一カ月の最終日を三十日(みそか)と呼ぶようになり、のちに「晦日」の字があてられるようになったのです。その集大成ですから、十二月の最終日は「大晦日(おおみそか)」と呼ばれます。

【12月のスポーツイベント】

 12月のスポーツイベントとしては、

 一昨日、日大のアメリカンフットボール部フェニックスの解散が発表されましたが、日大は甲子園ボウルの常連でしたので、ほんとうに寂しい限りです。
 今年決勝を戦うチームはまだ決まっていませんが、今日現在で下のような結果となっています。公式サイトより
 出場大学を見ると九州大学東北大学北海道大学山口大学と、国立大学が目白押し。こんなトーナメント表ができるのはアメリカンフットボールくらいのものでしょう。
 とんでもない数のフォーメーションを暗記しなくてはならないから、暗記力に強い大学が有利なのだと言われますが、さて、いかがですか。
 私自身が学生アメリカンフットボールにはまり込んだ(応援のみ)のは、京都大学ギャングスタ―ズが日本一になった(1986~87甲子園ボウル優勝)ころでした。東海辰弥というすばらしいクウォーターバックがいた時代です。文武両道が実現する――と夢がありました。
 結婚して男の子が生まれたらギャングスターズの選手に、女の子だったらそのチアガールに――それが夢で、男女一人ずつを設けたのに、ギャングスターズに入る前に京大に入らなければならないことを忘れていて、結局夢は果たせませんでした。
 なお「甲子園ボウル」は「ボール」ではなくて「ボウル」。競技場がすり鉢状になっていて、まるでサラダボウルのようだからそう呼ばれるのだそうです。「ライスボウル(日本選手権)」「スーパーボウルNFL優勝決定戦)」もみな同じです。

「学習塾の先生たちは本当に教え方がうまいのだろうか」~塾教師のアドバンテージの話

 学習塾の先生たちは本当に教え方がうまいのだろうか――。
 答えは簡単だ。うまい人もいればへたな人もいる。
 ただしテストの点を取らせることには長けている。
 なぜならそこにアドバンテージがあるからだ。
という話。(写真:フォトAC)

【学習塾の先生たちは本当に教え方がうまいのか】

 月曜日(2023.11.27)の千葉テレビ、夜のニュースで「小学校の算数 塾講師活用で学力向上 検証/千葉県」という内容が扱われ、サイトに記録されたものがさらにYahooニュースへと転載されて大きな評判になっています。
 特に現職教員からの反応が強く、X(旧Twitter)にもさまざまな意見が出されました。
 反発する意見もあれば苛立ちを隠さない意見もあり、また屈服する意見さえもあったりして、少なくとも現役の先生たちの多くが傷ついたことは間違いないようです。

 いろいろ言ったところで、児童に、
「塾の先生は小ネタをはさむのが上手。(担任と)大きく違う」「算数はすごく楽しくなって 好きになった」
と言われたらおしまいみたいな感じはありますよね。しかしいかがなものでしょう? 子どもがそんな言い方をしたら、教師は敗北宣言をしなくてはいけないのでしょうか?

【2週に1度なら、私にだってできますよ】

 実は、稀に校長先生が来て授業をしたりすると同じことがおこります。
 授業者はたった1時間のためにたっぷり時間をかけて準備し、渾身の授業をしますし、子どもの方は相手が校長先生ですから緊張して聞きます。よく聞くからよく分かる。分かるから楽しい・・・。
 校長先生もご満悦ですが、それを1カ月以上続けることなど不可能なことは、ご自身もよくご存じです。アドバンテージのあることをよく知っているからです。少なくとも「たっぷり時間をかけて準備し」た授業を、6時間も毎日提供するなんて不可能に決まっています。
 
