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「なぜ学校の人事異動は極秘みたいになるのだろう」~早く新年度準備を始めたいのに、いつまでも陣容が見えてこない

 来年度の学校の教職員構成、
 いつまでたっても教えてもらえない。
 新年度準備に早く手をつけておきたいのに、
 どうして極秘事項みたいなってしまうのだろう?
 という話。(写真:フォトAC)

【新年度準備、しかしいつまでも来年度の陣容が見えてこない】

 いよいよ卒業式も佳境。
 それが終わると先生方は一斉に指導要録の仕上げと点検作業に入ります。同時に新年度の準備も始まって、教科書の手配をする先生、清掃用具の点検をする先生、新入生の教室を整え飾る先生などと、忙しい毎日が続きます。
 
 中でも大変だったのが時間割づくり。
 校内に理科室が二つしかないのに三クラスに同時に割り当てたり音楽専科の先生がいちどきに二クラスの指導をしたりといったことがないように、すべての条件を当てはめて検討を重ね、完成に近づけます。できるだけ先生方の負担を少なくする、すべての先生を公平にする、などと言い出すと「完璧な答えのない問題」だけにかなり大変で、係は丸二週間くらい缶詰め状態でがんばったものでした。今は専用ソフトがあるから簡単みたいですね。ネット上では「ソフトを使ったらあっという間」という話ですから、便利な時代になったものです。
 
 しかしどんなにすばらしいソフトができたところで、新年度の陣容――学級数や学級担任、教科担任の配置や名前が分からなければ、時間割づくりは始まりません。下足箱やロッカーの割り当て、職員室の机配置などの係も、教職員の構成が分からないと手がつけられません。
 さすがに卒業式の前日くらいまでには校長先生から発表がありますが、仕事の早い先生などは1分でも早く知って、1秒でも早く仕事に取り掛かりたいところですが、人事というのはなかなか出てこのないのが普通です。

【人事は下駄を履くまで分からない】

 なぜ人事異動が重要機密事項のように扱われてなかなか出てこないのか――これにはさまざまな理由があって、その最大のものは「人事は下駄を履くまで分からない」からです。
 「人事」はおそらく多くの自治体で10月ごろから「人事異動に関する基本的ルール」を教職員に周知するところから始まり、異動の希望を取ったり昇任の勧めをしたり、人を調べてすり合わせたりと、あれこれ揉んだ末に、年が明けたころからそれぞれの赴任先を決め、本人に知らせて実質的には終了。最後は新年度準備が始まるあたりで他の職員に周知して形の上でも終了と、そうなるように思われています。しかし実は3月31日、最悪の場合は次年度に入っても動いている大変に面倒くさい仕事なので。

【とりあえず必要な教師の数が確定しない】

 萩生田文科大臣の時に鳴り物入りで始まった35人学級――2024年度、つまり今年の4月からは小学校5年生まで延長されます。35人学級というのは全クラスを35人にするというわけではなく(そんなことはできない)、「1クラスの児童数の上限を35人とする」というもので、35人を一人でも越えた瞬間に2クラスにしなくてはならない制度です。
 ある学年の1クラス35人を持ち上げて来年もその人数でやって行こうと思っていたら、翌年たったひとり転校してきただけで18人の2クラスになってしまい、教室がうすら寒く感じた、そういった経験をした先生が何人もいるはずです。しかしうすら寒かったのは担任の先生だけでなく、校長先生も同じでした。
 3月の末に予定外の転入生があって急にクラスを2つにしなければならないとなると、担任の先生もふたり必要になるからです。ひとりは最初からいますが、もう一人はどこかから連れて来なくてはなりません。昨今の教師不足・講師不足を考えると、そう簡単に済む話ではありません。

 しかしその逆はもっと大変で、1学年が36人なので18人の2クラスにしていたのに、とつぜん転出する児童が出て”35人の1学級”に戻さなくてはならなくなった――この場合はなんと、先生が一人余ってしまうのです。税金から年間給与で数百万円も渡している教師を、ただ遊ばせておくわけにもいきません。だからと言って辞めてくださいとは言えません。
 
 そんなときは校長が教育委員会に相談に行けばいいのだそうで、教育長か直々に出て来て、ニコニコしながらこう言ってくれるのだそうです。
「先生が余ってしまったって? 見通しを誤ったからといって気にしなくていいよ。キミが責任を取って辞めればいいだけのこと。それでひとり減らせる」
 もちろん校内の都市伝説ですが、それくらいたいへんなことだという教訓です。

 特別支援学級は上限が8人。小規模校の複式学級(2つ以上の学年で1クラスを編成)は16人が上限ですので、35人学級よりさらに学級数が変動しやすくなります。
 必要な教員数がいつまでも決まらない、だから人事が長引く、その一番おおきな原因がここにあります。

【人間はナマ物、何が起こるか分からない】

 もうひとつ重要な問題は、
「人間はナマ物なので何が起こるか分からない」
ということです。
「結婚退職のはずだったが破談になった」
「介護離職のつもりが必要なくなった」
 あるいは、
「事件を起こして逮捕された」

 退職を取り消したいと言われて、
「一度辞めると言ったのだから帰ってくるな」
とも言えませんし、 “逮捕事案”の方は、
「まあ、仕方がなない。そのまま異動して、異動先の校長先生に苦労してもらいましょう」
という訳にもいかないでしょう。テレビカメラの何台も並ぶ前で、何の落ち度もない校長と市町村教委代表に、深々と頭を下げさせる訳にもいきません。下げても誰も納得しないでしょう。
 さらに言えば一般職の逮捕ならまだしも、副校長(教頭)予定者あるいは校長予定者の犯罪だった場合、「なんでそんな人間を昇任させたんだ」と教委自体が叩かれるのは目に見えています。昇任人事の発表も3月最後のギリギリまで引っ張っておけば、万が一のときでも“昇任させようとした”ことがバレずに済みます。破談だの介護が不要になっただのといった個人の情報も、不必要に出さずに済む。だからギリギリまで引っ張るのです。

