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「なぜ『自由の女神』は胸をはだけているのか」~7月14日フランス革命記念日(拾遺①)

誰もが一度は見たことのあるドラクロワの名画、
『民衆を導く自由の女神』
だがそこにあるのは1789年の革命ではない。
一枚の絵から見えてくるフランスと美術の歴史の物語。(写真:ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』)

【あの絵は1789年のフランス革命を描いたものではない】

 SNSに自分のブログを紹介する際、少しでも見栄えが良く、また目立つようにと、アイキャッチ画像の選択にはいつも苦労してきました。
 AIにやらせることも考えたのですが、指示がしっかりできないせいか、自分の感覚に合ったものがなかなかできません。昨日の「左半分にドラクロワの絵画、右半分に国会議事堂」という図柄も、中央で左右真っ二つに分かれているのも気に入らなければ、手前に置かれた本の背表紙が横書きの「日本国憲法」というのも気に入りません。本が置かれたテーブルの位置関係も何か変です。

 昨日は修正するための十分な時間もなかったのでそのまま投稿しましたが、やはりドラクロワの絵については気になりました。というのも、あの有名な『民衆を導く自由の女神』は、実は1789年のフランス革命を描いたものではないからです。

【ドラクロワ作『民衆を率いる自由の女神』】

 あの絵は1789年の革命(大革命とも言います)から40年以上を経た1830年に起こった「七月革命」の様子を描いたものなのです。

 そこまでに至る歴史を簡単に見ると、
 1789年のバスチーユ襲撃事件に端を発する革命(大革命と言ったりします)は混迷を極め、1793~1794年の恐怖政治を生み出して、やがてナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、1804年からは第一帝政(ボナパルトによる皇帝制度)が始まります。ロシア遠征に失敗してナポレオンが去ると王制が復古しますが、その2代目の王が反動化して絶対王政に戻そうとすると、その時起こったのが「7月革命」です。七月革命では王制を廃さず、市民寄りの新しい国王を立てましたが、、やがてこれも反動化して二月革命の必要が生まれます。

 そうした事情も含めて、大革命から今日までのフランス史を箇条書きにすると、次のようになります。
 大革命(1789)→恐怖政治(1793~1794)→ナポレオンによる第一帝政(1804~1815)→王政復古(1815~1830)→七月革命・七月王制(1830~1848)→二月革命・第二共和政(1848~1852)→ナポレオン3世による第二帝政(1852~1870)→普仏戦争敗北からの第三共和政(1870~1940)→ドイツによる占領(1940~1945)→議院内閣制の第四共和政(1946~1958)→大統領制を採用した第五共和制(1958~現在)

 こうしてみると紆余曲折はあったものの、王も皇帝もいない共和制が定着するのは1789年の大革命からナポレオン3世が普仏戦争に敗れてイギリスに亡命する1870年まで、およそ80年もかかったわけで、絶対王政の国で民主主義を根付かせるのがいかに大変だったかが分かります。
 80年もかけて大革命の理念は実現した――そう考えると、『民衆を導く自由の女神』を一連のフランス革命の一部を描いたものと考えるのも不自然とは言えないのかもしれません。

 ちなみにドラクロワはこの絵を七月革命の起こった同じ1830年に描き、31年のサロンに出品しました。したがってこれは歴史画ではなく、同時代の情念を込めたロマン主義の傑作と言うことができます。

【ところで、どうして女神は胸をはだけているの?】

 私は中学生の初めは美術部員で、ちょっとした西洋絵画オタクでした。したがってそのころから『民衆を導く自由の女神』は知っていたのですが、いつも違和感があったのは、
「なんでこの女神はおっぱいを出しているのだ」
という問題です。
 久米の仙人ではありませんが、芸術作品にすらよこしまな感覚を持たずにはいられない年頃で、“女性の裸は何でもOK”の時期でしたが、それにしても民衆の大半が厚着なのに女性一人が半裸である構図はどう考えても不自然に思ったのです。裸でない方がずっといい。しかし実際に偉大な画家が描いたのだから何らかの意味があるのだろう、と考える程度で、調べたくても術のない時代でしたので、そのままにしておきました。
《多くの人に鑑賞してもらうためには、これくらいのサービスは必要だったのかな?》

 しかし大人になってからわかりました。女性が半裸で胸をはだけているのは、まさにそれが“女神”だからなのです。

【裸を見せていいのは神様だけ】

 ギリシャ・ローマ時代を除くと、ヨーロッパで女性の裸が描かれるようになったのはルネサンス以降です。それまではキリスト教会の権威が強く、女性に限らず人間の裸を描くことが憚られたのです。キリスト教は魂こそ美しいとする肉体蔑視の宗教ですから“肉体美”を描くことが許されなかったのです。