 疑うなら20年も前に現場を離れた私を塾講師の代わりに呼んでください。1学期(4カ月間)に20時間。つまり1学年2クラスの学校だったら2週に1回、1時間ずつの授業を行えばいのですから簡単です。毎回すばらしい授業をお見せします。
 ただし子どもの方は回を重ねるごとに慣れてダレてきますから、最初の1時と同じレベルで「すごく楽しくなって、好きになった」などといってくれません。それは仕方のないことです。

【学校のスタートライン、学習塾のスタートライン】

 学習塾の先生たちが、本当に教え方がうまいかどうかというと、それは分かりません。若いころ8年間も塾講師の仕事をしていた私の感じ方からすると、うまい人もいますし、そうでない人もいます。ただしテストの点数を上げる、成績順位を伸ばすという点に限れば、塾の講師の方が上、ということは大いにありそうです。なぜならそれが仕事だからです。アドバンテージがあります。
 
 一例をあげると算数ではよく、「分かる、できる、すらすらできる」と学習過程を三つに分けますが、例えば三角形の面積の求め方(底辺×高さ÷2)が「分かる」ところまで丁寧に考えさせ、実際に問題を解いて「(自分で)できる」ところまで確認すると、だいたい学校の授業時間は終わってしまいます。あとの「すらすらできる」は「家庭学習でしっかりやってね」という感じになってしまうのが普通です。
 学校であれだけ丁寧に「分かる」と「できる」をやったのだから「すらすら」の部分は自分ひとりでもできるだろう、というのは神話かもしれません。しかし学ぶべきことは山ほどたっぷりあるのです。三角形の面積の計算練習だけで1時間もよけい取るなんて、とてもではありませんが、できることではありません。
 学校はここまで。学習塾はそこから始めるので有利なのです。
 
 もちろん塾でも三角形の面積の公式について、説明はしなおします。なぜならそこからチンプンカンプンな子いたりしますから確認しなくてはならないのです。実際にそんな子がいたら個別学習で最初からやり直します。そうでない子には、できるだけ早くからたくさんの問題を体験させます。
 「高さ」が三角形内部に取れるもの、辺を伸ばして外部に取らなければならないもの、三角形が二つ以上交錯した複雑な図形に関する問題等々・・・ここまで手を広げると多くの子どもが「すらすらできる」実感を持つようになり、そして思うのです。
「塾の先生は教え方が上手い。だってできる(点数が取れる)ようになったんだもの」

【塾講師のアドバンテージ】

 成績を上げるという意味で、塾の講師の方が有利な点は他にもあります。
 そのひとつは、塾に来ている子たちのほとんどが、勉強をするためにそこに来ているということです。勉強が分からなくなって本当に困ってきている子もいれば、塾に来てから勉強が楽しくなって頑張っている子もいます。ただ親に言われるままに来て、うんざりした気持ちで授業を受けている子もいますが、いろいろな立場はあっても塾を遊び場だとか友だちとの交流の場だと思っている子はほとんどいません。
 ところが普通の小中学校の場合、「勉強をするために通っている子」はむしろ少数派で、たいていは「友だちに会うため」「友だちと話すため」「友だちと遊ぶため」に学校に来ているのです(だから友だちのいない子は辛い)。教師と子どもの目的意識にずれがある――学校が最初から難しいのはそのためです。
 
 もうひとつ学習塾の方が有利な点があります。それは塾の場合、本格的にウマの合わない子はいつの間にか教師の前からいなくなっているということです。その子が辞めるか、教師が配置換えになるか、クビになって塾を去ることになるからです。
 それに対して「死んでもコイツの言うことなんか聞くものか」といった頑なな子どもまで引き受け、連れて行かなくてはならないのが公立学校です。お互いが不孝だとも、お互いが鍛えられるとも言えます。
 もっとも困難だから公立学校の教師はおもしろいのであって、コンピュータゲームだってすぐにクリアできるから楽しいということはなかなかないでしょう? だから私も大昔、塾の教師を捨てて子どもに深入りできる公立学校を選んだのです。