【人事は下駄を履いてもまだ未定】

 実際に異動して辞令をもらうまで、すべての人事は仮決定です。
 例えばA中学校でひとりの教師が、先ほど申し上げた「破談になった」「介護が不要になった」等々の理由で退職を取り消した場合、その教師ひとりが元の席に戻れば話が終わるわけではありません。すでにその席に座るひとが決まっているのです。
 だからA中学校に来るはずだったB中学校の教師をいったんB中に戻し、そこで人事をやり直さなくてはなりません。B中の先生の通勤可能な範囲に適当な赴任先が見つからなければそのままB中にお勤めいただき、新しくB中に来るはずだったC中学校の先生に他の学校へ異動してもらえるかどうかを打診します。席がなければどこかで講師の先生に辞めていただいて席を空けませます。いずれも本人に何の落ち度もないのに行く先が変わるわけです。
 そんなこともありますから、人事異動はなかなか早くには発表できないのです。

「卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか」~地域の人々に対する感謝とお披露目の式、自分一人の命ではないと自覚する日

 卒業式をもっと簡略化できないか、
 もっと楽しいものにできないかという人がいる。
 しかし待ってほしい。
 あれは単なるお祝いの会ではないのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【卒業式の日取りは案外バラバラ】

 さてその前にーー。
 令和5年度(2023年度)の卒業式の日取りは全国平均でどのあたりかというと、これが案外厄介です。
 私は始業式や終業式、長期休業の日程などについてはいつも「日本文化研究ブログ」というところを参考にして、それでも足りなければさらに調査するのですが、それによると小学校の卒業式で早いところは3月12日(福井県福井市)、遅いところで3月25日(東京都新宿区、岐阜県岐阜市)と、二週間近い開きがあるのです。土日祝日を除く授業日数で8日、時数で48時間の差。小学校で言えば「特別の教科である道徳」と「特別活動」、中学校ではそれに加えて「音楽」や「美術」「技術・家庭」の年間時数が35時間ですから、45時間というのはたいへんな数字です。
 
 もっともそれは3月だけの話で、東京都や岐阜県が夏休みや冬休みを長く取っていれば福井県よりもたくさん授業をやっているということにはなりません。年間を通せば、おそらくトントン程度にはなるでしょう。
 ただ今年は4月1日が月曜日ですから、東京都や岐阜県の先生で遠方へ転勤される方は、わずか1週間で学校の事務を閉じ、自宅の引っ越し準備をして引越しし、最低の荷解きをして赴任先に出勤しなくてはならないのですから、これは容易ではありません。23日・24日の土日なんて、死ぬほど忙しいことになっているのかもしれませんね。
 
 全体を見回すと、卒業式が比較的集中しているのが今週末22日(金)の11府県、今日18日(月)と明日19日(火)にそれぞれ11府県、8県といったところで、先週金曜日(15日)にやってしまったところも7県あります。変わったところでは土曜日実施の奈良県(16日)・宮崎県(23日)。
 どういう判断なのでしょう?

【卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか】

 さて、卒業式というとこのところ毎年のように話題になるのが、あのような格式ばった、退屈で、在校生ばかりでなく卒業生にとっても苦痛である式を、なぜやらなくてはならないのか、という問題です。具体的な解決策として、「来賓の祝辞はいらない」「校長先生の話も10分以内に」「在校生の出席もなくていい」「卒業証書授与だけでもいではないか」「もっと楽しい会にできないか」等々、さまざま提案がなされます。
 
 これに関して、最近「X」上に「卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか」を課題として授業を行った先生の記録が、板書の画像をともに投稿されて話題になりました。なぜか今は削除されてしまって閲覧できないのですが、その先生は学習指導要領の「特別活動→儀式的行事」の記述、
「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと」
を頼りに、
「真剣で、新鮮な感動を味わうことによって、中学校でもがんばるぞ、という気持ちになるよう活動を行うこと」
 つまり、
「真剣に取り組むことでしか味わえない感動がある、らしい(だから頑張ってビシッとやろう)」
というところに落とし込んだわけです。しっかりやることで、キミにも得られるものがあるよ、ということで、なかなか優れた実践かと思いました。

 それもいいのですが、私はこの問題に別の方向からアプローチしました。それは最も古い卒業式の形式から導き出された、

「卒業式は、納税や見守りといった形で6年間(3年間)子どもたちを支えてくれた地域の人々に対する、感謝とお披露目の会(だからビシッとしなくてはならない)」
というものです。

【地域の人々に対する感謝とお披露目の式】

 ひとり子どもがゼロ歳から18歳になるまでに、地方公共団体がつぎ込む税金は1千万円だと聞いたことがあります。それも20年以上も前のことですから、現在はさらに高額になっているかもしれません。それだけの金額をインフラ整備だとか社会福祉に使わず、教育に回してくれているのですから、「ここまでやりました」と、どこかの時点で報告をしなくてはなりません。それが「卒業式」、正式には「卒業証書授与式」です。

 入学式にも始業式・終業式にも正式な名前はないのに、卒業式だけは正式名があるという点には注意しなくてはなりません。なぜならその意味が「卒業証書を授け与える式」つまり、「与える側」が主体だからです。
 よく言われる「卒業式は子どもが主役」は間違いでないにしても、主催者(プロデューサー)は卒業証書授与者である教育委員会であり、評価者(観客)は納税者である市町村民なのです。そのことは古い卒業式の式次第を見るとすぐに分かります。

