誰もが一度は見たことのあるドラクロワの名画、
『民衆を導く自由の女神』
だがそこにあるのは1789年の革命ではない。
一枚の絵から見えてくるフランスと美術の歴史の物語。
(写真:ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』)
- 【あの絵は1789年のフランス革命を描いたものではない】
- 【ドラクロワ作『民衆を率いる自由の女神』】
- 【ところで、どうして女神は胸をはだけているの?】
- 【裸を見せていいのは神様だけ】
- 【マネの『オランピア』が人間を取り戻す】
【あの絵は1789年のフランス革命を描いたものではない】
SNSに自分のブログを紹介する際、少しでも見栄えが良く、また目立つようにと、アイキャッチ画像の選択にはいつも苦労してきました。
AIにやらせることも考えたのですが、指示がしっかりできないせいか、自分の感覚に合ったものがなかなかできません。昨日の「左半分にドラクロワの絵画、右半分に国会議事堂」という図柄も、中央で左右真っ二つに分かれているのも気に入らなければ、手前に置かれた本の背表紙が横書きの「日本国憲法」というのも気に入りません。本が置かれたテーブルの位置関係も何か変です。
昨日は修正するための十分な時間もなかったのでそのまま投稿しましたが、やはりドラクロワの絵については気になりました。というのも、あの有名な『民衆を導く自由の女神』は、実は1789年のフランス革命を描いたものではないからです。
【ドラクロワ作『民衆を率いる自由の女神』】
あの絵は1789年の革命(大革命とも言います)から40年以上を経た1830年に起こった「七月革命」の様子を描いたものなのです。
そこまでに至る歴史を簡単に見ると、
1789年のバスチーユ襲撃事件に端を発する革命(大革命と言ったりします)は混迷を極め、1793~1794年の恐怖政治を生み出して、やがてナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、1804年からは第一帝政(ボナパルトによる皇帝制度)が始まります。ロシア遠征に失敗してナポレオンが去ると王制が復古しますが、その2代目の王が反動化して絶対王政に戻そうとすると、その時起こったのが「7月革命」です。七月革命では王制を廃さず、市民寄りの新しい国王を立てましたが、、やがてこれも反動化して二月革命の必要が生まれます。
そうした事情も含めて、大革命から今日までのフランス史を箇条書きにすると、次のようになります。
大革命(1789)→恐怖政治(1793~1794)→ナポレオンによる第一帝政(1804~1815)→王政復古(1815~1830)→七月革命・七月王制(1830~1848)→二月革命・第二共和政(1848~1852)→ナポレオン3世による第二帝政(1852~1870)→普仏戦争敗北からの第三共和政(1870~1940)→ドイツによる占領(1940~1945)→議院内閣制の第四共和政(1946~1958)→大統領制を採用した第五共和制(1958~現在)
こうしてみると紆余曲折はあったものの、王も皇帝もいない共和制が定着するのは1789年の大革命からナポレオン3世が普仏戦争に敗れてイギリスに亡命する1870年まで、およそ80年もかかったわけで、絶対王政の国で民主主義を根付かせるのがいかに大変だったかが分かります。
80年もかけて大革命の理念は実現した――そう考えると、『民衆を導く自由の女神』を一連のフランス革命の一部を描いたものと考えるのも不自然とは言えないのかもしれません。
ちなみにドラクロワはこの絵を七月革命の起こった同じ1830年に描き、31年のサロンに出品しました。したがってこれは歴史画ではなく、同時代の情念を込めたロマン主義の傑作と言うことができます。
【ところで、どうして女神は胸をはだけているの?】
私は中学生の初めは美術部員で、ちょっとした西洋絵画オタクでした。したがってそのころから『民衆を導く自由の女神』は知っていたのですが、いつも違和感があったのは、
「なんでこの女神はおっぱいを出しているのだ」
という問題です。
久米の仙人ではありませんが、芸術作品にすらよこしまな感覚を持たずにはいられない年頃で、“女性の裸は何でもOK”の時期でしたが、それにしても民衆の大半が厚着なのに女性一人が半裸である構図はどう考えても不自然に思ったのです。裸でない方がずっといい。しかし実際に偉大な画家が描いたのだから何らかの意味があるのだろう、と考える程度で、調べたくても術のない時代でしたので、そのままにしておきました。
《多くの人に鑑賞してもらうためには、これくらいのサービスは必要だったのかな?》
しかし大人になってからわかりました。女性が半裸で胸をはだけているのは、まさにそれが“女神”だからなのです。
【裸を見せていいのは神様だけ】
ギリシャ・ローマ時代を除くと、ヨーロッパで女性の裸が描かれるようになったのはルネサンス以降です。それまではキリスト教会の権威が強く、女性に限らず人間の裸を描くことが憚られたのです。キリスト教は魂こそ美しいとする肉体蔑視の宗教ですから“肉体美”を描くことが許されなかったのです。
それが15世紀の中ごろから、封建制度の衰退とともに教会の権威も低下し、芸術家に対する資金提供者が封建領主や教会から商工業者に移ると、人間とその肉体に対する関心は一気に高まり、古代ギリシャ・ローマを思わせるような彫刻・絵画が次々と生み出されるようになります。それがルネサンスで、「文芸革命」ではなく「文芸復興」と訳されるのもそのためです。
ただし衰えたといっても教会には以後も一定の力があり、教会抜きには死後、天国に行くこともできませんから、多少の配慮はなされます。それが、
「神の裸はいいが、人間の裸はダメ。人間の裸体は醜い」
という了解です。ちょうど日本の絵画で美人と言えば「引目、鉤鼻、おちょぼ口」が“お約束”であったように、ルネサンス以降(印象派が出て来るまで)の西洋画・西洋彫刻で、全裸または半裸の人が出てきたら、それは全部“神様”という“お約束”があるのです。
つまりドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の中心で三色旗を掲げるのは、「女神のように気高く勇気のある革命の女性戦士」ではなく、本物の神様だったのです。本物であることを示すために胸をはだけているのです。この女神の名前もはっきりしていてマリアンヌといい、その存在自身がフランスの象徴だといいます。ブリタニカと言えばイギリス、人間ではありませんがハクトウワシと言えばアメリカ、白熊と言えばロシア、と同じような感じなのかもしれません。
【マネの『オランピア』が人間を取り戻す】
近代西欧絵画に人間の女性が裸で登場するようになったのは印象派以降のことです。その転換点となったのがマネ『オランピア』で、この絵は当時の美術界では大スキャンダルになります。
というのは、中央で横たわる女性は誰が見ても“女神”ではない、どう見ても当時のパリの女性、おそらく娼婦。そして敢えて挑戦的にこちらを見ている――。
『オランピア』が描かれたのは1863年。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』からわずか33年後だったことを考えると、ここにも隠れたフランス革命があったことがうかがえます。
時代は確実に変わったのです。
(マネ:『オランピア』)
(この項、続く)