【学校の塾講師活用、やることに意義はあるのか?】

 実はちょうど10年ほど前、東京都は教員研修に「塾の講師に教え方を教えてもらう」という屈辱的な講座を企画して、とんでもなく叩かれたことがあります。いまはもうやっていないでしょう。塾と学校の向かう方向が違いすぎて、教師の資質向上にはつながらなかったのです。
 では今回の千葉はどうか――。
 千葉県教委は
 今後、試験導入の効果を検証したうえで2024年度、本格導入するかどうか決める
 と言っているそうですが、予算やカリキュラムに余裕があるなら年間60時間程度、続けて見るのも悪くないかもしれません。何と言っても日常と異なる授業は刺激的で、寝ている子を起こすことには力があるのかもしれないからです。やってみる価値はあるのかもしれません。
 もしかしたら本当の理由は教師不足の一部緩和で、特別免許を与えて教科担任制で使うという腹かも知れませんが、すべての時間を任せるとなると「分かる」「できる」も丁寧にやってもらわなくてはならなくなりますから、塾講師のアドバンテージは失われます。
 算数だと分かりにくいですが、塾講師が学校の国語で、学習指導要領に準拠して詩や短歌づくり、作文・朗読などの指導を始めたら、塾講師のアドバンテージが失われると考えるとわかるかもしれません。
 

「私は太宰治が嫌いですと、本人の前で三島由紀夫は言った」~半世紀ぶりに「走れメロス」を読む③

 私は太宰治の作品が嫌いだ。弱さを前面に押し出して、
 陰で密かに人々を愚弄する――。
 三島由紀夫はそれを見ていた。人間の弱さを許さない三島は、
 「私は太宰が嫌いだ」と、直接本人に伝えに行く。
という話。(写真:フォトAC)

【「人間失格」の悪魔的な仕組み】

 予め言っておきますが(すでに予めでもないか)、実は、私は太宰の文学はきらいなのです。16歳か17歳ごろ「人間失格」を読んで不覚にもいたく感動してしまい、数年をつまらないことに費やしたとさえ思っています。

 あの小説、大人になってから読めばどうということはないのですが、主人公の優柔不断、あのだらしなさ、あの傷つきやすさ、そしてあのおどけぶり、どれをとっても「ここに書いてあるのは自分だ!」と言いたくなる内容ばかりで、半分泣きながら我がことのように読み終えて本を閉じると、そこには「人間失格」と書いてあるのです。まるで、
「あ、オレって失格なんだ」
と自己評価する仕組みになっているようなものです(私を含む特定のひとにとってなのかもしれませんが――)。
 しかも「失格だからダメじゃないか」とか、「なんとか乗り越えなくちゃ」とかいった話にはならず、「失格でもいいじゃないか(人間だもの)」みたいな雰囲気で、静かに生活の中で沈殿していくことになります。
 自分から失格だって認めているのだからそれでいいじゃないか、どんなに悪くたって叩かないで、どんなに惨めでも笑わないで・・・。

 しかし考えてみれば十代の男の子なんて、大半が優柔不断でだらしなく、傷つきやすい上にしょっちゅうおどけて自分と向き合うことから逃げています。しかしそれはいつか乗り越えられるべき仮の姿、若き日の自分であって、その時点でダメだから「人間失格」だと言われたら身も蓋もない話です。おそらく太宰という人は、それを承知で罠を仕掛けているのです。
 ボクは人間として失格、ボクとキミは似ている、だからキミも人間失格、みんな失格、全員失格、だからボクはみんなと同じ、だからボクは失格じゃない――と、そんなふうになっているのです。一種の抱きつき心中、拡大自殺のようなものです。
 私はまんまとハメられたのかもしれません。

