カイト・カフェ

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「失ってはならない唯一のもの」~町内会役員改選狂騒曲④

町内会の仕事は、いくらでも減らしていい。
しかし地域の声を行政に届ける、
大切な機能まで失ってはいけない。
それを失った苦しい前例もある。(写真:フォトAC)

【上に訴える機能は死守したい】

 私のような頑固な存続派でも、役員のなり手のいない現状で、町内会を維持するのが難しいことはよくわかります。しかしどんなに規模縮小あるいは形骸化しようとも、地区の要望を行政に上げる道筋だけは残しておきたい、残すべきだと私は思っています。

 もちろん市に要望を出そうと思ったら電話もあれば手紙もある、Eメールもあれば市のサイトには投稿フォームまで備えられている場合もあります。しかし20年ほど前とは違い、要望を出せば必ず返事がもらえるというものではありません。サイトの投稿フォームにもわざわざ「すべてに個別回答するとは限りません」とか「政策判断への参考とします」「同趣旨案件はまとめて扱います」といった注意書きがあって、基本的には返事が来ない仕組みになっています。
 それはそうでしょう。地域の要望なのか個人的な考えなのか分からないものにいちいち答えていたら大変なことになります*1。

 その点で、町会長を通して市に上げていく要望は公的なものですから、一定の回答を得られます。熱心な町会長なら足しげく市役所に掛け合ってくれるでしょうし、そこまで熱心でなくても、市が地区の要望を吸い上げる仕組みは必ずあります。それを通して市とつながるのが一番確実な道筋です。
 町内会をなくした場合の不安は、そのルートがなくなるという点だけではありません。私の地区が町内会をなくしても、他の地区の町内会は残るのです。市の予算はパイの奪い合いですから、『言ったもの勝ち』とまでは言いませんが、要望を伝えなければ不利になるのは確かです。私たちの地区の分け前が、知らないうちに掠め取られるのは困ります。

【失敗の前例】

 似た例で言いますと、私の地域の小中学校はともにPTAを廃止してしまいましたが、市内の学校PTAはまだほとんどが残っています。残っている学校のPTA会長は会長会や研修会を通して市や県の情報を手に入れ、また市教委・PTA会長懇談会などの機会に、学校や保護者の要望を市教委に伝えることができます。細かなところで言えば、入学式や卒業式の来賓控室や運動会・文化祭の来賓席で、PTA会長が教育委員の耳元で何をささやいているか、そこにも目を向ける必要があります。いずれにしてもPTA会長がいて、初めて成り立つ話です。

 市教委が「あの学校はPTAがないからこちらから気にかけてやろう」とか「PTAがないから資金もない。その分は余計に出してやろう」などと、思うはずがありません。「苦しい思いをしながらPTAを維持し、自前で学校を良くしようとしている学校にこそ、手厚く支援してやろう」。そう考えるのが人情でしょう。
 もちろん表立って差別することはしませんが、要望の強いところから順に対応していったら、予算が足りなくなったといったことも、大いにありそうです。

【もう一つの失敗事例】

 話を学校に振ってしまったので、もうひとつ失敗の事例を重ねておきます。それは教職員組合です。
 現在の教職員組合の組織率は、連合系の日教組で18.8%、全労連系の全教で2.4%、政治色の薄い全日教連で1.5%。全部合わせても26.8%で、とてもではありませんが、全教職員の代表とは言えません。したがってこれだけ教員の仕事が過酷で、土日もなく、時間外労働も過労死ラインを超えていると言っても、それを政治に反映させる力が、まったくありません。マスメディアも、ほとんど取材に行きません。

 太平洋戦争前から戦争中にかけて、たくさんの教え子を戦場や満州開拓地へ送り込み、死なせてしまったという深い反省から始まった戦後教育。だから平和教育に力が入りすぎたのもやむをえないものの、教職員の生活を守ろうとしない労働組合が衰退するのも必定だったのかもしれません。しかし多くがやめてしまったおかげで、一番大事な時にも大きな声が出せず、ひたすら少数の人たちがSNSの中でわめいているだけです。
 やはり物申す力は死守しなくてはなりませんでした。

【町内に難しい仕事はない】

 町内会も、ありとあらゆる仕事をそぎ落として、下から物申す機能を失わないようにする必要があります。そのために、行政の末端として行政のお手伝いもしなくてはなりませんし、形だけでも守っていかなくてはならない役職もあります。