  1. 開式の辞
  2.  校歌斉唱(現在は国歌斉唱)
  3.  学事報告
    ・学校が卒業生に対して行ってきた教育内容を教育委員会に報告する(普通は教頭の仕事)。
  4. 教育委員会告示
    ・学事報告を受けて、最高学年生の卒業を認定する。
    ・短く「◯◯小学校6年生、男子◯◯名、女子◯◯名、計◯◯名 全員の卒業を認む」とか「今年の卒業生は男子◯◯名、女子◯◯名、計◯◯名です」という言い方になる。
  5. 卒業証書授与
    ・ひとりひとりに証書が授け与えられる。
  6. 校長挨拶
    ・卒業生および保護者への祝辞と地域住民への感謝
  7.  来賓(地域代表)祝辞
  8.  在校生送辞
  9.  卒業生答辞(校長挨拶・来賓祝辞・在校生送辞を受けての答辞)
  10.  保護者謝辞
    教育委員会および納税等によって支えてくださった地域住民、教職員に対する感謝の言葉を述べる。
  11. 合唱(校歌または卒業の歌)
  12.  閉会の辞

 主催者が教育委員会なので、入学式では来賓席の筆頭に座る教育委員会代表が、卒業式では校長の上座に座り、古くは来賓を会場にいざなうのも教委代表の仕事でした。

「とんでなく高額な税金を使って、私たちはここまで成長できました。ありがとうございました。これからもしばらく自治体の支援を頼りに私たちは成長していきます。いつか恩返しをします。だからもうしばらく私たちを見守ってください」
 それが卒業式なのです。だからビシッとしなくてはいけません。
「こんなつまらないものを育てるために、高い税金を払っているんじゃない」
 そんなふうに思わせるのはあまりにも不道徳です。

【自分一人の命ではないと自覚する日】

 同じ意味で保護者も地域住民に感謝の意を表しなくてなりません。それが「謝辞」です。
 メディアが言うように「学校が卒業式で保護者に『謝辞』を要求するのが僭越だ」ということなら、冒頭で、
「教職員の方たちへの感謝の気持ちは1ミリもありませんが――」
と宣言してくださってもかまいません。どうせ給与をもらっている身です。しかし地域の人々とその願いの具現化した教育委員会には、感謝の気持ちを表してもらわなくてはなりません。
 親が心から感謝する姿を見せて印象づけることで、子どもに自分の命が自分一人のものでないことを思い知らせるのです。命や成長が自分一人のものならすべて自己責任、どう扱ってもかまいませんが、他者に支えられてあるものなら、おろそかにしてはいけないということになります。

 保護者が「子どもは自分たちだけで育ててきたわけではない」ことを確認し、子どもも「親や地域に支えられて成長してきた」ことに思いをいたす――それが卒業式です。だから御覧なさい。来賓席には区長会長を筆頭に区長・民生児童委員・敬老会代表・児童館館長等々、地域の代表者がワンサカ来てるでしょ。

(参考)kieth-out.hatenablog.jp

「日本人を日本人に育てる教育を守る」~13年目の3・11に際して⑤

 学校が教えるべきは「教科」だけではない。
 「世界一やさしく、安全で、きれいな国」
 それをつくるための学習は、絶対に欠かせない。
 なのに、人々はその重要性を忘れてしまっている。
という話。(写真:フォトAC)

【学校は勉強を教えるところなのか】

 教員の働き方改革に関わって、
「学校は勉強を教えるところだから、教師をそれ以外の仕事から解放すべきだ」とか、「勉強以外のことは家庭に返すべきだ」といった話があります。ここで言う「勉強」は「人生すべてが勉強だ」みたいな広義のものでなく、狭く、「教科」のことと考えてよさそうです。
 しかしその「教科」も、中学校で言えば、国語・社会・数学・理科あたりまでは文句なく合意できそうですが、音楽・美術・体育・技術家庭科となると「なくてもいい」と言う人も出てくるかもしれません。
 「特別の教科道徳」はどうでしょう。残せという人といらないという人で極端に割れそうな気もします。「総合的な学習の時間」については、現場の教師からは「いらない」という声も出てきそうですが、社会的には最も評価の高い学習内容ですから、これも是非が割れるところでしょう。
 「特別活動」(学級活動や学校行事、児童会・生徒会活動など)は、全部なくせば「お勉強」の苦手な子は息がつまってしまいますから中身次第というところでしょうが、修学旅行をなくせ、あんな格式ばった卒業式はいらない、運動会はいらないとおっしゃる先生もおられますから、思案のしどころです。

【修学旅行はなくせるか】

 例えば修学旅行に関わって学習指導要領の[学校行事]→2 内容→(4)遠足・手段宿泊的行事を見るとこんなふうに書かれています。
「自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,人間関係などの集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと」

 注目すべき点は平素と異なる環境で、「見聞を広め、自然や文化に親しむ」という知的な学びをするとともに、「集団生活」や「公衆道徳」について「望ましい体験を積む」という人間関係の学びをしなさいとあることです。修学旅行は思い出づくりが目的なのではなく、いわゆる「お勉強」と、人間関係の理想的なあり方を体験させることが目的だ、という話です。だから「今は親たちがあちこち旅行に連れて行くから修学旅行に連れて行く意味がない」ということにならないのです。

 すべてとは言いませんが大方の親が旅行のたびに事前学習をしっかりさせ、家族内の役割をきちんと確認して当日は果たさせ、気持ちの良い家族旅行ができるよう事前のルール確認と事後の反省ができるとは限りません。それができるような時代が来たら、安心して親に返すことができますが、その日までは「旅行を学習すること」は、学校が行うべき仕事です。
 卒業式も運動会もみな同じです。退屈だからやめる、大変だからやめるという訳にはいきません。それぞれ家庭には任せられない、特別な意味があるのです。