 それが15世紀の中ごろから、封建制度の衰退とともに教会の権威も低下し、芸術家に対する資金提供者が封建領主や教会から商工業者に移ると、人間とその肉体に対する関心は一気に高まり、古代ギリシャ・ローマを思わせるような彫刻・絵画が次々と生み出されるようになります。それがルネサンスで、「文芸革命」ではなく「文芸復興」と訳されるのもそのためです。

 ただし衰えたといっても教会には以後も一定の力があり、教会抜きには死後、天国に行くこともできませんから、多少の配慮はなされます。それが、
「神の裸はいいが、人間の裸はダメ。人間の裸体は醜い」
という了解です。ちょうど日本の絵画で美人と言えば「引目、鉤鼻、おちょぼ口」が“お約束”であったように、ルネサンス以降(印象派が出て来るまで)の西洋画・西洋彫刻で、全裸または半裸の人が出てきたら、それは全部“神様”という“お約束”があるのです。

 つまりドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の中心で三色旗を掲げるのは、「女神のように気高く勇気のある革命の女性戦士」ではなく、本物の神様だったのです。本物であることを示すために胸をはだけているのです。この女神の名前もはっきりしていてマリアンヌといい、その存在自身がフランスの象徴だといいます。ブリタニカと言えばイギリス、人間ではありませんがハクトウワシと言えばアメリカ、白熊と言えばロシア、と同じような感じなのかもしれません。

【マネの『オランピア』が人間を取り戻す】

 近代西欧絵画に人間の女性が裸で登場するようになったのは印象派以降のことです。その転換点となったのがマネ『オランピア』で、この絵は当時の美術界では大スキャンダルになります。
 というのは、中央で横たわる女性は誰が見ても“女神”ではない、どう見ても当時のパリの女性、おそらく娼婦。そして敢えて挑戦的にこちらを見ている――。
 『オランピア』が描かれたのは1863年。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』からわずか33年後だったことを考えると、ここにも隠れたフランス革命があったことがうかがえます。
 時代は確実に変わったのです。(マネ:『オランピア』)
(この項、続く)

「なぜ今の日本で、子どもたちがフランス革命を学ばなくてはならないのか」~7月14日フランス革命記念日③

昔の外国の、王様が倒れた出来事。
そう思われがちなフランス革命だが、
その歴史は日本国憲法や民主主義の根幹に、
深く根づいているのだ。

(写真:ChatGPT)

【なぜ今の日本で、子どもたちがフランス革命を学ばなくてはならないのか】

 それはひとえに現在の日本の政治制度が、フランス革命の理念を基礎の一つとして成立しているからです。正確に言えばアメリカ独立戦争とフランス革命、文書で言えば「アメリカ独立宣言」と「フランス人権宣言(正式には『人間と市民の権利の宣言』)」が、現代日本の基礎のさらに基礎となっています。

【フランス人権宣言が日本国憲法の基礎だから】

 例えば、日本国憲法の三大原理である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」のうち、特に最初の二つはフランス人権宣言が世界に先駆けて、はっきりと形にしたものです。フランス人権宣言が日本国憲法にどのような影響を与えているか、ここに並べてみましょう。

[国民主権]

フランス人権宣言(第三条)
およそ主権というものの根源は、本質的に国民のうちに存ずる。いかなる団体も、いかなる個人も、明瞭に国民から発していないような権利を行使することはできない。
日本国憲法(前文)
日本国民は、(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

[基本的人権の尊重]

フランス人権宣言(第1条):
人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生存する。
日本国憲法(第11条・第13条等)
(第11条)国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(第13条)すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(第14条)すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

【初めて憲法の存立条件を示したから】

 フランス人権宣言の第16条は次のような文言です。
権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会には、憲法は存在しない。 
 これは「基本的人権が保障されず、三権分立が確立されていない社会は憲法があってもないようなものである」という意味で、憲法、ひいては憲法が支える民主主義を維持する条件を示したものです。その考えは明治憲法でも部分的に採用され、今の日本国憲法では最も重要な理念となっています。

 三権分立について言えば特に裁判所は、国会や内閣と違ってニュースで扱われる機会が少なく、単に犯罪を裁く場所にしか見えないことがありますが、それだけに「憲法の番人」としての役割は、子どものころからきちんと学んでおく必要があります。

【民主主義を守ることが容易ではないことを学ぶため】

 フランス革命は王を倒し、人権宣言が発表されてメデタシメデタシとなったわけではありません。革命後すぐに混乱は始まり、恐怖政治が起こり、ナポレオンの台頭を許すことになります。