 考えてみれば、町内会の役員なんて「選ばれしエリート」の仕事ではないのです。役員のなり手がいないなんていう話は20年以上も前からあったことで、今日までの間に、誰がやっても大きな負担なくできるよう、仕事は簡略化されてきたはずです。怖がらず、やってみればいいのです。やった上で負担に感じる仕事があれば、その部分は自分たちで少しずつ減らしていけばいいのです。 
 町内会の仕事を減らしたところで、だれも文句は言わないでしょう。文句を言われたら、「だったら次はお前がやれ」と言えばいいだけのことです。

 ああ、それにしても、「町内会役員の仕事、これしかありませんよ」という話、どうして役員の人たちはしないのだろう?
(この稿、終了)

*1: かつてインターネットの黎明期、行政がホームページ上にe-mailアドレスを公開して「インターネット目安箱」のように意見を募ったところ、まっとうな意見・提案ばかりでなく、有象無象、虚々実々、無理難題、罵詈雑言、流言飛語等、あらゆる内容が飛び込んできて収拾がつかなくなったことがありました。
 一昔前の匿名投書と違って、返信先が分かるため、返事をしないとすぐに「お怒りメール」が届く。さらに返事を出せずにいると、それこそ週に百通もの同じ内容のメールが届く、といった事態になることもありました。
 私も、県教委の主事と旧知の間柄だったことから、問い合わせを受けたことがあります、その電話連絡があったのが午後9時すぎ。「メールで内容を送るから、事実関係について教えてほしい。どうせすぐには対応できないから、午前0時まででいい、返事をくれ」と言われて驚いたことがありました。1時間以内に返事を返しましたが、あちらは午前2時ごろ、ようやく差出人に返事ができたみたいです。

「仕事の中身がスカスカなわけ」~町内会役員改選狂騒曲③

町内会の役員には引き受けるだけの動機づけがない。
負担ばかりが大きく、担い手不足は深刻になる。
存続を求める人々にも、それなりの不安がある。
そこで仕事の中身がスカスカになっていく。
(写真:フォトAC)

【町内会役員には、役員であることの動機づけがない】

 企業などの営利団体や、地方公共団体などの公益性の高い組織では、多くの場合、内部にヒエラルヒーが築かれ出世すればするほど収入が増え、やりがいのある仕事に就けるという仕組みがあります。したがってそこに競争が生まれ、働く意欲の一端を形成します。
 自分の能力をより高く評価してもらおうとしたら、より多くの、あるいはより高度な仕事を引き受けてやり遂げなくてはいけません。しかしそうなると責任も負担も上昇しますから、あとはバランスの問題で、「自分はこの程度でいい」という限界点に達したら、競争から降りるとか、守りに入るとか、生き方を変えるしかありません。それでいいと思います。

 しかし町内会はそういうわけにはいきません。町会長から町会長連合会の会長、さらには市会議員へと進もうといった妙な野心を持つ人を除けば、町内会の役員になることに何の恩恵もないのです。
 時間やエネルギーを奪われるだけで、何の見返りもなく、役員を引き受ける動機づけとなるものも一切ない。そのため、役員を引き受けることはもちろん、会員として町会費を払い続けることさえ耐えがたくなる――。
 かつて「社会三悪」と呼ばれた町内会(自治会)、労働組合、PTAは皆同じ状況で、脱会者が増えたり組織自体がなくなったりして、最近は話題にすらならなくなっています。

【合理的な廃止論と非合理な恐怖】

 町内会に限ってみれば、わが地域の町内会加入率も68.4%。アパート入居者を中心に三分の一近くの世帯が未加入となっていて、新たに加入する世帯がないばかりか、役員改選を機に脱会する人や、前々回の改選では隣組1組がまるまる全員脱会するというような事態まで起きています。

こうした状況でよく聞かれるのは、

  1. 任意団体への加入が強制されるのはおかしい。
  2. 共働きが当たり前で、65歳まで働くのも当たり前の時代に、町内会参加は負担が大きすぎる。
  3. 時代に合っていない(行政連絡とかはメールやLINEでやればいい)。
  4. 行政がすべきことを地域住民の無償奉仕に転嫁している。
  5. 人間関係のストレス。