【私の、震災後の気持ちの変化】

 東日本大震災を経て、社会も変わりましたが私自身も変わりました。一番大きかったのは教育観です。
 震災前は“学校教育”を子どもたちの自己実現の道具だと思っていたのです。コミュニケーション能力を含む知識や技能を十分高めることによって、自分のやりたいように生きる、自分のなりたい自分になる、生き生きと生きる、そのための教育だと思って何十年も教師をやってきたのです。ところが東日本大震災を経て考えたのは「ひとのために役立つ」とか「誰かを助けることができる」とか、そういった「社会のためになる人材を育てる」ことも、学校の重要な責務だと意識し始めたのです。そんなことは当たり前ですが、教育の軸足が大きくそちらへ傾いたということです。
 
 そうなると本人が学びたいことだけを学んでいればいい、という話ではなくなります。少なくとも日本人として、できれば外国でも通用するレベルで、秩序を守るとか、人間関係を他人の分まで含めてうまく調整するとか、ルールを守るとか、責任を果たすとか、分担するとか協力するとか、そういったよりよい社会の一員として身につけるべき能力と態度と意欲は、否が応にも学んでもらわなくてはなりません。
 それはいわゆる教科――国語や数学や社会科の主目的ではありません。「特別の教科 道徳」と「特別活動」の目的です。だからこの二つは、「教科」に匹敵して大事に扱わなくてはならないのです。

【教科・道徳・特活の、時数のまやかし】

 困ったことに「特別活動(特活)」はやることが山ほどありながら年間35時間を標準時間しか与えられていない学習指導要領の鬼っ子です。いじめ問題などを話し合うべき学級会や学級内の係活動、学級レク、児童生徒会活動の総会も委員会も、音楽会も音楽鑑賞会も演劇鑑賞も、遠足も林間学校も修学旅行も入学式も、卒業式も交通安全教室もボランティア活動もキャリア教育も、そしそしてそれらすべての計画づくりや練習も、ぜ~んぶひっくるめて年間35時間(小学校で45分、中学校で50分の35倍)しかないのです。そんなのできっこない。
 そこで例えば旅行学習の一部を、社会科や理科の時間としてカウントし、運動会は体育の時間を食い潰し、音楽会は会全体を音楽の授業として計算するといった暴挙までして「特活」の時数を35時間に納めようとするのですが、それでも2倍の70時間くらいになることは珍しくありません。
 教科の時数に手を付けるというには、その分、本来の授業ができていないということです。そんなバカなことがありますか?

【学校教育が限界だとしても、削るべきは別にある】

 いまそんなことを言う人はほとんどいませんが、「総合的な学習の時間」はもう役割を終えたことにしてその分を特別活動に移すとか、キャリア教育だの小学校英語だのプログラミングだのといった平成になってから増やした「追加教育」はすべて外すとかして、教科は本来の内容を学ぶようにすべきなのです。そして特別活動は実際に必要な105時間に設定し直す。そうでもしないとどれもこれも《あぶはち取らず》で、教科は伸びない、人間関係能力も育たないということになりかねません。

 特別活動は東日本大震災のときに世界から見直された日本人の資質を育てる「日本の教育の核心」です。どんなことをしても守らなければならないのがこえれで、それなのに今、教員の働き方改革を理由に減らされそうになっているのです。運動会の縮小、清掃の時間のカット、児童会や生徒会は日常の作業当番活動のみ、遠足も午前のみで午後は授業・・・。

 かつて「教師にゆとりを持たせただけのゆとり教育」と揶揄され非難されたように、「教員が楽をするための大事な教育の大幅カット」と言われる日が目の前に迫っています。
 そうならないために、ほんとうに削るべきは何なのか、真剣に検討されなくてはならないのです。
(この稿、終了)

「世界一やさしく、安全で、きれいな日本。しかし昔からそうだったわけではない」~13年目の3・11に際して④

 私は日本を「世界一やさしく、安全で、きれいな国」だと思っている。
 しかし昔からそうだったわけではない。
 日本がそうなったのは、ほんのここ数十年余りのことで昔は違った。
 ある組織が、意図的に、時間とエネルギーをかけてつくり上げたのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【世界一やさしく、安全で、きれいな国】

 2012年以降、2020年に新型コロナで大きく落ち込むまで、訪日外国人観光客は毎年うなぎ上りに増えていました。それも東日本大震災をきっかけに、日本人の美質が広く海外に紹介されたことと無関係ではないでしょう。
 日本は安全安心の国で、人々は基本的にやさしく親切で、無害な人たちばかりです。買い物や食事で騙されたりぼったくられたりする心配はほとんどなく、いつも盗まれないようにバッグを抱きしめている必要もありません。街はきれいで、公共交通を使っている限り、予定が狂ったり、電車が遅延したりすることもありません。
 何もかも安心して旅行の楽しめる国なのです。
 たいていの日本人はそれが当たり前だと思っていますし、昔からそうだったに違いないと思って、「日本人の国民性」だの「DNAに刷り込まれた」だの言いますが、そんなことはありません。

