カイト・カフェ

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「避難の決め手:完璧な計画と運と地域の人々の援助」~災害と学校② 

 東日本大震災における学校の命運を分けたもの、
 それが完璧な避難計画と運と地域の人々の助言だ。
 しかし完全にうまくいったわけでもない。
 成功例とされた学校にも多くの瑕疵がある。

という話。

f:id:kite-cafe:20210311074539j:plain(旧仙台市立荒浜小学校《2019年9月撮影》)

 3月11日、鎮魂の日です。
 ともに悲しみ、ともに悔やみましょう。
 しかし今日は言葉が見つからないので、とりあえず昨日の続きを書くにとどめます。

石巻市立門脇小学校の失敗】

 門脇小学校の津波避難について、私は昨日「鈴木校長のもとで、教職員も児童もほぼ完璧な避難をしたように思います」と書きました。しかし見方によっては、それは言い過ぎかもしれません。というのは門脇小学校が二つの大きなミスを犯しているからです。ひとつは大事に至りませんでしたが、もうひとつは重大でした。

 まず、津波警報が出て職員と児童を日和山に上げたとき、校長は学校に教頭以下4人の職員を残しました。それが当初の計画通りだったのかその場の判断だったのかは分かりません。校長たちが山行を始めたときもまだ保護者や地域の人々は続々と門脇小学校敷地に入ってきていましたから、その人たちを誘導するためにその場で決めたことのように私は感じています。いずれにしろ4人が校庭に残っている間に、津波の第一波が押し寄せてきて教頭以下は数十人の避難民ととも校舎に入らざるを得なくなります。

 津波は校庭に起きっぱなしになっていた車を押し流して校舎に打ち付け、やがて数台から火の手が上がります。結果的に火災は三日間に渡って燃え続けるのですが、その前に教頭以下の約60名は校舎の二階と裏山を教壇でつないで、それを橋代わりにして和山に脱出することに成功します。危機一髪でした。
 結果的に津波2階まで到達せず火の回りも遅かったので事なきを得ましたが、住民を誘導するにしても、いつでも逃げられる日和山への避難道入り口で行うなど、工夫はあるべきだったのでしょう。

 もうひとつは津波の到達前に児童の一部を保護者に引き渡してしまい、そのために7名の児童の命を失ってしまったことです。のちのち鈴木校長が悔やむことになるのはその点です。


【「子どもを親に渡すな」という教訓】

 東日本大震災のひとつの特徴ですが、青森県から千葉県・東京都なども含めて、すべての都県で被災した学校のうち、学校管理下で亡くなった子どもは石巻市立大川小74人だけで、他には一人もいませんでした。だから大川小学校が強く責められるのですが、「学校管理下」でないところでは亡くなった例もたくさんあったわけで、その大部分が学校から親に引き渡されて自宅に戻ろうとした子どもたちです。

 例えば同じ釜石市内のK小学校は全校児童601名のうち25名を津波被害でなくしましたが、ほとんどは帰宅の途中で大渋滞に巻き込まれ、そこで津波に襲われたものです。また仙台市内と思われるある小学校では、校庭に避難した後、教頭が機転を利かせてより迅速な方法を思いついて多くの児童を保護者に引き渡すことをしましたが、そのことでのちに別の保護者から強く非難されたりもしています。ほかにも校長が児童の引き渡しを最優先にし、ひたすら返してしまった学校もあったようです。
*ここで扱った3校ののうち、K小学校はいわば失敗例ですので私が名前を伏せ、他の2校は参考にした書籍「学校を災害が襲うとき」がすでに校名を伏せていたのでこのようなかたちになりました。


【地域も巻き込んだ完璧な避難】

 しかしこれと逆の対応をした学校もありました。仙台市立荒浜小学校です。
 地震の起こった14時46分、荒浜小ではすでに1年生が1時間前に下校しており、2年生は今まさに敷地を出ようとしているところでした。校長室の窓からその様子を見ていた校長先生は、すでに電源が落ちて放送機器が使えないためにハンドマイクを手にして2年生に中に入るように指示します。そのあと各階を回って3年生以上の児童全員に準備をさせ、4階の教室に行くようにしました。耐震工事の終わっている校舎でしたので中にいる方が安全だと考えたのです。

 しばらくすると今度は地域の人々が続々と学校に入ってきます。いったん帰宅した1年生も多くが保護者と一緒に戻って来ました。校長と教頭そして教務主任はすでに3・4階の教室を町会ごとに振り分け、掲示もしてありましたので、集まってきた住民は玄関で受け付けを済ませるとそれぞれの教室に向かいます。
 地域を回って病人や歩行が困難なお年寄りを運び込んでいた消防の車が3度目に学校を訪れたとき、津波が目前まで迫って署員以下、校長たちも3階へ走ります。そこへ津波の第一波が押し寄せます。しかし津波は3階までは到達せず、こうして荒浜小に避難した320名全員の命が助けられたのです。

 なぜそんなにうまくいったのか――。
 答えは簡単で、すべてそのように計画され、地域住民の避難も含めて訓練まで行われていたからなのです。

 荒浜小学校の敷地は海岸からわずか700m、仙台平野の真っただ中です。高台避難といっても最も近いところで4km以上先です。そこで町会は協議の上、津波の際は荒浜小学校を避難場所として、最悪の場合は籠城するという取り決めがあったのです。
 津波があれば水に沈むと分かっているので、防災備蓄も体育館ではなく校舎の3階が保管場所とされ、その量は800人が3日間しのげるだけのものだったといいますから完璧です。
(しかしそれでも1名が学校に戻ることなく亡くなっていますから、字義通りの完璧というのはやはり難しいものです)


【地域の人々の助言】

 石巻市立門脇小学校も仙台市立荒浜小学校も津波避難の成功例として名高い学校ですが、そこに共通するのは最悪の事態を想定した完璧に近い避難計画と訓練、そして実際場面での愚直なまでの活動という3点セットです。
 後から考えれば間違いだったとしか言いようのない保護者への引き渡しも、避難計画にあったからそうなったのです。

 しかし子どもを守ることのできた学校のすべてがその3セットを用意できていたわけではありませんでした。それにもかかわらずうまくいった背景には、運と人に恵まれたとしか言いようのない状況があったのです。

 例えば大川小学校から直線距離で2kmほどしか離れていない尾勝小学校では、地域の避難場所に指定してあった校舎2階が地震で割れたガラスのために使えず、体育館は卒業式準備でワックスがけをしたばかりで入れない。困っているとそこに保護者がやって来て「雄勝湾の底が見えている、すぐに高台に上れ」と怒鳴ったので避難の方針が決まり、学校わきの高台の神社に避難して全員が助かります。

 牡鹿半島の鮫浦湾に面した谷川小学校では、職員が体育館に避難所開設の準備をしている最中に地域の消防隊員がやってきて強硬に屋外避難を主張し、3度に渡って避難場所を変えながら全員の脱出を助けました。

 計画と運と地域――それが生死を分けた三つのキーワードです。

(この稿、続く)