といった意見で、合理性という点では町内会に批判的な人々の側にこそ理があると、私も感じています。

それに対する町内会存続論者の背景にあるのは“恐怖”です。

  1. ゴミステーションや防犯灯の管理は誰がやるのか。行政や警察の仕事だと言っても、現在のようなキメの細かいことを、行政や警察はやってくれるのか。
  2. 十分にやってもらえなかったとして、道路の補修・カーブミラーや横断歩道の設置なども含めて、地域の要望は誰が市役所などに訴えに行くのか。
  3. 万が一、大きな災害等があった時、町内会の自治組織がないと、誰がどうやって住民を守るのか。火急の時、職員は市全体の災害対応や日常業務を犠牲にしても、避難所運営に尽くしてくれるのか。

 いずれにしろ、行政や警察が必要な役割を果たし、大災害さえ起きなければ、町内会がなくても大きな問題は生じない、ということになります。そして大災害なんて、来ないところにはめったに来ないのです。

【町内会の規模縮小・形骸化論】

 もちろん町内会懐疑派の人々も、町内会のような組織がまったくなくてもよいと考えているわけではなく、ゴミステーションの管理や自主防災的な部分はなくなればやはり不安です。行政に言いたいことは山ほどあっても、自分から役所に出向く勇気も時間もない、そうなると町内会をなくしたあと、役員がいたころを懐かしく思うようになるかもしれません。
 町内会維持派の人々にしても、懐疑派から「だったら役員を出せよ」と言われても「ない袖は振れない」状態ではいかんともしがたい。
 そこで出てくるのが、規模縮小・形骸化論です。

  1. 町内会の機能を極端に減らし、防災・防犯・福祉等に焦点化する。
  2. 氏神神社の大祭を始めとする宗教色の濃いものからは手を引き、寺社の運営組織に任せる。
  3. 行政に返せるものは、できるだけ行政に返す。
  4. 外部組織からの要請にはできるだけ応えない。
  5. 役員負担を大幅削減。
  6. しかし一度なくした組織は復活させるのが容易ではないから、できるだけ形だけでも残す(形骸化)

 そうした動きの先にあるのが、今回、私が改めて調べた町内会の実態です。なるほどスカスカなわけです。
(この稿、続く)

「役員改選のびっくりするその内実」~町内会役員改選狂騒曲②

町内会には知らない役職がたくさんあった。
その数、なんと30以上。
実際の仕事を聞いて回ると、意外な実態が見えてきた。
町会長だって案外できるのかもしれない。(写真:フォトAC)

【こんなにたくさんの役職がある】

 実は今回の町内会役員改選。私は町会長候補資格者のひとりであると同時に、役員選考委員のひとりでもありました。どういう人が選考委員になるのかというと、規約で、その年の隣組長が兼ねるのです。
 私の組は10軒で組長を回していますから、組長に当たるのが10年に一回。役員改選は3年にいっぺんですから、計算上、組長でかつ選考委員となるのは30年にいっぺんで、それが今年だったのです。ですから私としては初めての経験。役員選考については毎年回覧板で回ってきますが、まじめに見たことがないので、今回初めて丁寧に規約を読んで、地区にこれほどたくさんの役職があり、大勢の人で地区を動かしていることにびっくりしているような有様です。
 正副会長・会計・書記、公民館長・副館長・主事。自主防災会長、民生委員・児童委員、子ども育成会長、文化委員、体育委員、交通安全協会代表理事・・・等々。すでに選出済みだったり任期が2年の別枠だったりするものも含めて、その数ざっと30以上。これだけの人数を選び出すのは、確かに容易ではありません。

【分担して選出ないし依頼する】

 そこで、人選が難しく、選考委員全員で検討しなければ決められない町会長だけは別にして、あとの役職は、分担して依頼するか、選出することになっています。私は主として公民館関係の役員を決める部会に属することになりました。いちおう責任者です。しかし先ほども言ったように、何も知らない責任者。
 市の公民館がどういう事業をしているかくらいは、元社会科教師ですので知っているつもりでしたが、町内会レベルの公民館活動となると、建物の貸し出しをしているくらいしか知らなかったのです。
《子ども夏祭りは公民館か? 育成会か? それとも学校のPTA地区指導部か?》

 これでは役職の頼みようがありません。今までの選考委員は、
「オレもよく分かっていないが、なんとか頼むよ」
とゴリ押しで頼んだようですが、私は気が小さいので、いちおう大まかな仕事内容と出動回数・時間くらいは知っておこうと、現在の役員に電話で聞き回ったのです。その結果わかったのは、
「どうやら、誰がやってもできるくらい、仕事が少なく楽らしい」
ということでした。