【昔から日本人が立派だったわけではない】

 私が学生だった1970年代、東京の空はいつもどんよりとくすんで暗く、稀にスカッと晴れたかと思うと、とつぜん目がチカチカと痛み始め、喉が詰まって酷い時は手足がしびれ出すことがありました。「光化学スモッグ」と言っても今は何のことか分かりませんよね。
 御茶ノ水駅付近の神田川は真っ黒に淀んで異臭を放ち、見るとポリバケツやらスチロールやらがいくつも浮かんでいます。その様子をお茶の水橋から見下ろしてから、目を転じてあたりを見回すと、かなりの数の男たちが歩きタバコで歩道を歩いていたりします。まったくの日常ですから緊張感も薄れ、ノースリーブの女性にぶつかって肩に火傷を負わせるといった事故も少なくありませんでした。もちろん吸い殻は路上に投げ捨てです。今や昔物語ですがタバコの吸い殻はきれいに散らばって路上にあるのではなく、雨が降るたびに車道の端、歩道の横に集まってきて、いくつもの綿みたいな塊をつくるのです。冬や春先はそこにスパイクタイヤに削られて粉塵となったアスファルトが積もり、車が通るたびに舞い上がって息もできないほどでした。
 日本はきれいな国などと、とてもでは言えたものではありません。

 人々が列をつくることについても、古い本にはこんな記述があります。
「列車発着の際における乗降客の混雑は常に見るところで、乗客の狭き出入り口において内よりいでんとする者と外より入いらんとする者とが同時に先を争い、はなはだしきは乗客と降客とが互いに行く手に立ちふさがり、空しく押し合うことすらある」(玄田作之進「善悪長短日本人心の解剖」1916;大倉幸宏著「昔はよかったというけれど」(2013)より孫引き)
といったありさまでした。昭和2年生まれの私の母に言わせると、
「日本人が並ぶのが上手くなったのは、戦争で何もかも配給制になって、あっちでもこっちでも並ばなきゃいけなくなったせいだよ」
ということのようです。

 しかしそうやって乗った列車の車内も大変なで、タバコの煙がモウモウ、傍若無人に大声で話す者、酒盛りをする者も絶えませんでした。東京―大阪間がオール電化されても7時間半もかかった時代ですから、持ち込みや駅弁で食事を二回食べる場合も少なくなく、大量のごみが生れます。するとそれらはすべて座席の下に置くのが習わしですから、列車が揺れるたびに通路側に出て来て、それはもうたいへんなありさまでした。
 そのころ教育を受けていた私たちが、山手線でペットボトルを床に置いたまま下車する若者に眉を顰めるのですから、いい加減なものです。

 ついでにもうひとつだけ紹介しておきますと、太平洋戦争前、日本で小口の国内運送が十分に育たなかった理由のひとつは、作業員による抜き取りが横行したためでした。現在のように箱の一部すら欠けたり潰れたりしてない完全な荷物が、抜き取りもなく届くなど、奇跡に近いことだったのです。
 日本人は、昔の方がはるかに不衛生、不道徳、不誠実だった、それは間違いないことです。ではいつからここまで過剰に道徳的な民族は育ってきたのか――。

【人間づくりのベースはやや高かった】

 ただ、最初から同時代の諸外国よりはマシ、という面もあるにはありました。
 例えば19世紀のロンドンやパリでは、室内で用を足してオマルに入った人糞尿を窓から表道に投げ捨てる習慣がありました。おかげで一部は壁に跳ね飛んで張り付き、多くは石畳の石の隙間をちょろちょろと流れてテームズ川やセーヌ川に流れ込んでいたようなのです。その同じ時期、日本の江戸では長屋や大名屋敷などの人糞尿が農家によって買い取られ、郊外に運ばれて肥料とされたため市内はすこぶる衛生的だったのです。
 そこには高温多湿な気候のために衛生管理をよほどしっかりやらないと、すぐに病気が蔓延してしまうという、経験から得た知識があったからかもしれません。また、基本的に農耕民族で集団として統一性や秩序がないと生産ができないという事情もありました。
 しかしそれでも、現在のような高い道徳性を築くには、中央集権的で画一的な、そして丁寧で強力な指導・教育がないと成り立つものではありません。では誰がそれをしたのか。

【誰が日本人を育てたのか】

「自分の汚した場所は自分で掃除」
「旅先では来た時よりも美しく」
「きちんと並びなさい」
「順番を守りなさい」
「仕事は分担し、協力するものです」
「挨拶は人間関係の潤滑油として大切なものです」
「身だしなみを気にしましょう」
「人知を上回る大切な何かが、この世には存在します。時には恭順の意を示しなさい。儀式は大事です」
「情けは人のためではありません、巡り巡って結局自分のところへ返ってくるものです。憎しみも、悪意も、同じように戻ってきます」
「誰かのために生き、誰かのために祈りなさい」
「命を大切にしましょう。その第一歩はあなた自身の命です」
 そういったことを、北は北海道宗谷岬から南は沖縄与那国島まで、全国同じように、たっぷり何年もの時間をかけて、精一杯情熱を傾けて教育した組織があります。日本人を日本人に育てるために、個人的な時間もエネルギーも、ときには私財までも投げ込んだ人々がいます。それは何か、誰か? ――そう考えていくと、答えはひとつしかないことがわかります。
(この稿、続く)

「震災報道を通して、自国の評価は180°変わった」~13年目の3・11に際して③

 震災のもたらしたものは災厄だけではなかった。
 最悪の状況でも冷静さと秩序を守り、自らに他を優先し、
 逞しく生きようとする日本人の姿は、世界中に報道された。
 「日本ブランド」が、彼我で承認されたのは、この時期のことだ。
という話。(写真:フォトAC)

【震災の中にも見えた光】

 2011年の日本は散々な状況にありました。地震津波だけでも絶望的だったのに、そこに福島第一原発の事故が重なり、通常の災害とは全く違うものになって、復興が大きく遅れるだろうことは誰の目にも明らかでした。多くの外国人が日本を脱出して経済活動は停滞し、外国人観光客の姿も見えなくなりました。日本産の農産物・魚介類の輸出は激減し、いまも制限をやめない国があります。
 しかしそれだけの傷を負いながらも、私たちに光が全く見えなかったわけではありません。希望の光は確かにあって、しかもそれは強く美しく、確固とした輝きを持っていました。日本人というブランドが広く知れ渡ったことです。