 今となれば王一族を殺す必要はあったのか、あんなに大勢の貴族・革命家・一般庶民が死ぬ必要があったのかということになりますが、フランスはその後も、七月革命だの二月革命だの、あるいはパリコミューンや何なら五月革命も含めて、大変な対価を民主主義のために支払ってきました。

 現行の日本国憲法は、1931年の満州事変〜1945年の敗戦までの一連の戦争(15年戦争)で310万人から376万人と言われる同胞の死の後にもたらされたものですが、それは民主主義のための戦いではなく、憲法自体はGHQによって上からポンと渡されたものです。しかしだからといって価値がないわけでも軽んじていいわけでもありません。

 民主主義的憲法のもとで民主主義的社会が自動的に生まれるわけではありません。1933年、当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下での選挙で、ナチスは議会第一党となりヒトラーが首相となります。同じ時期、イタリアでもムッソリーニが選挙で首相に選ばれています。
 現代ではジンバブエのロバート・ムガペもイランのアリ・ハメネイも、ともに民主主義的手続きによって生まれた独裁者です。もちろん第45代・47代アメリカ大統領ドナルド・トランプもその中に入ります。

 日本国憲法が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第12条)と言っているのはそのためです。

 以上が、今の日本でも、中高生がフランス革命を学ばなくてはならない代表的な理由です。
(この項、終了)

「歴史が選ぶ出来事、人が忘れる出来事」~7月14日フランス革命記念日②

三島由紀夫事件、地下鉄サリン事件、日航機墜落事故、
いずれも忘れがたい事件だが学校の教科書には載らない。
それなのに240年も前のフランスのできごとは載る。
日本人にとってフランス革命はそこまで重要か?
 (写真:ChatGPT)

【百科事典に載るような人材】

 もう30年も40年も前のことと思うのですが、将来どんな人間になりたい?と聞かれた東大生が「百科事典に載るような人間になりたい」と答えるのを聞いて、《さすが東大生は考えることが違うな》と感心したことがあります。

 医者になろうが科学者になろうが、百科事典に載るとなると、そのハードルは一気に高くなります。現在のWeb百科のようにその気になれば無限に項目が増やせる事典と違って、紙の百科事典には限度があります。有名な「ブリタニカ百科事典」は紙の最終版(第15版)で35巻。掲載された人物の項目はおよそ10,000人~12,000人と言われています。紀元前5~6世紀のソクラテスだのプラトンだの、あるいは中国の孔子やインドの釈迦から始まって、ナポレオンやアインシュタインまで含めた10,000~12,000ですから、載るのは容易ではありません。もしかしたら「総理大臣になりたい」「ノーベル賞を取りたい」以上の野心かもしれません。さすが東大生。

【小中学校の教科書に載るほどの大事件】

 70年も生きてきましたから、私もさまざまな社会的事象・事故・事件を経験してきました。高度経済成長、東京タワー建設、三島由紀夫事件、あさま山荘事件、ダッカ事件、オイルショック、バブル経済、東日本大震災、コロナ禍・・・。数え始めたらきりがありません。ただしそれらには歴史的重要度の違いがあります。
東京タワー建設は高度経済成長の一風景として取り込めるでしょうし、三島由紀夫事件やあさま山荘事件は高校生だった私にとっては魂を揺り動かされるような大事件でしたが、それで世界がどう変わったかというと、ほとんど影響がなかった、むしろ「何の痕跡も残さなかった」ことで歴史に残る事件です。では何が本当に重要で、何がさほどのものでないか――そう考えたとき、私の心の中に一本の基準線が引かれました。それは、
「その事象・事故・事件は50年後~100年後の小中学校の教科書に掲載されるだろうか」
というものです。10年に一度あるいはそれ以上に稀有なできごとで、しかも影響が大きく、かつ長く続くものでなくてはなりません。
 その基準に照らし合わせると、先ほど挙げた項目の中で残るのは高度経済成長、オイルショック、バブル経済、東日本大震災、コロナ禍といったことになります。

【私が生きてきた70年間の客観的重大ニューストップ10】

「私が生きてきたこの70年ほどの間のできごとで、将来、確実に小中学校の教科書に掲載されるか、現在すでに掲載されている歴史的項目といったら何が考えられるか。10項目挙げてほしい」
 AI(Microsoft Copilot)に聞くと次のような答えが返ってきました。

[ここ70年間ほどで“教科書掲載が確実”な10項目(厳選)]

