「率先避難:訓練通りにできる教職員と児童のすごさ」~災害と学校①

  東日本大震災から10年。
 未曽有の災害をそのままにせず、
 そこから学び、後世に伝えていかなくてはならない。
 それが私たちの務めだ。
 まずは石巻市立門脇小学校から――

という話。

f:id:kite-cafe:20210310072638j:plain(保存工事中の旧石巻市立門脇小学校《2019年9月》)

【震災10年】

  いよいよ明日で東日本大震災10周年となります。コロナ禍のために追悼行事もあちこちで縮小された形で行われると思いますが、日本国民全員が、こころの中できちんと記憶を振り返り、哀悼の意を表するとともに教訓を後世に伝える誓いを立てたいものです。
 学校でも、自分の受け持つ児童生徒にひとことでも扱っておくことは教員の責務でしょう。

 テレビ番組でも震災・原発事故関係の番組が毎日放送されていますが、つい先日(3月6日)のNHKスペシャル「津波避難 何が生死を分けたのか」に懐かしい人が出ていたのでそのことについて少し書きたいと思います。

 懐かしいと言っても実は一面識もなく、テレビや書籍・Webの中で良く知った人で、向こうは私のことを全く知らない――すでに廃校になった旧石巻市立門脇(かどのわき)小学校の震災当時の校長、鈴木洋子先生です。

【門脇小学校】

 鈴木先生は適切な判断によって全校児童の命を救った校長として震災後のかなり早い段階からメディアに取り上げられることが多かった人です。
 Wikipediaにも、
東日本大震災における適切な避難が評価された」
とあると同時に、
「適切な避難が出来ずに過半数の生徒が死亡した石巻市立大川小学校とは対照的な結果となった」
ともあり、マスコミの意地の悪い対比のために浮かび上がってきたという側面もあるのかもしれません。震災のあった3月末に定年退職されたために取材しやすいという面もあったのでしょうが、多少、誇張された部分もあります。

 例えば2016年のYahooニュース「2011年3月11日、学期最後の朝会で校長が子どもたちに贈った言葉は現実になった」では避難の様子についてこんなふうに書かれています。

『昼ごろまでは晴れて日差しがあったのに、昼すぎになって、どんよりとした雲に覆われていた。冷たい雨が降り始め、やがてそれが雪に変わった。
 少しだけ上がりかけていた気温が、この1時間ほどの間に、急激に下がり始めていた。
 着の身着のままで校庭に避難した子どもたちにとっては、あまりにも寒い日だった。
「体育館へでも移動しようか…」
 そう教員同士で相談していたとき、大津波警報が出た。
 鈴木校長は、やはりこれは、ただ事ではないと感じた。そこで、そのまま第2次避難という形にして、校舎の裏側の高台になっている日和山に避難することにした』


 いかにも決断力に優れた素晴らしい校長の判断のような書き方ですが、実際は少し違っています。当時の門脇小学校は地震の一次避難所には指定されていましたが、津波に対しては避難所になっていなかったのです。裏を返せば津波には対応できない学校ということで、津波警報が出たら日和(ひより)山へ避難するのは既定のことだったのです。そのため毎年の避難訓練には必ず日和山への二次避難が組み込まれていました。2011年3月11日の避難は訓練したことを型どおりに行ったもので、特別な判断の必要なものではなかったのです。

【訓練通りにできる教職員と児童を育てる】

 しかしだからといって、鈴木洋子先生の名を貶めることにはならないでしょう。

 よく避難訓練では校長先生や消防署の職員が、
「素晴らしい訓練でした。もし万が一のことがあった場合も、今日の訓練と同じようにできるといいですね」
などと言ったりしますが、火災で火の粉が降り注ぐとか、震災で余震が繰り返し起こるとか、あるいは警報やサイレンが絶え間なく鳴るといった状況で、「練習通りの避難ができる」と考える方が無理です。
 私などは最悪70%の避難ができればいいと思っていましたし、70%でも全員が無事逃げおうせるためには訓練で常に100点を出し続けることが大切だと、そんなふうに考えていました。しかし門脇小学校では鈴木校長のもとで、教職員も児童もほぼ完璧な避難をしたように思います。

 児童は最後まで無言で教員たちの指示に従いましたし、教頭は重要書類(卒業生名や沿革史など)の入った金庫の鍵を忘れずに持ち出し、担任教師は保護者に児童を引き渡すための名簿をきちんと携え、別の職員は大量のブルーシートを日和山に持ち上げました。そのブルーシートは雪と寒さから子どもを守ると同時に、津波の押し寄せた街の残酷な風景から子どもの目を守ることに役立ちました。

【率先避難】

 今月6日のNHKスペシャル「津波避難 何が生死を分けたのか」には、あれほどの大地震だったにもかかわらず、津波のことを本気で考えない住民の姿が多く出てきます。過去に起こった宮城県沖地震の経験から津波の届く範囲は大雑把に想定されていましたし、海岸には立派な防波堤があります。それまで津波警報が出ても潮位はたいてい警報値より低いという経験も災いしたのかもしれません。
 そんな危機意識のなさを打ち破ったひとつが、門脇小学校の教職員児童の率先避難だったとNHKスペシャルは解説します。

 子どもが避難するので迎えに来た保護者も否応なく日和山に上がる。それに引きずられるように一般の人々も山に急ぐ。校庭では教職員が大声で「山に上がってください」と叫んでいる、その声に促されてまた山をめざす人が増えてくる。
 NHKによると児童生徒とともに日和山に上がった人たちが、分かっているだけでも240名以上、学校に残った職員の呼びかけを端緒に移動した人たちが、これも分かっているだけで300名以上もいたのです。

【もう一人の校長】

 地域の人たちの危機意識が薄かったにもかかわらず、なぜ門脇小学校は雪の中の山行という選択ができたのでしょう?
 それはひとえに日和山への避難を明文化したマニュアルがあり、日ごろから訓練を怠らなかったからです。また一般に教職員は土地の人間ではない、いわば外様ですから、地域の常識にも縛られずに済んだ、そういう事情もあったのかもしれません。

 さて日和山ではその後、子どもたちは次々と保護者に引き取られ、最終的に迎えが来られなかった40名あまりの児童と教職員は、9時過ぎになってようやく県立石巻高校の会議室に落ち着くことになります。
 鈴木校長はそのあと、たまたま巡回してきた市教委の車に乗せてもらい、市役所にある教育委員会へと報告に向かいます。こうして鈴木校長は石巻市内で最も早く市教委へ報告に駆け付けた校長となりました。もっとも、報告し終えて高校にもどろうとするとすでに周辺が水に浸かっていて、市庁舎に一泊しなければならなくなるというおまけつきでしたが――。

 市教委への報告が一番遅れた校長は、なんと地震発生から5日後の16日になってようやく、のっそりと現れます。
 石巻市立大川小学校長です。だから問題になるのです。