【2011年3月11日午後の日本】

 あれほどの災害でありながら、3月11日の午後から夜にかけてのテレビニュースは妙な方向を向いて不思議な静けさを保っていました。民放はかなりの時間をお台場の火災に振り向けていましたし、九段会館の天井が剥がれ落ちたといったニュースも繰り返し放送されていました。鉄道が片っ端とまってしまった東京都内では空前の帰宅ラッシュが始まっており、それに関する報道にも多くの時間が割かれました。
 
 あとで気づくのですが、あれほどの大災害になると、ほんとうに深刻な場所からの情報は、ほとんど上がってこないのです。停電が広範囲に及び、幾本ものアンテナが倒れると、まず通信が途絶えます。VTRや原稿を持って直接届けようとしても、道路も鉄道も使えません。映像として使えるものと言えば、自衛隊や警察が撮影した空撮映像がほとんどで、とてつもなく大きな被害が出ているだろうと想像はされるものの、生身の人間の見えこないとどこか曖昧です。
 そんな中に夜の気仙沼港の大規模火災の様子が映し出されると、否が応にも慄然とさせられるのですが、それすらも現実感がなく、どこか日本中が暗中模索の感じでいたような気がしていました。
 ところがほぼ同じ映像を見ていながら、まったく違うところに焦点を当てて目を見開いていた人たちがいます。海外の人たちです。

【冷静を保ち、秩序を守る】

 まず彼らを驚かせたのは、新宿駅や東京駅の周囲にできたとんでもなく長いバス待ち・タクシー待ちの行列でした。いつ果てるとも分からない長蛇の列が延々とならび、それを乱すものがいないという不思議さ、奇妙さ――。
 奇妙と言えばほとんど身動きできないまでに車道に溢れた車たちが、あちこちで軋轢を起こしているはずなの、威嚇するクラクションの音がほとんど聞こえてこないのです。後にある人はそのときの様子を、「まるで無声映画を見ているようだ」と表現していました。
 車が溢れているのに誰もクラクションを鳴らさないという風景は、おそらく日本以外ではほとんど見られないものなのでしょう。
 
 翌日になると被害の状況はすこしずつ見えるようになり、さまざまな日本人の行動が海外にも伝えられるようになります。まず驚かされたのは暴動や略奪が全く起こらないという不思議。人々は水や食料やガソリンを求めて、あちこちで長い行列をつくりますが、誰一人先を争ったたり盗んだりしません。職業的窃盗団が出没し、広大な被災地の一部では不道徳な行為や犯罪があったことも事実ですが、全体としては微々たるものです。
 
 どうしても略奪や窃盗の記事が欲しかったテレビクルーは、店舗ごと潰れてしまったコンビニで待ち伏せ、ものを取りに来た女性を捉えて、
「それ、持って行くんですか? お金払いませんよね」
などとマイクを向けて視聴者の大顰蹙を買ったりしました。
 津波で流れ着いたコンテナから食品を運び出して分けた人もいれば壊れた自販機から飲みものを取り出した人もいます。今回の能登半島地震では自販機を意図的に壊して避難者に配った人が名乗り出ていたりします。しかしそうした行為を略奪だの窃盗だの言い出したら、ひとは生きて行けません。そこまで高い道徳性を求めるのは、一部のマスコミだけでしょう。

【他を優先し、節度を守り、強く生きる】

 やがて本格的な支援物資が届くようになり、特にアメリカ軍の「トモダチ作戦」が始まると、寸断された道路のその先にある集落にも、空輸で大量の物資が届けられるようになりました。しかしようやく食料品などを手に入れることのできた人々も、必要最低限の量を確保するとそれ以上はい受け取らず、別な人たちのもとへと届けるよう依頼するのが普通でした。
 どう見ても八十過ぎのお年寄りが、瓦礫に囲まれた病院救出されると、「私はもういいから、他の人を助けに行って」と救助の手を振りほどき、逞しく歩いて行く姿などは、ほとんど神々しくてむしろ嘘ら寒いほどでした。

 家や家族を失った悲しさ切なさは万国共通です。しかしそんな中を、「仕方ない」と振り切って逞しく立ち上がる自立的な人々の姿を、カメラはたくさん捉えて世界中に発信し続けました。あれが悪いこれが悪い、あそこが助けてくれない、ここにもやってくれないなどと、いつまでもウジウジ言っていないのです。

【震災報道を通して、180°変わった自国の評価】 

 日本人の資質が試され、その美しくも逞しい国民性が世界の津々浦々まで知られるようになったことが、2011年の震災の、ほとんど唯一の慶事でした。
 それまでも海外に駐留する人々にとって「日本人」そのものがブランドで、日本人だという理由だけで人々から信頼されたり面倒な手続きの一部が省略されたりすることがある、という話はしばしば伝えられてきました。何十年もの時間をかけて先人たちが培ってきたブランドです。それが震災報道を機に世界中の共通認識となり、日本国内に戻ってきたのです。
 
 週刊誌やテレビが繰り返した「日本、スゴイ!」といった特集記事や番組は、あまりにも節度がなくて下品ですが、それでも震災前の、「日本の悪口さえ言っていれば評論家や文化人の仕事ができる」といった雰囲気とは180°異なり、大災害に崩れかかった私たちの自信と誇りを、十分に支えてくれるものとなりました。
(この稿、続く)

