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「津波避難の、最悪を考えたマニュアルの見直しと訓練」~明日は11年目の3・11

 明日は11年目の3・11、東日本大震災の起こった日だ。 
 すでに現在の小中学生にとっては歴史の一コマ、
 放っておけば忘れ去られてしまう。
 いまこそ学校の出番だ。

という話。

f:id:kite-cafe:20220309202129j:plain(写真:フォトAC)


【祈念の日】

 明日、3月11日は東日本大震災の11回目の祈念の日です。
 あの年に生まれた子ももう11歳、ということは小学生の大部分は被災後に生まれたわけです。義務教育最後の中学3年生でさえ、震災の日は2~4歳。被災地の子はまだしも、そうでない子たちは記憶さえ定かではないでしょう。これは由々しき問題です。

 11年前のあの日、私は職員室のテレビで津波の様子を見ながら、いつもより早く学校を後にしました。結局はその二日後に亡くなる、ひとりの中学生の見舞いに行くためです。震災の方も気になりましたが、阪神大震災以来、建物はずっと堅牢になり、広範囲とはいえ大都市の少ない地域ですからたいした被害とはならないと思っていたのです。津波は巨大なものと分かっていましたが、何しろ東北地方の太平洋岸です。田老町の巨大防潮堤が示すように、入念な準備もあれば人々の意識も違います。台風の中を用水路を見に行って亡くなる人がいるように、ある程度の被害はあるにしても、何十人もが一気に巻き込まれることはないだろうとタカを括っていたのです。何万人などということはまったく考えませんでした。
 過去の津波に詳しくない私は、東北の海辺の人々が何十回も空振り避難を繰り返してきた歴史も知らなかったのです。

 

山国の子に津波避難の教育をする意味

 近代以降だけでも明治三陸地震(明治29年:死者行方不明22000人)・昭和三陸地震(昭和8年:死者行方不明3000人)と大きな地震津波を経験しているはずの東北地方で、なぜ津波避難が遅れたのか――さまざまな要因がありますが、そのひとつは教育でしょう。
 今回の大震災では石巻市立大川小学校の例を除けば、ほとんどの小中高校生の児童生徒は助かっていますから、学校内の防災教育はかろうじて合格点だったといえます。しかし大人になったら忘れてしまうような知識や経験は、やはり不十分なのでしょう。
 大人になっても忘れないために、いざというときは子どもたちが率先避難者となって大人を動かすくらいの防災教育はしておくべきだったのかもしれません。

 東日本大震災では昔と違って大量の映像データと、各地の伝承館・祈念館・資料館が残されました。そうしたものを利用して、私たちは次の世代に災害の実態と具体的な避難技術を伝えて行かなくてはなりません。現代の人口の流動性を考えれば、山国の私たちも同じです。否、それどころか山国の人間こそ津波対応について学ぶべきかもしれません。

 多くの被災地で率先避難者になり易い一部は「よそ者」です。地域になじみがない分、恐怖心も大きく、地元に知己が少ないだけに心理的に身軽で早く逃げ出しがちなのです。山国の子であっても、津波についてしっかり学習させておく必要があります。

 

【最悪の場合を考えたマニュアルの見直しと訓練】

 もうひとつ、学校としてやっておくべきことがあります。それは最悪の場合を考えた避難マニュアルの見直しと訓練です。

 東日本大震災では津波避難の成功例として石巻市立門脇小学校と釜石市立釜石東中学校が、失敗例として石巻市立大川小学校が多く挙げられます。しかしこの三校には驚くべき共通点と相違点があるのです。
 共通点として挙げられるのは、三校の現場責任者(門脇小学校は校長、他の二校は校長不在のために教頭)が、避難マニュアルに完全に準拠して行動したという点です。ところがその先が違っていました。
 門脇小学校は海面すれすれの学校でしたが背後に日和山公園という丘を控えていて、そこが避難場所となっており、避難訓練でも常にそこまで登っていたのです。それで事なきを得ます。
 釜石東中学校は三校の中で最も防災教育の進んでいた学校でしたが、そのマニュアルは完璧なものではありませんでした。結果的に言えば、避難先と考えていた場所が津波に飲まれてしまったからです。ただし一次避難を終えたあと、教頭は地元の人の勧めもあってさらに高い場所へ生徒を移動させ、最終的には半数近くを山の中に入れます。そこまでやって生徒全員を救うことができたのです。
(伝説ではそれらを全部を、生徒たちが自主的判断で行ったことになっていますが――)

 大川小学校の教頭も、結果的に津波に飲まれてしまう場所(校庭)に避難していたという点で、釜石東中学校の教頭と同じでした。ただ違っていたのは、釜石東中学校とは逆に(おそらく)地元の人に引き留められてしまったことです。別なところでさんざん書きましたからここでは記しませんが、そこには二重三重のたいへんな不運が重なっていました。

 では不運が重なったから悲劇は防げなかったのかというと、それも違います。津波避難の第一次避難所が校庭ではなく、もっと高いところに設定されていて繰り返し訓練をしておけばよかった、門脇小学校と同じであればよかった、それだけのことです。それが裁判でも最終的な結論となった内容です。
 最悪の場合を考えた避難マニュアルの見直しと、実際にそこまでやってみる避難訓練の大切さ、東日本大震災の学校に残した最大の教訓です。