【大部分は、誰がやってもできるくらい、仕事は少なく楽】

 例えば公民館長は書式に従ってスポーツや芸能・文化関係のサークルを募集して立ち上げ、大会や文化祭への道筋をつけたらおしまい。あとは年数回の会議に出るだけ。サークル立ち上げといっても、前年度から続くサークルが書類を更新するだけですから、手続きについては各サークルの責任者の方が詳しいくらいの状態です。
 その下の副館長は、各サークルに降りてくる補助金を銀行で下ろして、責任者に渡せば一年間の基本的な仕事は終わり。もちろん総会に提出する資料作りだとか、毎月の回覧文書やチラシ配布の下準備といった雑用もありますが、基本は前年度踏襲で、仰々しい名前の割には誰でもできる仕事になっているようです。

 さらに言えば、中には「3年間、何もしていない」という役職の人もいました。外部の組織への地区代表といった役どころですが、「年に2回ほど封書が来て出席を求められたが、ご丁寧に『欠席の場合は、電話またはファックスで連絡を』とあったので、その都度、連絡はきちんとしたが出席したことがない。3年前に役を受ける段階で、『仕事があって日中は出席できない』と断ったら、出席しなくてもいいから名前だけ貸してくれと言われて貸しただけ。ホントに何も知らなくてごめんなさい」
といった調子です。
 これでがぜん、頼みやすくなりました。

【町会長だって意外と楽かもしれない】

 私は以前、民生委員・児童委員の仕事に関して、
 昔と違って今は私のような地域を知らず福祉も分からないド素人も携わらないと、人手の足りない時代です。自然と仕事自体が“誰でもできる分量”の、“誰にでもできる中身”になっているのです。難しいことが起こったら丸投げできる機関(包括支援センターだとか市の福祉課)などがたくさんあります。困っている人と一緒に解決策を探していればいいのです。
と書いたことがあります。

 私が役員改選で町会長のくじを引き当てても《それはそれで、いいかな》と思ったのは、もちろん、いざとなれば民生委員・児童委員を盾に候補の順位を下げることができるかもしれない、という目算があったのと同時に、《町会長といったって、意外とたいへんではないのかもしれない》という気持ちがあったからです。
 もしかしたら町会長の一番たいへんな仕事は、次の役員を決めて仕事を引き継ぐことであって、仕事自体はそれほど難しくない。引き継ぎの大変さばかりが目立つので腰が引けるだけ、最初から後継者を決めて、時間をかけて育てていけば、案外いけるのかもしれない、そんな考えです。
 楽でなかったら、楽にすればいい。
 (この稿、続く)

「会議は踊る、されど進まず」~町内会役員改選狂騒曲①

3年に一度の町内会役員改選。
町会長のなり手が見つからず、
ついに候補者をくじ引きで選ぶことに。
その騒動の裏で、目に見えてきたこと。(写真:フォトAC)

【町内会の役員改選が始まる】

 年の瀬もジリジリと近づいて、ことと次第によっては来年度の準備も始まろうとしています。思い出せば学校の人事もこの時期から始まっていましたが、現在の私の周辺のもっとも熱い話題は、3年に一度の町内会役員改選です。御多分に漏れず、町会長の成り手がいない。他の役職も希望者がいるわけではないのですが、町会長だけが飛び抜けて大変そうで、町会長回避のために他の役職に手を挙げてしまう人が続出すると、気がついた時には《町会長だけが空席》といった事態が起こりかねない状況があります。

 20年~30年以上遡ると、現会長が後任を決め(たいていは中学校・高校の後輩)、形ばかりの推薦・立候補があってシャンシャン決議をしていたのですが、地域の人口構成が旧来の住民中心から、新規参入者中心になって、先輩・後輩の半強制・支配関係から解き放たれて――というか、要するに近代的な法制度と同時に裏で動いていた「村の掟」みたいなものがいつの間にかなくなって、真に民主的な、自主性を重んじた制度に生まれ変わった結果、誰も手を挙げなくなってしまったということなのでしょう。「なあなあ」で、あるいは搦め手でやっていた古くからの曖昧な慣習を排除し、個人の『自主性』を重視した結果、かえって何も動かなくなるというのは、よくあることです。

 前回も、規約に則って夏にいちおう立候補と推薦を募ったものの、自ら手を挙げる人はもちろん、毎晩が月夜というわけではないので(刺されてはいけないの意)本人に無断で推薦する人もなし。そこで《人材はないわけではない。しかし現職のサラリーマンに話を持って行けば断られるに決まっている。80歳以上に押し付けるのはほとんど犯罪だ》と、誰かがそう考えたようで「65歳から75歳未満の前期高齢者にやってもらおう」ということになり、これも誰がどこかで聞いてきたらしい「アクティブシニア」という格好いい名前をつけて敬意を表し、その中で決めてもらおうということになったのです。