「何が何でも子どもたち全員が絶対に助かる避難場所を探せと裁判所は言った」~13年目の3・11に際して②

 いわゆる大川小学校津波訴訟は、
 罹災から9年目にようやく判決が確定した。曰く、
 「どんなに遠くてもいいから、確実に全員が助かる場所を探せ」
 無茶な話だが、必要なことだ。
という話。(写真:フォトAC)

【学校の責任】

 2019年10月、最高裁東日本大震災で犠牲になった石巻市立大川小学校の児童23名の遺族が起こした訴訟で、遺族側の訴えを認めた二審仙台高裁の判決を支持し、市と県の上告を退ける決定をしました。これでいわゆる大川小学校津波訴訟の判決が確定したのです。
 確定した二審判決には、次のような部分があります。
「同小の校長らには児童の安全確保のため、地域住民よりもはるかに高いレベルの防災知識や経験が求められると指摘。市のハザードマップで大川小は津波の浸水想定区域外だったが、校長らは学校の立地などを詳細に検討すれば津波被害を予見できたと判断した。
 その上で、校長らは学校の実情に沿って危機管理マニュアルを改訂する義務があったのに怠ったと指摘。市教委もマニュアルの不備を是正するなどの指導を怠ったとし、賠償額を一審判決から約1千万円増額した。2019.10.11日本経済新聞

 学校にとって、これはかなり由々しき事態です。
 考えてもみてください。校長は着任すると同時に地域の状況を把握し、防災マニュアルの妥当性を確認しなくてはならないのです。しかも市が専門家を使って作成したかもしれないハザードマップをアテにせず、地域の住民よりも一段高い危機意識と専門性をもって危機管理マニュアルを改訂しなくてはならないということ、いかに優秀な人であっても防災の専門家でない人間には荷の重い仕事です。
 しかも小学校の防災マニュアルで考慮しなくてはならない内容は、山ほどあります。

【校長は、行政を信じず、地域を無視した避難計画を立てられるか】

 昨日も申し上げましたが、義務教育の学校、特に小学校は地域に根付いていますから、地域住民を振り切って避難することはできません。小学生が移動すれば、当然高齢者も車椅子の人も一斉に動かざるを得ないからです。
 それに、大川小学校がまさにそうでしたが、そもそも学校が地域の避難場所として指定される場合も多いのです。その避難所に集まって来た住民を置き去りにして、別の場所へ移動するというのはかなり難しい話です。
 
 3月11日の大川小学校校庭では、それでも不安になって高台に移動しようとした教頭と(校長は当日年休を取って不在)、移動したくない地区の区長が、言い争いのようになっていたという目撃証言が残っています。区長としては余震が続く中、避難所である小学校に集まってきた高齢者中心の住民を、山の中に移動させる危険を冒したくなかったのです。どうせ津波は来ない(と信じていた)のですから。
 
 実際に、教頭が新たな避難先として念頭に置いた大川小学校の裏山は、仙台高裁も適地としませんでした。判決が適切と考えて示した避難場所は、「バットの森」と呼ばれる大川小学校の裏山を大きく回り込んで反対側から登る高台で、判決文にはこんなふうに書かれています。
『大川小学校正門から「バットの森」までは、低学年の児童の足でも約20分で到達することが可能であった』
 しかし片道20分、訓練だったら往復40分。それだけの時間をかけた避難訓練を年複数回も計画・実施するというのは、容易なことではありません。高さ10mの大津波がくると分かっていれば別ですが、実施はまず不可能でしょう。
 市のハザードマップで浸水想定地域に入っておらず、それどころか津波災害の避難場所に指定されている学校の校長が、地域の思惑を顧みず、独断で別の避難場所を設定し訓練を行う――やはり現実味がありません。

【それでも判決が出て良かったわけ】

 石巻市立大川小学校の悲劇が単なる悲劇に留まらず、泥沼の裁判となって遺族をさらに苦しめることになった背景には、当時の大川小学校長の無能があったと私は思っています。マニュアル改訂に思いが至らなかったから無能というのではありません。津波に関する事後の対応が、あまりにもいい加減でお粗末、残された人々の神経を逆なでするようなものだったからです。

 これが津波の翌日から、遺族に率先して泥沼を這いまわり、爪の間に血を滲ませて捜索するような校長だったら、事態はずっと気持ちの良いものになったはずです。ところが実際の校長は近くの避難所までは来たものの、朝、捜索の保護者を送り出すと何の手伝いもしようとせず、家族の要請に応えてようやく現場に入ったのが6日後の3月17日、市教委への報告はその前日の16日という遅さでした。16日に至って初めて事態を知った市教委は激怒。市の対応が遅れたことにはそうした事情もあったのです。

 校長の、その無能さが遺族を怒らせ、事態を抜き差しならないものにしたのは間違いありませんし、そのために8年もかかる大きな裁判となり、「片道20分の山を目指して避難せよ」といった無茶な判決も出ました。しかし私は無茶はあっても、「裁判所の判断」という形で学校と教委の責任が明らかになったのはいいことだと思っています。これによって全国の市町村教委が背筋を伸ばし、校長を叱咤してマニュアルの点検と改訂が進んだからです。

 結果論ですが大川小学校の防災マニュアルに「大津波が予想される場合は『バットの森』へ避難する」と一行加え、地区の役員とも連絡を取っておけば、それだけ事情は違っていたのです。書いてさえあれば実際に「バットの森」までの避難訓練は行わなくてもよかった。
 学校はムダな会議が多すぎると繰り返し言われますが、当然「防災マニュアル」の読み合わせはやっていて、だからいざというときは誰かが「バットの森」を思い出すはずです。そして選択肢が生れます。
 「マニュアル」に《書いてある》ということが重要で、マニュアルを盾に取れば、地区の役員もしぶしぶ了承せざるを得なかったのです。