【私は太宰を嫌いだと本人に言い放った人】

 今日、最初に私は「太宰の文学はきらいなのです」と書きましたが、同じことを太宰治本人に直接、言い放った人がいます。三島由紀夫です。
 まだ東大の学生だったころ、日ごろから「太宰の文学はきたらいだ」と三島が言っているのを知っていた学生仲間が、新潮社の野原和夫を介して、太宰との酒席を設けたのです。昭和21年の12月14日、太宰治37歳、三島由紀夫21歳の時です。
 
 この邂逅には文書として残る二つの証言があり、ひとつは野原和夫の「回想 太宰治」、もうひとつは三島由紀夫自身が残した「私の遍歴時代」で、そこに同じ場面が描かれているのです。
 野原によると、太宰が酔っ払って学生たちとワーワー盛り上がっていたところに、酒も飲まず神妙な顔で座っていた三島由紀夫が何かの拍子に森鴎外の文学について質問し、それを太宰がいい加減に扱ったところで、あの有名なセリフが出てきたようなのです。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 
 それに対して、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた」
というのが野原の記憶。三島は、
「その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、『そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。』」
 そう記録した上で、
「私と太宰氏のちがいは、ひいては二人の文学のちがいは、私は金輪際『こうして来てるんだから、好きなんだ』などとは言わないだろうことである。」
と書いているのです。よほど嫌いだったのでしょうね。

「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」
「やっぱり好きなんだよな。」
 どちらも太宰の言いそうな言葉ですが、私は三島由紀夫の説に心ひかれます。

【弱さは守られるべきものなのか、乗り越えられるべきなのか】

 三島由紀夫という人は肉体的には生来虚弱で、祖母に溺愛されケガをしないように女の子のように育てられた人です。そのため軍隊に行くこともなく終戦を迎えています。彼はそうした己の肉体を恥じており、三十歳を過ぎてから筋トレに励んであのみごとな肉体を創り上げ、しばしば誇示するようになります。三島にとって弱さは超克すべきものであって、決して人に曝したり、見せつけるようにしていいものではありません。
 そうした克服型の人間からすれば、「弱い自分をそのまま認めて!」「自ら弱さを吐露しているのだからむやみに叩かないで!」と言っているかのような太宰の作風が許せなかったのでしょう。
 しかも弱いだけならいいのにその陰に隠れて、傲岸で不遜、過剰な自信と異常な羞恥心が交錯して、何とも度し難い、面倒くさい人間がつくられています。「走れメロス」も、最後の最後に異常な自尊心が勝っただけの、傲慢で情けない男の物語だと考えれば、優れた小説だということになります。昔の私は、ただ読み方を間違ったに過ぎないのかもしれません。
 
 私はメロスのようなわがままで身勝手で、プライドは高いのに何もせず、弱く、直情的で自己中心的な大人を好みません。しかしメロスのような小学生だったら、あるいはメロスのような中学生だったら、飛び跳ねて抱き着き、何とか教育しようと必死になるはずだと思います。

「わがセリヌンティウス体験とメロスの証言」~半世紀ぶりに「走れメロス」を読む②

 私もセリヌンティウスと似た体験をしたことがあるが、
 相手はそれを悪いことだとはまったく思っていない。
 傍から見るとかなり違うのだが、本人はそれでも、
 正しい道を正しく進んでいると思い込んでいるのだ。
という話。
(写真:フォトAC)

【わがセリヌンティウス体験】

 私自身の初任者研修と言えばもう40年も前の話になりますが、当時はまだ年間5日程度。あれもこれも徹底的にやらされる現在と違って呑気なものでした。
 とはいえ夏休み初日から一泊二日で行われる宿泊研修は厳しくて――、というか要するに一週間近くほぼ徹夜続きで生まれて初めての通知票を書き、なんとか終業式にたどり着いたら1学期打ち上げの飲み会で、12時過ぎまで飲んでの翌日の、朝からの研修です。座学中心の午前中は意識を保つのがやっとの睡魔地獄、昼食後のグループ研修はまだましかと思ったら食べ過ぎで血液の大半が胃に集まって気絶寸前・・・。
 久しぶりに同窓生交換をやっている地元国立教員養成大学出身者は楽しそうで、意識もしっかりしている様子。中学校の新規採用者の中には学級担任を持っていないのでギリギリの通知票は免れている人も多く、こちらも元気。しかし私と言ったら、受験資格ギリギリで合格した最年長間違いなしの私大卒。しかも学級担任を持っていてヘロヘロの私は、独りぼっちで午後も危機的な状況が続きそうでした。仕方ないので積極的に出て、名簿番号が近くて同窓生交換に参加していない人を探して、どうでもいい世間話を続けながら午後の研修に備えいたのです。
 