【会議は踊る、されど進まず】

 委任状提出者も無断欠席者も含めて、最終的にはくじ引きで7人の候補を決め、その中で話し合ってもらうという会議。自分の知らないところで選ばれても面白くないのでいちおう出席した、という感じなのか、意外な盛況ぶりで9割以上が集まったのですが、やりたくない人ばかり何十人も集まっても、建設的な話し合いができるはずはなく、「会議は踊る、されど進まず」状態。
 最初から大荒れで、決め方自体に疑問を呈するソモソモ論者もいれば、「選ばれたら町会を抜ける」と脅す人、「今日来なかった人、全員を推薦します」などと無茶ぶりをするやけくそ人。あとは「厄(役)除け観音」のお札を握ってひたすら祈る人(これは創作)、その他もろもろが続出・・・。

 最後は現会長が力でねじ伏せるように議論を打ち切って、くじ引き(よくねじ伏せられたなあ)。7人を選出してそのまま終了。選出された中に委任状提出者、つまりその場にいない人がいたために話し合いにならず、後日その7人が集まって話し合うようです。しかし、いかがなることやら。

 私は“当たっても当たらなくてもどちらでもいいや”という気持ちでくじを引きましたが、あっさりと外れ。後日の話し合いにも不参加で、結末まで見たかった身としては、ちょっぴり惜しい気もしましたが、しかしもちろん、選ばれなかったのが良かったことには違いありません。

【あっけない結末の理由】

 ところで、先ほど私は、「最後は現会長が力でねじ伏せるように議論を打ち切って、くじ引き」と書きましたが、これはまったくの予想外で、集まった人たちがもっと強く抵抗して、侃々諤々の大議論、喧々囂々の大非難、罵詈雑言が飛び交い、にっちもさっちもいかなくなって、やがてその緊張感に私が耐えられなくなって、思わず手を挙げて、《ここまで紛糾するなら、私がやってもいいですけど》そう発言して引き受けかねない自分を、どう抑えていくか――実はその日、私はそこまで考えて会場に入っていたのです。
 ですからすんなりくじ引きが始まったときは、かなりびっくりしていて、くじを引くにも気合を入れ忘れたくらいでした(むしろ気合を入れなかったからハズレた)。

 しかしいま思うと、私と同じように、《あまりにも面倒くさいことが起こるようなら自分がやってもいいかな》とか《くじ引きで当たったなら、それも運命だな》くらいの気持ちでいた人は意外と多かったのかもしれません。

 全員65歳以上で、すでに人生の荒波を何度もかいくぐってきた人たちです。社会経験も豊富であれば、後期高齢者と違って、まだガンガン仕事をしてきた時代の余力も残っています。いざとなればなんとかなる――そう思えるくらいの胆力の備わっている人がほとんどで、だからすんなり通った。いちおう抵抗してみるが、ダメなら仕方ないかな、くらいの人も多かったのかもしれません。

 ただし、私が「やってもいいかな」と思ったのは胆力の問題ではありません。私には別の思いと見通しがありました。
(この稿、続く)

「のっぺらぼうの学校、責任を取らない企業」~私たちは何を恐れ、何を見過ごしているのだろう

小学校のサイトから、子どもたちの顔が消えた。
個人情報を守るためだという。確かにリスクはある。
だが、豊かさを犠牲にしてまで守るべきものとは何か。
数百万件の情報漏洩には、誰が責任を取るのか。(写真:フォトAC)

【のっぺらぼうの学校】

 孫の通う小学校の校長先生が情報発信にマメな方で、ブログ形式の学校サイトが行事のたびに更新されます。
 校長先生が運営する学校サイトというのはかなり便利で、大きな問題になれば校長先生ご自身が責任を取って辞職すれば済む話で、巻き添えになる人はあまり多くありません。普通、サイトの更新は、「係がページを作成する」→「教頭先生の裁可を受ける」→「校長先生の裁可を受ける」と、スムーズに行ってもこれだけの過程があり、問題があれば差し戻しで修正。管理職もその都度、渡されたファイルをすぐに見るとは限りませんから、1日~2日、手元に置かれると、1ページ更新するのに一週間もかかったりします。ニュースの新鮮さは失われ、陳腐な記事は閲覧者も少なくなりますから次第に廃れ、やがて形ばかりになり、学校サイトは校長が変わったときくらいしか更新されない死んだサイトになってしまう――そんな例を私はたくさん見てきました。
 しかし孫の学校のブログの担当者は校長先生自身ですので、更新スピードは速く、常に最新の情報が掲載されています。