  1.  高度経済成長(1950年代後半〜1973)
  2. 東京オリンピック(1964)
  3. 公害問題と環境行政の整備(1960〜1970年代)
  4. オイルショック(1973)
  5. バブル経済とその崩壊(1986〜1991)
  6. 阪神・淡路大震災(1995)
  7. 情報化社会の進展(インターネット普及:1990年代後半〜)
  8. 東日本大震災(2011)
  9. コロナ禍(2020〜)
  10. ウクライナ戦争(2022〜)

[補足:候補に入れられるが「確実」とまでは言えないもの]

  • 冷戦終結(1989〜1991)
  • 湾岸戦争(1991)
  • イラク戦争(2003)
  • 少子高齢化(2000年代〜)
  • AI・デジタル化(2020年代)

 15個答えてくれたのはありがたい話で、高度経済成長とオイルショックはセットにできるし、東日本大震災を扱えば阪神大震災を扱う意味は薄れる、といったふうに整理すると、15個を10個程度に整理するのが最も妥当なように思えます。
 しかしここには、東京タワーもスカイツリーも、三島由紀夫事件もあさま山荘事件もダッカ事件も何もありません。ケネディ暗殺も月面着陸も、酒鬼薔薇事件もオウム真理教事件も、あるいは日航機ジャンボ墜落事故も長野オリンピックも大阪万博も、全部入っていないのです。

 教科書に載るかどうかの規準は「社会構造の転換点となったか」とか「国際秩序の変化にかかわりがあったか」とか、あるいは「生活や社会のあり方を大きく変えたか」とか「長期的な影響が確定しているか」とかいった要素が入ってこないとだめなのです。

【フランス革命は、日本人にとって地下鉄サリン事件より重い?】

 今日7月14日はフランス革命記念日で、昨日に引き続いて歴史の話をするつもりがずいぶんと寄り道をしてしまいました。しかしそういうことなのです。
 200年以上も昔――日本では田沼政治が終わって寛政の改革が始まり、天明の大飢饉と呼ばれる自然災害に見舞われる一方で、国学や蘭学といった知的革命が起ころうとしているそのころ、はるか遠いヨーロッパで起こった絶対王政の終焉、国王一家の殺害、ナポレオンの登場――そんな日本人にとっては縁もゆかりもなさそうなできごとが、日本の中学校の教科書に載り、何年もの間、学習され続けているのです。
 つまり少なくとも文科省は、
「フランス革命は現代を生きる私たちにとって、地下鉄サリン事件や秋葉原事件よりも重い」
と考えているわけです。
 それはなぜなのでしょう?
(この稿、続く)

「この日バスチーユにいた囚人はたった7人」~7月14日フランス革命記念日①

7月14日はフランス革命記念日。
革命の舞台裏には、今こそ学ぶべき、
教科書では語られない逸話や、
魅力的な人物があふれている。(写真:ChatGPT)

【フランス革命記念日】

 明日、7月14日はフランス革命記念日です(1789年)。最近は聞かなくなりましたが、日本では「パリ祭」と呼ぶことがあります。これは1933年公開のルネ・クレール監督映画「7月14日」を日本で上映する際、この題名では日本人の誰も分からないということで「巴里祭」という粋な名前にしたのが始まりだそうです。世界中でこの名を使うのは日本だけです。命名者たちによるとこの題名は「パリまつり」という気持ちでつけたらしいのですが、一般には「パリさい」で広がってしまいました。

【1800年前後のフランス:最も面白い時代】

「フランス革命(1789)で王政が崩れ、共和政と恐怖政治を経て混乱が続き、最後はナポレオンが台頭して帝政を築くが、欧州諸国との戦争に敗れて1815年に没落する」
――この1800年を中心とする前後15年ずつ、およそ一世代にわたるフランス革命史は、どこを切りとっても面白く、調べても飽きることのない時代です。

 1789年7月14日の革命初日を時系列で概観するだけでも面白いのですが、細部まで入り込んで調べると、あれこれ知らなかった事実も出てきます。あれこれさまざまに考察・推察され、いろいろといじられていますから誤解も多く、そこがまた興味深いところです。

 例えば革命の端緒となった「バスチーユ監獄の襲撃」。私たちは何となく群衆が手に手に武器を持って襲い掛かり、収監されていた多くの政治犯を外に出した、といった印象を持っていますが、実際に当日、そこに収監されていたのはたったのは7名。5人の詐欺師と、おそらく精神病のために家族の要請で入れられていた2名。それだけです。