 石巻市立大川小学校は廃校となり、その後、復活しませんでした。しかしこの災害と裁判をきっかけに、全国の小中学校の防災マニュアルが検討しなおされ、多くの学校が「バットの森」のような「絶対に安全な最終避難場所」の指定を行ったに違いありません。それだけが無能な校長の、結果論的な功績でした。
(この稿、続く)
 

「東日本大震災の基本的なことと、学校のやったこと」~13年目の3・11に際して①

 13年目ということは今の中学1年生までが生れる前のこと、
 2~3年生でも覚えているはずがない。
 だから私が現役教師なら、今朝は基本的なことをメモにして、
 精いっぱい語り掛け、そして自分が何をすべきかも考えるだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【震災に関わる基本的数字】

 13年目の3・11です。
 地震の起きた正確な日時は、2011年(平成23年)3月11日14時46分。震源地は宮城県牡鹿半島の東南東沖130 km。深さ24km。地震の規模を表すマグニチュードは9.0。
 最大震度は7が宮城県栗原市震度6強が宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で観測されました。
 
 その後押し寄せた津波は最大波高10m以上、最大遡上高40.1mと言われ、東北地方から関東地方までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。
 死者は12都道県で1万5900人余り。行方不明者は6県で2523人。負傷者は6200人余りだったといいます。
 地震だけならまだしも、津波がとんでもない数の人々をさらってしまい、さらに追い打ちをかけて福島第一原発事故が多くの人々から土地と家と人間関係を奪ってしまったのです。
 まさに未曾有の大災害でした。

【学校は粛々と学んだ通りのことをした】

 私は毎年3月11日の15時くらいになると心がざわめきます。
 2011年のその日、被災地では大きな地震がいちおう収まった午後2時50分ごろから、机の下に隠れたり屋外でしゃがみ込んでいた人たちがようやく動き始めます。
 
 石巻市立門脇小学校では女性校長の指示の下、子どもたちが裏山(海岸段丘)の上にある日和山公園に移動を始めます。校長の判断ではありません。避難手順がそうなっていたのです。
 非常事態とはいえ、避難自体は訓練で慣れていますから粛々と行われます。そこへ学校をアテにした地元住民が訪れてくるのですが、すかさず残った職員が公園に登るよう声をかけます。小雪交じりの寒風の中を、ウンザリしながら仕方なく歩き始めた人もいるかもしれません。しかし、だから助かりました。
 
 広い平野の海沿いに立つ仙台市立荒浜小学校では地震直後、すでに下校を終えていた1年生を呼び戻すため、職員が走ります。そうこうしている間に地域移住民が続々と学校を訪れ、校長は全員を3階以上に案内します。その直後、津波は小学校に押し寄せ、2階までを完全に水没させました。しかし子どもたちはもちろん、避難して来た地域住民も全員が3階以上にいましたから、命を拾うことができました。なぜそんなに手早く動けたか――言うまでもなく、学校と地域の避難手順がそうなっていて、訓練もしていたからです。
 
 宮城県気仙沼市にある気仙沼向洋高校(現在の伝承館)は少し様子が違っていました。海辺の平らな土地に立つ高校でしたが、教師の指示で少しでも高い場所を求めて、生徒と教員は内陸へと走ったのです。途中で地域の人々(その多くは地震の後片付けをしていた)にも声をかけますが、誰も動こうとはしません。これが門脇小学校や荒浜小学校との大きな違いで、小学校は地域にしっかりと根を張り、地域とともに動いているのに対して、高校は日ごろから地域との人間関係が薄く、一方が動けば他も引きずられるというふうにはなっていなかったのです。同じ場所で被災したのに、生徒と教職員は助かり、多くの地元民が亡くなるという不均衡はこうして起きました。

【あの大川小学校もその場で可能な最大限のことをした】

 門脇小学校と同じ石巻市内の、東側の山をいくつか越えた先にある大川小学校でも、児童教職員は地元民とともにありました。避難訓練の手順に従って校庭に集められた子どもたちは、そこで保護者の迎えを待つことになります。雪が舞い始めましたが、余震が怖くて校舎に戻れず、体育館も入れる状態になかったからです。

 マニュアル通りの避難という点では門脇小学校や荒浜小学校と同じでしたが、ひとつだけ大きな違いがありました。大川小学校の避難手順には「津波避難」という概念がなかったのです。直線距離で2~3kmほど先にある海は山に遮られて見ることができず、海抜が1mほどしかないということも意識しにくい場所でした。そして職員にも地元住民にも、津波に対する危機感がほとんどなかったのです。
 
 三陸は有史以来、何度も大津波に遭っていますが、はっきり記録に残る9回の大津波(869年、1611年、1616年、1676年、1696年、1835年、1856年、1896年、1933年)はいずれも大川地区に到達していません。大川小学校のすぐ北側を東進して太平洋にそそぐ北上川は、東日本大震災で巨大な津波を受け入れ、膨大な量の海水を小学校の上流まで運んでしまった大河ですが、1933年の大津波の翌年、ようやくその場所に移された付け替えの川で、それまでの北上川石巻市内を真っ直ぐ南下していたのです。
 つまり2011年の大津波は、北上川が大川地区を通るようになって初めてのもので、津波の記憶は地域の伝承としてもなかったのです。地域の人が知らないことは、教師たちも知りません。
 それがおそらくあの日、地震の瞬間、大川地区にいた児童・教職員を含むほとんどの人が避難せずに津波に飲まれてしまった原因だと思われます。
 ただし、裁判はそのような判断はしませんでした。
(この稿、続く)