 プライバシーを配慮してか写真はかなり小さく、年寄りの目につらいだけでなく、時には写真に写った服装を手掛かりに、親に判断してもらわないと孫と分からない場合もあります。ですから稀に孫らしい子どもが写っていたりすると、すぐにLINEで娘に知らせ、「〇〇の写真の、右から2番目、ハーヴじゃない?」と訊ねます。すると娘からも「そうです、ハーヴです!」などと喜びの声が返ってくることが少なくありませんでした。娘にしても、学校での子どもの様子は知りませんから、生活の一端を見ることができて、楽しみのひとつでもあるようでした。
 今年は孫2号のイーツも小学生ですから、1年生のページも確認しなくてはなりません。毎日更新というわけでもありませんが、家族の中の「写真確認係」として、毎日、いちおう見るだけは見ておこうと張り切っていたのです。
 ところが、今年度になって、写真の子どもたちの顔に、いちいちボカシが入るようになったのです。まるで妖怪学校の“のっぺらぼう”の授業風景です。

【学校公式サイトが豊かさを失った日】

 そうした“のっぺらぼう”の学校には既視感がありました。
 いまから四半世紀以上前、私はある小学校の教務主任として、学校サイトの担当者でした。ことさら教務主任と書いたのは、ある程度責任の取れる立場でしたので、管理職の目を通さず、かなり自由にサイトの更新ができた状況を理解してもらうためです。今で言う“コンプラ”よりも、情報発信が優先される時代だったということもありました。

 当時の私の学校サイトの特徴はとにかく更新が早い。文章を書く手間を(したがって校正の手間も)惜しむので写真の枚数が半端でない。遠足などでは、予めサーバーにフォルダをつくっておいて、帰校した学年から随時写真を入れてもらい、それを私が学年ごとに片っぱしアップするので、場合によっては児童の帰宅より先に更新されることもあって、保護者からの評判もすこぶるよいものでした。
 おそらくその速さと更新頻度のおかげで、当時ネット上にあった「学校ホームページ・コンクール」では優秀賞の常連でした(残念ながら、最優秀賞は一度も取ったことがない)。写真はそのクラスの学級担任が選んだものです。つまり、『先生の、先生による、先生が選んだ』写真ですから、子どもたちが生き生きとしていて、それが最大の魅力であったことも間違いないでしょう。

 その表情豊かな楽しい小学校サイトが、私がその学校を去って2~3年後にすべて“のっぺらぼう”の気味悪い写真に替えられてしまったのです。私の作ったページは膨大でしたから、修正しきれなかったのでしょう、丸ごと削除です。
 サイト自体がすっかり楽しいものでなくなり、閲覧者もぐっと減って更新のスピードも落ちます。私は別の自治体に異動していたので事情は分かりませんが、おそらく市の指導が入ったのです。以後、“のっぺらぼう”の学校は全県に、そしてやがて全国に広まっていきます。

【なぜ子どもの写真をネットに載せてはいけないのか】

 なぜ子どもの顔を出してはいけないのか?
 挑戦的な話ではなく、純粋にわかっていないので問いかけますが、例えば私の孫の1号や2号の顔写真が大映しで学校ブログに載ったとして、そこにどんな被害が想定されるのか、具体的に想像ができないのです。
 孫の顔写真が世界中に配信されることでどんなリスクがあるのか――と首を傾げていたら、昨日のBSS山陰放送が、SNSで子どもの写真が広がることに関して、こんな記事を掲載したようです。
『運動会で孫の写真をSNSにアップ…「お友達の顔、モザイクなしでバッチリ写っている」 祖父母が投稿し炎上するケース相次ぐ 「子どもや園名が特定される」「防犯上のリスクが凄まじい」保護者に求められるネットリテラシーとは?』
 それによると、

  1. 社会には、DV被害やストーカー被害から逃れるために隠れ住んでいる親子や、様々な事情で居場所を知られてはならない子どもたちも存在します。(中略)そんな恐怖と隣り合わせで生きている保護者にとって、無断のSNS投稿は「配慮不足」の一言では済まされないリスクになり得る。
  2. 一度ネットに出た画像は意図しないところで保存・拡散されていき、いわゆる「デジタルタトゥー」として二度と完全に消去することはできなくなってしまう。
  3. 今の時代、何が起こるかわからないので、子どもを危険にさらしたくない