 この日、1000人近い群衆がバスチーユを求めたのは人ではなくて武器で、扇動者に「軍隊が来るぞ、身を守る武器を取れ」と煽られたために武器庫のあるバスチーユへ向かったわけです。そこで不幸な行き違いが生じ、偶発的な衝突が起こって一気に歴史が動き始めます。その本質的な部分にも周辺にも、見ていくとかなり興味深い逸話がいくつもあります。
 たとえば襲撃の10日前にバスチーユから別の病院へ移送され、せっかくの歴史的事件を見逃した有名小説家がいました。侯爵でありながら殺人未遂・性的倒錯の罪のために収監されていた『美徳の不幸』『悪徳の栄え』の作者、さらに「サディズム」にその名を遺すマルキ・ド・サド(サド侯爵)本人です。そこだけ抜き出してもドラマ一本ができそうなほど面白い話です。

 日本では1970年代はじめに劇画「ベルサイユのばら」が大ヒットしたために私より若い世代にはフランス革命史にメチャクチャ詳しい人が大勢います。王妃マリー・アントワネット不倫純愛物語、その王妃自身の急激な母親としての自覚と成長、そして死。架空の英雄オスカルとアンドレの物語、恐怖政治の推進者たち、そのうちのひとりジャン=ポール・マラーを暗殺した「暗殺の天使」シャルロット・コルデー、混乱するフランスを手中に収めようと、虎視眈々と世界を狙う若きナポレオン・ボナパルト。どれをとっても本格的に勉強する価値のある題材です。
 私は中でも二人の特異な人物に強く強く興味を惹かれます。

【死刑執行人シャルル=アンリ・サンソン】

 ひとりはパリの死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンです。この人については以前一度触れましたが、ルイ16世やマリー・アントワネット、ダントン、ラヴォアジエ、ロベスピエール、サン=ジュスト、シャルロット・コルデーといった錚々たる面々の死刑に悉く立ち合った人です。サンソンは元恋人のデュ・バリー夫人の死刑にも立ち会っていますが、その様子は他の人々とはずいぶん違ったようです。

 ほとんど受刑者たちが名誉を重んじて怯えることなく、毅然として断頭台に登ったのに対し、デュ・バリー婦人は元娼婦と噂されるほど下賤の出でしたから誇りのカケラもありません。老年の夫人は泣き、叫び、大声で命ごいをしたため、処刑人と民衆は大いにうろたえたと言います。そして初めて、今日まで毎日、自分たちがどれほど恐ろしいことをしてきたのか気づいたのです。
「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」
とサンソンは日誌に書き記したと言います。

 「暗殺の天使」シャルロット・コルデーの死刑執行についても次のような逸話が残ってます。
 処刑当日、サンソンが罪人の手を後ろ手に縛ろうとすると、シャルロットは、「マラーを殺した後も縛られましたが、とても乱暴な縛り方で手に傷がつきました。そうならないよう、手袋をしてもよろしいでしょうか」と訊ねます。サンソンが、「大丈夫、私はまったく痛くないように縛ることが出来ますから」と答えるとシャルロットは、微笑んで手を後ろに回したと言います。

 もうひとつ。回想録の中でサンソンは次のように記します。
「彼女を見つめれば見つめるほどいっそう強く惹きつけられた。もちろん実際に彼女は美しかったが、私が惹かれたのはその美しさのせいではなく、最後の最後までなぜあのように愛らしく毅然としていられるのか、信じられなかったからである」

 サンソンは世襲される死刑執行人家の4代目です。人々から忌避され蔑まれる職業にありながら、待遇は貴族並という捻じれた一生を送った人ですが、己に厳格で、教養にも愛情にも恵まれた人格者だったようです。私はこういう複雑な人物が好きです(もちろん勉強の対象として)。

【マクシミリアン・ロベスピエール】

 もうひとりは恐怖政治の立役者ロベスピエールです。私はこの人についてほとんど知りませんがその前半生においては大変な理想主義者、民主主義者、法治主義者で、人格的には清廉潔白、慈悲深く、貧しい人や無実の人たちのために尽くす弁護士・政治家という印象を持っています。そのロベスピエールが恐怖政治の中心人物へと追い込まれていく過程は、やはり真剣に学ぶべき主題だと感じていました。いつかこれもきちんとまとめて勉強しよう、そう思っていたのです。
 ただしおそらく、その勉強はもうやらないと思います。歳をとると根を詰めた学習などできなくなるのです。《勉強しても役立てる時間がない》という思いがいつも底流にありますから。

 しかし、だったら「1800年前後のフランスには、気合を入れて勉強するに足る、こんなに面白い主題が山ほどあるよ」と子どもたちに教えておけばよかったと――その点は後悔しています。
(この稿、続く)