 グループ研修は五人一組で道徳か何かの指導案をつくるというもので、名簿番号で区切られたそれぞれの組に、指導主事が一人ずつ着いて手順を説明します。
「では最初に、討議の司会をして明日の全体会では発表者となる代表を決めます。どなたか自分がやろうという人はいますか」
と、その瞬間、先ほどまで四方山話をしていた同期の教員がサッと手を上げて、何て積極的な人間だとびっくりしていたらいきなり私を指さし、
「この人がいいと思います!」

 「走れメロス」でメロスがセリヌンティウスを指名した場面を読んだ時、急にそのことを思い出しました。

【メロスの証言】

 小説の本文を読むとセリヌンティウスは次のような状況で、自分が置かれた立場を知ることになります。
「竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯(うなず)き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である」

 「セリヌンティウスは、縄打たれた」のです。こうなると分かっていながら友を差し出したメロスを「親友」とか「竹馬の友」とか「勇者(物語の最後に出てくる表現)」とか呼んでいいのでしょうか。しかも捕縛はまだ、単なる始まりでしかないのです。
 
 物語を先まで読むと、そのあとメロスが、
「一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前」というのはいいにしても、そこで会った妹に「あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう」とか言って家に祭壇をつくり宴会の席を用意し、そこで少し眠る。そこから花婿の家に行って、
「少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ」
と頼むのですが、花婿は、
「それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄(ぶどう)の季節まで待ってくれ」
 葡萄の季節がどれくらい先か分かりませんが、とにかく花婿に何の心構えもなかったのは事実のようです。それを、
「婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた」
――これほどまでに準備が整っていなかったにも関わらず、王に、
「三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」
とたちどころに言ったわけですから、メロスの強心臓には驚かされます。

 結婚式はメロスがシラクスを出て二日目の真昼に行われ、祝宴は深夜まで続きます。午後から降り始めた雨は一時「車軸を流すような大雨」となって宴席の人々を不安な気持ちにさせますが、メロスは「満面に喜色を湛たたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた」といったあんばいです。メロス以外は不安だったのですよ?
 そのあと少し眠って3日目の朝、メロスが村を出てやがて洪水の川を渡り、山賊に襲われてこれを撃退し、灼熱の太陽に焼かれ、衣服はボロボロとなってほとんど半裸状態となり、それでも王宮にたどり着いて、セリヌンティウスと抱き合う場面は、よく知られるところです。

セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
 セリヌンティウスは大きな音を立ててメロスを殴り、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
 メロスもセリヌンティウスを殴り、
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 ――ここでも私は「ちょっと待て」と思うのです。
 メロス、悪い夢を見たのは一度じゃないよな。

【メロスよ、どこまで信じていいんだい?】

 宴会の際中に、「しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた」し、「一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願った」、よな? そのあと「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった」ってこともあったよな。
「メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る」と陰の声は言うけれど、「在る」どころじゃない。山賊の手を逃れたあと、ひざを折って倒れ込んでからの長い長い独白は、ただただ未練に流されて悪い選択に進む一方だったじゃないか。いやそもそも具体性のまったくない妹の結婚式にかこつけて、友だちを人質に差し出し3日の猶予を生み出したところからすでに怪しい。そこに下心はなかったのか?
 あれだけの雨が降れば川が荒れるなんて分かっていたことだし、山賊の出る場所だって決まっているようなものだ。もしかしたらシラクスに戻らない理由を一生懸命探しながら三日間を過ごしていたんじゃないのかい? でも最後は心が痛んだ、自分を信じてくれた友だちを殺すことになるんだものね、勇者よ。