ということです。

 しかし私が知る限り、学校サイトに掲載された写真やSNSの画像が直接のきっかけとなって、子どもがストーキングされたり、誘拐されたりした事件はないように思うのです。悪意をもって子どもや女性に近づく人間は、もっと手近で、簡単なところで獲物を見つけます。
 DVやストーカーの被害者の心配なら、テレビのニュース番組やバラエティ番組だってリスクは同じでしょう。映画『八日目の蝉』の誘拐犯(永作博美)は事件から四年後、参加した地域の祭りの様子がニュース番組で紹介され、逮捕されています。なにもサイトだけ問題なわけではありません。

 しかし「だからネットに載せたっていいだろう」と突っぱねる気持ちがあるわけではありません。「3. 今の時代、何が起こるかわからない」「一度ネットに出た画像は意図しないところで保存・拡散されていき」いつか現在の私たちでは想像できないようなやりかたで悪用される心配がある――と言われれば抵抗できないところです。黙るしかありません。
 今の豊かさを捨てても、将来の見えない危機に備えるべきだ、というのは納得できる話です。ただそれと同時に、こんなに慎重になり、臆病になって備えても、破綻はまったく別の方からやってくるかもしれないという思いもあります。

【数百万人分の情報漏洩なら責任を取る人はいない】

 ここ20数年、持ち帰り仕事をなくせないばかりに個人情報を持ち出して紛失したり盗まれたり、その上で処分された教員は山ほどいます。他方で、ここ一週間余りの最も熱いニュースは、企業における個人情報の漏洩事件です。

  • 銀のさら・釜寅(最大650万件)
  • SpeeCAN RAIDEN(防災メール:313万件)
  • Gyazo(約2,362万件)
  • skyticket(約1,464万件)
  • ブックオフ(638万件)
  • KDDI ISPメール基盤(1,223万件)
  • タイムズカー(約660万アカウント)

 システムに穴があったにもかかわらず、これらの事件に関して誰かが処分されたという話は寡聞にして知りません。
「ひとり殺せば殺人犯だが、(戦争で)数千人殺せば英雄だ」
と、そんな言葉が頭に浮かんできます。

「神は細部に宿る」~その下弦の月、ちょっとおかしくないか?③

ドラマに見つけた月の描写と時間設定の誤り。
なぜ制作現場の誰も気がつかなかったのか。
細部をおろそかにする仕事から良い作品は生まれない。
神は細部に宿る。(写真:フォトAC)

【なぜこんな過ちが放置されたのか】

 今月始まったテレビドラマ『ハイド&シーク 0秒前の彼女』について、細部が詰められていない、時間設定がおかしい、背景がきちんと調べられていない、といった問題を取り上げています。

 私が不思議に思うのは、こうした中途半端なドラマ作りが、なぜ老舗の日本テレビの現場で、可能だったのかという問題です。
 テロリストに捕まっているかもしれない恋人の居場所を特定するのに、月が映った写真から位置を割り出す――そんなきわめて神経を使う場面で、最も重要な写真に対し、誰一人として「間違っているかもしれない」と疑いの目を向けなかった、それが理解できないのです。そうした具体的な細部を確認する担当者は、いないのでしょうか? いなかったとしても、映画やドラマ作りに関わる人間は膨大です。現場スタッフだけでも何十人もいる中で、誰ひとり「ちょっと確かめてみましょう」と言わなかった、それが解せません。

 もちろん、たまたま全員が月や天文に関する興味の全くない人ばかりだった、ということはありそうです。しかし「釜山のリゾート海岸で行われる午後10時半以降の花火大会」の方はどうでしょう。「そんなに遅い時刻の花火の設定でいいんですか。大丈夫ですか」と、ほんとうに誰も疑問を差し挟まなかったのか。誰かは指摘したものの、無視されてしまったということなのか。

【私だったら黙っていない】

 もしかしたら原作がすでに間違いを犯しているのかもしれませんし、脚本づくりやドラマ撮影がかなり進んでいて、今さら疑問をさしはさめる雰囲気ではなかった――そういう事情もあったかもしれません。しかし私だったら、たとえ自分が18歳の学生アルバイトだったとしても、おそらく言います。
 もちろん演出家や脚本家に噛みつくなんてことはできませんから、直属の上司や責任者、あるいは自分の仲間たちの耳に届くよう、「これ、絶対におかしいと思います」と言うに決まっています。
 だってせっかくやっているのですからいい作品をつくりたいじゃないですか。いい仕事をしたいじゃないですか。現場にいる先輩や仲間も、みんながいい作品に仕上げようと頑張っているのですから、こんなに明らかで単純な瑕疵は、絶対に修正したくなるじゃないですか。そうおもいません?