「あれは『食べない子』だったのだろうか」~改めて給食指導の話③

孫のDCDについて考えているうちに、
昔、給食を食べない女の子がいたことを思い出した。
当時は躾けのできていない子だと思っていたが、
もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。(写真:ChatGPT)

【DCD:ハーヴを見ながら思い出したこと】

 私の三人いる孫の中で最初の子、つまり初孫のハーヴ(もちろん仮名)にはDCD(発達性協調運動障害)という障害があります。発達障害という概念を構成するいくつかの障害の一つで、二つ以上の運動を同時にバランスよく行うことが困難な障害です。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、要するに「縄を両手で回し」ながら「規則正しくジャンプしなくてはならない」縄跳びなどは、いくら練習してもできる気配すらないのです。靴紐を結ぶとか、ペットボトルのキャップを外すといった簡単なことも下手くそです。
 こうしたハーヴの特性についてはこれまでも何度か書いてきた*1のでそちらを参考にしていただくとして、今日は食事との関連だけをお話しします。

 不器用なので小学校の高学年にもなって、食事をボロボロとこぼします。テーブルの上のコップや汁椀、醤油さしなどもよく倒します。両親が発達障害について専門に勉強をしてきた人なので、本人が泣きそうになっても、
「大丈夫だよ」
と言ってサッと片付けて、それ以上は長引かないよう雰囲気を整えます。叱ったところで簡単にできるようになるわけではありませんし、本人がいちばん切ながっているからです。
「できないことは叱ってはならない。やらないことは叱らなくてはならない」
は、教育の鉄則です。

 食事に関するハーヴの問題はそれだけではありません。何といっても時間のかかりすぎるのが気がかりです。家族の食卓でハーヴひとりがいつまでも食べている光景はすでに日常です。しかしその件も両親は責めませんので、いつまでもそのままです。学校の給食はどうしているのでしょう?
 ――と、ここに至って自分の迂闊さに驚くのですが、ハーヴは学校給食で苦労しているかもしれないということに、つい最近までまったく考えもしなかったのです。そして思いつくや否や、まったくハーヴとは無関係な別の光景が浮かんできたのです。
 それは四半世紀も前、私が教員歴17年目にして初めて担任した小学校1年生のクラスにいた、ひとりの女の子です。すでに掃除の始まった教室で、その子はほとんど空になった食器を見つめながら、いつまでも座っていたのです。

【エッケ・ホモ:この人(子)を見よ!】

 「給食を強制するな」という人と、「食べられるようにするのが自分の仕事だ」という私とでは、もしかしたら前提となる給食風景が違っているのかもしれません。前者の頭にあるのは、嫌いなおかずが教師によって山盛りにされる場面、あるいは吐きそうなほどにおなかいっぱいなのに、なおも追加される食べ物、そういうものかもしれません。しかし私の頭に浮かんでくるのは、先ほどの給食が食べ終わらない女の子です。

 入学時に保護者から聞かされていたのは、「とにかく野菜が食べられない」「歯が悪くて硬いものが食べられない」という2点でした。しかしその内容が尋常ではなかった――。
 野菜は煮ても焼いても細かく刻んでも食べられない。みそ汁は具の小松菜も食べられません。「固いもの」の範囲も広く、肉と魚全部が含まれます。豆腐は食べられる。卵も、目玉焼きや卵焼きなら食べられる。幸い、米飯は食べられます。
 お米と具のない味噌汁、牛乳が飲めますから、腹はいちおう満たされます。しかしさすがに十分ではないらしく、午後3時ごろ、家に帰るや否や元気よく、「ただいま! おなかすいた!」と言って親が用意してくれたシュークリームやショートケーキやらを食べます。もちろん完食できます。そんな生活ですから、当然、歯も悪くなります。

【追い詰められたのは担任】

 同じクラスにもうひとり、離乳食がお粥と牛乳だけで一歳半にして栄養失調になったという男の子がいました。「米は万能栄養、不足するカルシウムは牛乳で」と教えられた親が実直にそれだけを与え続けた結果の栄養失調ですが、小学生になっても好き嫌いの多い、小食の子でした。ただしそんな子でも、クラスに「さあ、みんなで少しずつ頑張って食べよう!」という機運があって、本人の給食も7割程度に減らしてやると完食できます。もともと子どもの嫌いなものは学校給食にほとんど出てきませんから、頑張れば食べられるのです。少量でも食べられたらそのつど褒めてやれます。褒めてやれば子は再び頑張ることができます。
 アメとムチ、スモールステップは行動主義心理学の基本中の基本です。