【かつての私はどんなふうに受け入れたのだろう?】

 私がずっと考え込んでいるのは、中学生だか高校生だった時の国語の先生は「走れメロス」どんなふうに扱ったかということです。そして当時の私は、ツッコミどころ満載のこの物語をどう受け取ったのか――。
 もちろん今の私ならはっきりしています。感想文を書くとしたら、その一行目はすでに決まっているのです。それはこうです。
 「私は激怒した!」
(この稿、続く)
 

「メロス、それはないだろう」~半世紀ぶりに「走れメロス」を読む①

 半世紀ぶりに「走れメロス」を読んだ。
 そしてたまげた。
 メロスよ、それは違うだろう。
 勝手に他人の命を賭けてはいけないよな。
という話。(写真:フォトAC)

【上司のセクハラ発言にどう対抗するか】

 先週の金曜日、ネット上をあちこち巡っていたらちょうど一カ月前の「マイどなニュース」2023.10.24『男性上司「セで始まってスで終わるものなーんだ?」 バイト仲間女性の模範解答に「カッコ良すぎるだろ」「完璧な返し!」』に入り込んでしまいました。

「カッコ良すぎる模範解答」はバイト仲間のおばさんがさっと割り込んで返してくれた「精神的ストレス」だそうですが、400以上も寄せられたコメント欄の回答はさらに面白く、しばらく時間を無駄遣いしてしまいました。

 私としては、
「大学生の頃、遭遇しましたよ。バイト先の社員のオッサン。そしたらバイトチーム先輩の女性が大きな声で、『セックス!お相手いないんですかっ?』って言い放ち、男性社員の方が慌てて逃げて、『かっこええなぁ!』って・・・若いころの憧憬の思い出です」
 というコメントが一番すっきりとしましたが、他にも、
「セクハラでス」
「セクハラで訴えまス」
も対抗策としてありえますし、逆に、
セルロース」だの「セカンドハウス」など軽く答えてやり過ごす、というのもかわし方としては悪くないと思いました。

 私は知らなかったのですが、記事によると、
「もはや誰が言い始めたのかわからず、令和の時代に口走っている人がいるとは考えられませんが、定期的にTwitterそしてXで盛り上がるこの話題」
ということですから、真面目に考えることもないと思いますが、誰かの危機に際してサッと助け舟を出せるのは、やはりステキなことだなと思いました。
 ただし今日、話題としたいのはそこではありません。

【「走れメロス」再読、そして魂消(たまげ)たこと】

 実はコメント欄に書かれた数百の答えの中に「セリヌンティウス」というのがあって、ほどなく「セリヌンティウスに爆笑した」というコメントも入っているのですが、その「セリヌンティウス」が私には分からなかったのです。
 そこで調べると、これが太宰治の「走れメロス」で、メロスが妹の結婚式に行っている間、人質となって王のもとに残された親友の石工なのですね。よくそんな名前を頭に入れている人がいるものです。しかも即座に反応できる人もいる。
 ところが私は、《約束の時刻までに戻って来なければメロスの代わりに処刑される親友がいる》という、この物語の核心部分までまったく忘れていたのです。
 そこで「走れメロス」を半世紀ぶりくらいに読み直すことになるのです(青空文庫「走れメロス」)。
 
 読み直してみると、中学校か高校の教科書にあって普通の小説よりははるかに丁寧に読んだはずなのに、冒頭の「メロスは激怒した」と、ほとんど最後の「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」くらいしか覚えておらず、ただ友情のために必死に走って帰ったメロスの物語だ、くらいにしか記憶していなかったことがわかります。中でもびっくりしたのは、メロスがセリヌンティウスを何の断りもなく、勝手に自分の身代わりにしてしまったことです。