 もちろん問題が根本的なもので、大掛かりな変更や撮り直しが必要ということになると、とてもではないが対応しきれない、間に合わない、ということもあるでしょう。そうなったら脚本家も演出家も、自らの経歴に大きな傷を残す覚悟で、そのまま制作を進めざるを得ないということになるかもしれません。しかし今回の月の話は、そこまで大がかりなことではないのです。

【対応は難しくない】

 「下弦の月」という設定を「上弦の月」に替え、画像やせりふの一部を替えるだけでいい。スマホに送られてきた半月と、回想場面で若いカップルが見上げたCGの月を、左右反転するだけで、午後10時過ぎに水平線(地平線)上にのぼってくる下弦の月を、午後6時ごろの南の空の、一番高いところに輝く上弦の月に替えることができます。
 午後6時ごろ南中する上弦の月は、付き合い始めたばかりのカップルが本格的な食事に向かう途中で見上げるのにふさわしい月ですよね。午前6時の白んできた空に下弦の月を見上げるカップルより、よほど現実的です。
 それに午後6時前後の釜山なら、別の場面における「ヘウンデで花火大会だそうだ。見物でも行くか」のセリフもごく自然に聞こえます。なぜそんな簡単な変更ができなかったのか。

【神は細部に宿る】

 私のような素人が気づくことを、現場の誰ひとり気づかなかったということは考えられません。きっと何人かは気づいていて、しかも誰も言わなかったのでしょう。なぜ言わなかったのか――それもわが身に寄せて考えると分かります。
 
 もし私が瑕疵に気づいているのに何も言わないとしたら、それは、すでに「作品がダメになってもいいや」と思っているか、何かを言うことに懲りてしまったか、あるいは最初から諦めている場合です。積極的に作品に絡んでいこうとしない、ただ言われるままに働いている。現場に「良い作品をつくろう」というエネルギーがない。
 
 昨日の記事でも書いた通り、スピルバーグのような力でぐいぐい引っ張っていく才能あふれる演出家や脚本家もいます。しかし普通は細部にまでこだわって、丁寧に作られた作品にこそ秀作は生まれ、そうした作品作りをする制作者だけが一流になっていくものです。
 『ハイド&シーク 0秒前の彼女』はすでに第2回目の放送を終えていますが、主人公が突破できずに苦労している厳重な警察の包囲網を、機関銃を持ったテロリストたちは逆から突破して、主人公を探し出し殺そうと考えます(別の理由から、実際にはしなかった)。こんな雑で乱暴なドラマを、楽しめるはずがありません。

 私は細部がおろそかにされた作品は信用しませんし、細部にいい加減な人間も信用しません。

【付録の話】

  1. 今日の記事も含めて、私は再三にわたって「下弦の月が南中する(南の一番高いところに上る)のは午前6時前後の夜も白み始めたころ」という書き方をしていますが、下弦の月の月の出が午後10時15分という、私の思っていたよりも1時間45分も早い場合がありますから、南中時刻も計算し直さなくてはなりません。『ハイド&シーク 0秒前の彼女』が参照したのは2026年10月3日の下弦の月でしたが、午後10時15分に再び上ってきたこの月が、次に南中するのは翌4日の午前5時1分だそうです。十分に暗い時刻で、回想場面に出てきた風景とよく合います。
     しかしこんな早朝に高層ビル街を歩いているカップル。始発電車前ですから、一晩中、いったい何をしていたのか、さらに勘繰りたくなります。

  2. 「上弦の月」「下弦の月」という命名は、月が西に沈む際、明暗の境目で直線になっている部分(弦)が、半月全体の上にあるのか(上を向いたお椀の形になる上弦の月)、下にあるのか(伏せたお椀の形になる下弦の月)によって決まると私は思い込んでいました。しかしこれには諸説あるらしく、「上弦」「下弦」の覚え方としては、「西に沈む~」でいいのですが、名前自体は別のところからきている可能性もあるみたいです。

(この稿、終了)