 量を減らし、わずかでも食べられたら誉める。ただし食べられたからといってその場で追加したりすぐに量を増やしたりしない。まったく食べないことは許さない。
 このやり方だとほとんどの子どもたちは苦痛を感じることなく、むしろ誇りをもって好き嫌いを克服できる――そう私は信じ、実践してきました*2

 ところがそのやり方がまったく通用しない場合もあったのです。私がいま話題にしている子は、量を減らしに減らしたあげく、結局、各料理5mm角にまで小さくしても食べられないのです。箸でつまむのも難しいほどの大きさなのに、口に入れると「オエッ」といって吐き出してしまうのです。最小のスモールステップも踏めません。
 ここに至って追い詰められたのは私でした。
「よく頑張ったね、あとは片付けていいよ」
と褒めて切り上げる契機が奪われてしまったからです。どう言って状況を終わらせればいいのか分からない――。
 結局、「掃除が始まってしまったから仕方がない」を契機にするしかなくなり、後片付けをしているうちに掃除の15分が終わってしまうので、その子はとうとう1年間、掃除をすることなく終わってしまいました。

【それでも親に任される時代が来る】

 あれはもしかしたら味覚過敏だったのかもしれない――今ごろになって思うのはそのことです。当時は感覚過敏という概念すら知りませんでしたから疑うこともなかったのですが、今なら、可能性としては一考しておかなくてはなりません。
 「味覚過敏」はGoogleの説明だとこうなります。
「味覚過敏とは、食べ物の味や匂い、食感に対して通常よりも過剰に反応してしまう感覚障害の一種です。少量の刺激を痛みとして感じたり、特定の食感・風味を受け付けず極端な偏食につながることがあり、発達障害や心因性ストレス、亜鉛不足などが原因として挙げられます」
 つまり孫1号のハーヴのような特性を持つ子がしばしば併せ持つ障害の一つなのです。

 話はここまでです。これ以上に思うところはありません。ただしGoogleの説明の先には、こんな表現もありました。   
「薄味のものでも非常に濃く、あるいは辛味や苦味を過剰に強く(または痛みとして)感じることがある」

 もし、あの5mm角の野菜ですら“痛み”だったとしたら、ほんとうに可哀そうなことをしました。当時は親の躾け不足としか思わなかったのでしっかり聞くこともしませんでしたが、成育歴や日常についても聞き取りをして、個別の指導法を厳密に検討すべきだったのです。
 もっとも、当時の私は初めての1年生の担任と教務主任を同時にやっていたうえ、家に帰れば二人の小学生の父親でしたから、そんな余裕はまったくありませんでした。現代の教師はさらに輪をかけて多忙ですから、とてもではありませんが「肌理の細かな指導」というわけにはいかないでしょう。食も、躾けの問題として、家庭に任されるようになっていくだけです。いろいろな家庭があるというのに――。
(この稿、終了)

「食べさせたい理由」~改めて給食指導の話②

「何をどれくらい食べるか子どもの自由だ」
そんな声を耳にすることが増えた。
しかし学校給食は昼食を提供する時間ではない。
それは算数や国語と同じく、指導の時間なのだ。(写真:ChatGPT)

【差別される給食指導(続き)】

 学校が行うべき教育の柱は三つ、「知育・徳育・体育」だとお話ししました。教師はこの三つを等しく教育するよう、義務づけられています。知育の下部概念である算数教育や国語教育と同じように、体育の下部概念である保健教育、給食教育も重要視し、指導しなくてはなりません。
 しかし算数・国語と給食が同じなんて、誰も考えませんよね。同じ教科教育の枠内でも算数・国語は図工や家庭科より重んじられているのですから、ましてや給食指導なんて、さらに下位に置いて考える人が大半です。
 だから、
「何をどれくらい食べるかは個人の自由だ。食を強制する給食指導は間違っている」
と言えるのです。これを算数に置き換えて、
「何をどの程度学ぶかは個人の自由だ。かけ算や方程式を強制する算数・数学教育は間違っている」
と言われたら誰も受け入れないでしょう。そもそもそんなことをいう人はいません。

 給食指導がどれほど軽んじられているかは、さらに音楽や図工と比較しても分かります。
「何を歌うか、演奏するかは個人の自由だ。歌う曲や楽器を強制する音楽教育は間違っている」
とは、誰も言わないでしょう?