【メロスはひとの命を掌に乗せた】

 原文に即して言えばまず、メロスは妹の結婚式のために衣裳やらご馳走やらを買いに、故郷の村から10里も離れたシラクスの街にやってきます。そして町の異変に気づきます。人に聞くと、王が猜疑心からとんでもない横暴を働いているらしい――そこで「メロスは激怒した」ということになって単身、国王暗殺に向かうのですが、何の準備もないメロスは簡単に捕まってしまいます。そこから王と激しい論争になり、王が、
「わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔(はりつけ)になってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ」
と言えばメロスも、
「ああ、王は悧巧(りこう)だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない」
となります。
 で、そのまま押し切ればいいのに急に弱気になって、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい」
と、突然、敬語表現になる情けなさ。をい!
「たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」
 王が、
「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」
と嘲笑うとメロスは、
「そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」

【メロス、それはないだろう】

(以下、ラップ調で)
 はい、ちょっと待って、それ、マズいだろ。
 身代わりにするにも手順がある、本人を抜きに「人質としてここに置いて行こう」はないだろう。さらに重ねて「三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」って、オマエ、何の話をしてるんだ? 2年も会っていない男だぞ。親友といったって事情が変わっているかもしれないじゃないか。しかも天秤皿の「絞め殺してください」の反対側が「妹に結婚式を挙げさせたい」では、どうしたって釣り合わんだろう? 帰還に失敗したら取り返しのつかないと、なぜ考えないのだ? どうしたらそんなに自分を信頼できるんだ? 世の中、何が起きるか分からないと、一度でも怯えたことはないのか、これまでただの一度もミスをしたことはないのか、自分の小さな過ちや小さな事故が、ひとを殺すと震えないのか――。

 そこで私は思案に暮れてしまったのです。
(この稿、続く)

「小春日和とインディアン・サマー」~むちゃくちゃ暑かった勤労感謝の日に思い出したこと

 昨日の勤労感謝の日、晩秋にあるまじきとんでもない暑さだった。
 これを日本では小春日和と言う。
 同じ現象を北米ではインディアン・サマーと言うが、
 両方とも分かりにくい時代になってきた。
という話。(写真:フォトAC)

【小春日和(こはるびより)】

 昨日の勤労感謝の日はとんでもない暑さで、畑の片付け仕事で草取りをしていた私も、とんだ汗をかきました。最後はTシャツの上の長そで一枚となり、腕まくりをしてもその始末。明日、土曜日からはまた冬らしい厳しい寒さになるとかで、温度変化のジェットコースターに体がついて行きません。
 
 ところでこの季節のこの暑さ。よく誤解され、よく説明もされるのですが、晩秋から初冬にかけての時期にとつぜん訪れるこうした暑さのことを「小春日和(こはるびより)」と言います。「春」という文字や言葉のゆったりとした雰囲気に騙されて「2月の末から3月にかけてのころ、一時的に訪れる春を思わせる暖かさ」のことだと思うと、とんでもない勘違いになります。
 島崎藤村が随筆集「千曲川のスケッチ」に、
「秋から冬に成る頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである」
と書いたように、あるいはさだまさし山口百恵に贈った「秋桜(コスモス)」に、
「こんな小春日和の穏やかな日は あなたの優しさが浸みて来る」
とあるように、「小春日和」には穏やかで優しく、心地よい印象がありますが、さて皆さま、昨日の気候はそんなふうに心地よかったでしょうか? 畑仕事の私が青息吐息だったのは仕方ないにしても、普通に過ごした人にとっても、そんなのどかな一日だったのでしょうか?

 考えてみたら私にとって今のこの時期の晴れた日は農作業のかき入れ時で、そこにとつぜんの暑さが訪れるともうヘロヘロです。おそらく毎年同じです。そんな小春日和が穏やかな日であるわけはなく、「あなたの優しさが滲みてくる~」はずもありません。

インディアン・サマー

 北アメリカでは日本の小春日和に相当するものをインディアン・サマーと言うのだそうです。「インディアンのように前触れもなくとつぜん襲ってくる夏」と言う意味です。いつにも増して畑仕事に疲れてしまっている私には、むしろこちらの方がしっくりきますが、これも今日の日本の若者には分からない感じでしょう。

 インディアンというのはネイティブ・アメリカンのことで、心の隅では首を傾げながらも死ぬまで自分が発見したのはインド大陸だと信じていたコロンブスに由来する名称です。南アジアのインド人と区別するために、一時はアメリカン・インディアンと呼んでいた時代もあります。
 感謝祭の逸話にあるように、はじめは良好だったヨーロッパ人とネイティブ・アメリカンの関係も、やがて移住者が増えると次第に軋轢が生じるようになり、圧倒的な武力を有する白人に土地や家族を奪われたネイティブ・アメリカンたちは、しばしば白人を急襲して復讐を果たし、あるいは財産を奪い返したのです。

 私くらいの年代だとテレビで西部劇を覚え、マカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇)で青春時代を過ごしていますから、そのあたりは感覚的にもよく分かるのです。
 しかし日本で時代劇が少なくなっているようにアメリカ映画で西部劇というのもほとんど見られなくなり、「インディアン」と言う言葉の持つ荒々しく凶悪なイメージも伝わらなくなりました(偏見がなくなったこと自体はいいことです)。
 インディアン・サマーも小春日和も、いちいち説明の必要な時代が来ているのかもしれません。

【春なのに秋、秋なのに春】

 ついでですが、春と言いながら秋である「小春日和」と、ちょうど逆の関係にある言葉があります。「麦秋(ばくしゅう)」です。麦秋は秋ではなく、麦の穂が実り収穫期を迎えた初夏のことを表現した言葉なのです。

 梅雨に入る直前、秋の稲田のように真っ茶色に広がる畑を見かけたら、それは麦畑です。ひとは案外気づかないもので、都会から来たお客さんに教えてあげると初めて気づいてびっくりします。初夏なのに稲刈りシーズンみたいな風景があることに、言われるまで何の違和感も持たなかったからです。

 そんなものです。人は見ているようで何も見ていない――。
 私は今週のNHKの朝ドラ「ブギウギ」を使って、いかに人は月を見ていないかというお話をしました。しかしかく言う私も一昨日、何の気なしに見上げた真っ青な空に、白くくっきりと半月がかかっているのを見てびっくりしたのです。東の方角、およそ45度の高さに、ほぼ上弦の月があったのです。昼間の半月があんなにくっきりと見えるとは、すっかり忘れていました。 
 夜の月のことはいつもうるさく言うくせに、毎日ボーっと生きているらしく、昼間の月のことはすっかり忘れていたのです。

 ついでに今週の「ブギウギ」、火曜日にきれいな三日月の表現がありました。右下から光を浴びた美しい姿です。《うん、これならOK》と思ったのですが、思い出したら主人公は、番組の出だしで弟に夕飯を出してくれた大家さんに向かって、こんなふうに言っていたのです。
「ホンマすんません。こんな夜中に・・・」
 スズ子さん、三日月は、夜中に出んのですよ――。

どうやら「国内出羽守」みたいなローカル・メディアがあって、本県だけがダメだと触れ回っているらしい。

キースアウトを更新しました。

kieth-out.hatenablog.jp 

*俗語における出羽守(でわのかみ)は、他者の例を引き合いに出して物事を語る人のことである。ではの神という表現も存在する。特に海外と比較して日本を批判する人を「海外出羽守」と呼ぶ。また、「欧米では~、日本では~。だからもう日本は“終わり”だ!」とばかり話している人は「尾張守(おわりのかみ)」という。(Wikipedia