【私は食べさせたい】

 私は自分のクラスの子が「何でもおいしく食べられるような子」になって欲しいと願っていました。経験上、食べられないものが山ほどある人生は不幸だと知っていたからです。しかし理由は他にもたくさんあります。

好き嫌いの大部分は食わず嫌いと慣れの問題である。

 昨日は結婚する前の私が、いかに好き嫌いが多く、食べられるものが少なかったかお話ししました。宴会でも7割以上は残すと――。しかし不思議と学校給食で苦労した記憶はないのです。なぜなら、食べられていたからです。

 学校給食には一般の子どもが苦手とするもの、モツ煮や酢の物は出てきませんし、刺身のような生ものも扱いにくいので出てきません。魚は切り身の焼き魚か煮魚で、稀にシシャモが出るくらいで、私が苦手な“まるまる生きていたときと同じ姿”で出てくるものは稀だったのです。
 つまり、私は厳密な意味では「食べられない」ではなく、選択的に「食べない」子だったわけです。

 学校教育では――いや保育・教育の世界では「できないことは叱ってはならない。やらないことは叱らなくてはならない」という原則があります。
 アレルギーや食事制限のために「食べられない子」を叱ったり強制したりしてはいけませんが、「(選択的に)食べない子」は叱るなり何らかの工夫をするなりして、もっと食べさせなければ、それは教師が果たすべきことを果たしていないということになります。

 私が今もモツ煮やカブト煮が食べられなかったり、婿がナス、孫1号はセロリ、2号はトマトが食べられないなど、その程度の苦手は個性として認めてもいい範囲でしょう。しかし野菜がダメ、肉のように固いものはダメ、学校で食べられるものは半分もないというような子は、大人になって本当に大変です。子どものうちになんとか治してあげたいものです。

あらゆる法令が給食指導を学校の義務としている。

 日本国憲法第二十五条は社会権(生存権)を定めた有名な文言「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」が書かれている部分ですが、その第二項には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあり、その「国」の手先となって実際に社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努める組織の一つが学校です。

 また教育基本法第一章第一条、つまり基本法の一丁目一番地にはこうあります。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
心身ともに健康な国民の育成は、教育の本質的な目標です。

 さらに学校給食法*1は、第一章第二条第二項に、
「日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと」
とあるのをはじめとして、全編にわたって「好き嫌いなく何でも食べられる子」の育成は学校の責務だと言っているのです。学校は給食指導をさぼってはいけません。算数・国語の指導をしっかりやるように、給食指導もしっかりやらなくてはならないのです。

摂らなくてもいい栄養素・熱量(カロリー)があるという考え方が受け入れられない。

 私が「何をどのくらい食べるかは個人の自由だ」と主張する人たちに持つ一番大きな疑問は、「プロの栄養士が栄養価や熱量を計算して、『一年生は(小学校三年生は、五年生は・・・)一食にこの程度は必要だ』と示して作られた給食を、年端も行かない子どもたちが自由に変更していいものか」という問題です。もちろん親が給食の献立表を確認して「ウチの子は今日、これと、これと、これを食べてこないだろうから、夕飯はその分も補う献立にしましょう」などとやってくれるならいいのですが、そのようなことはまずありません。栄養学にそこまで詳しく調理に手間暇をかけられる親なら、就学前に「何でも食べられる子」に育ててしまっています。

 私はこの「栄養士が考えたものであっても無視していい」という考え方にはどうしても馴染めないのです。

 その他、「お百姓さんを始め、給食調理の方々まで、給食に関わる方々が精魂込めて作ってくれたものを、片っ端から捨てるのは忍びない」とか「世界の飢餓地域の子どもたちの惨状を思うと、どうしても目の前の“食べない子どもたち”が我慢ならない」とか、「そもそも動植物が命を捧げたのは人間に対してであって、ゴミ箱に対してではないだろう」とか、あるいは「他人が用意してくれたものを残すのは失礼だろう」とか、言いたいことはさまざまにありますが、今日はここまでとしましょう。

【学級全員での完食はできるはずだ】

 「人にはそれぞれ胃の容量というものがある。それを無視して全員に同じ量を食べさせるのは間違っている」
 その言い分は理解できます。私自身も、私の娘のシーナも、幼少期はとても小食で人並みの量を食べることができませんでした。一クラスに35人もいれば、極端に小食の子は4~5人います。それにも関わらず完全に平等に配膳して「さあ全部食べろ」といっても無理に決まっています。
 しかし一方、35人もいれば極端な大食漢も4~5人はいるのです。食べられる量に応じて配分すれば学級全体での完食などまるっきり簡単です。そして全員が、「ほんの少しだけでもがんばって食べよう」としてくれれば、給食室に戻す食缶の中には一粒の残菜も残りません。ほんの少しというのは、1~2%の努力です。
 どのようにやるのか――これについては再三ここで書いていますので、そちらを参考にしてください*2
 (この稿、続く)