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「何が何でも子どもたち全員が絶対に助かる避難場所を探せと裁判所は言った」~13年目の3・11に際して②

 いわゆる大川小学校津波訴訟は、
 罹災から9年目にようやく判決が確定した。曰く、
 「どんなに遠くてもいいから、確実に全員が助かる場所を探せ」
 無茶な話だが、必要なことだ。
という話。(写真:フォトAC)

【学校の責任】

 2019年10月、最高裁東日本大震災で犠牲になった石巻市立大川小学校の児童23名の遺族が起こした訴訟で、遺族側の訴えを認めた二審仙台高裁の判決を支持し、市と県の上告を退ける決定をしました。これでいわゆる大川小学校津波訴訟の判決が確定したのです。
 確定した二審判決には、次のような部分があります。
「同小の校長らには児童の安全確保のため、地域住民よりもはるかに高いレベルの防災知識や経験が求められると指摘。市のハザードマップで大川小は津波の浸水想定区域外だったが、校長らは学校の立地などを詳細に検討すれば津波被害を予見できたと判断した。
 その上で、校長らは学校の実情に沿って危機管理マニュアルを改訂する義務があったのに怠ったと指摘。市教委もマニュアルの不備を是正するなどの指導を怠ったとし、賠償額を一審判決から約1千万円増額した。2019.10.11日本経済新聞

 学校にとって、これはかなり由々しき事態です。
 考えてもみてください。校長は着任すると同時に地域の状況を把握し、防災マニュアルの妥当性を確認しなくてはならないのです。しかも市が専門家を使って作成したかもしれないハザードマップをアテにせず、地域の住民よりも一段高い危機意識と専門性をもって危機管理マニュアルを改訂しなくてはならないということ、いかに優秀な人であっても防災の専門家でない人間には荷の重い仕事です。
 しかも小学校の防災マニュアルで考慮しなくてはならない内容は、山ほどあります。

【校長は、行政を信じず、地域を無視した避難計画を立てられるか】

 昨日も申し上げましたが、義務教育の学校、特に小学校は地域に根付いていますから、地域住民を振り切って避難することはできません。小学生が移動すれば、当然高齢者も車椅子の人も一斉に動かざるを得ないからです。
 それに、大川小学校がまさにそうでしたが、そもそも学校が地域の避難場所として指定される場合も多いのです。その避難所に集まって来た住民を置き去りにして、別の場所へ移動するというのはかなり難しい話です。
 
 3月11日の大川小学校校庭では、それでも不安になって高台に移動しようとした教頭と(校長は当日年休を取って不在)、移動したくない地区の区長が、言い争いのようになっていたという目撃証言が残っています。区長としては余震が続く中、避難所である小学校に集まってきた高齢者中心の住民を、山の中に移動させる危険を冒したくなかったのです。どうせ津波は来ない(と信じていた)のですから。
 
 実際に、教頭が新たな避難先として念頭に置いた大川小学校の裏山は、仙台高裁も適地としませんでした。判決が適切と考えて示した避難場所は、「バットの森」と呼ばれる大川小学校の裏山を大きく回り込んで反対側から登る高台で、判決文にはこんなふうに書かれています。
『大川小学校正門から「バットの森」までは、低学年の児童の足でも約20分で到達することが可能であった』
 しかし片道20分、訓練だったら往復40分。それだけの時間をかけた避難訓練を年複数回も計画・実施するというのは、容易なことではありません。高さ10mの大津波がくると分かっていれば別ですが、実施はまず不可能でしょう。
 市のハザードマップで浸水想定地域に入っておらず、それどころか津波災害の避難場所に指定されている学校の校長が、地域の思惑を顧みず、独断で別の避難場所を設定し訓練を行う――やはり現実味がありません。

【それでも判決が出て良かったわけ】

 石巻市立大川小学校の悲劇が単なる悲劇に留まらず、泥沼の裁判となって遺族をさらに苦しめることになった背景には、当時の大川小学校長の無能があったと私は思っています。マニュアル改訂に思いが至らなかったから無能というのではありません。津波に関する事後の対応が、あまりにもいい加減でお粗末、残された人々の神経を逆なでするようなものだったからです。

 これが津波の翌日から、遺族に率先して泥沼を這いまわり、爪の間に血を滲ませて捜索するような校長だったら、事態はずっと気持ちの良いものになったはずです。ところが実際の校長は近くの避難所までは来たものの、朝、捜索の保護者を送り出すと何の手伝いもしようとせず、家族の要請に応えてようやく現場に入ったのが6日後の3月17日、市教委への報告はその前日の16日という遅さでした。16日に至って初めて事態を知った市教委は激怒。市の対応が遅れたことにはそうした事情もあったのです。

 校長の、その無能さが遺族を怒らせ、事態を抜き差しならないものにしたのは間違いありませんし、そのために8年もかかる大きな裁判となり、「片道20分の山を目指して避難せよ」といった無茶な判決も出ました。しかし私は無茶はあっても、「裁判所の判断」という形で学校と教委の責任が明らかになったのはいいことだと思っています。これによって全国の市町村教委が背筋を伸ばし、校長を叱咤してマニュアルの点検と改訂が進んだからです。

 結果論ですが大川小学校の防災マニュアルに「大津波が予想される場合は『バットの森』へ避難する」と一行加え、地区の役員とも連絡を取っておけば、それだけ事情は違っていたのです。書いてさえあれば実際に「バットの森」までの避難訓練は行わなくてもよかった。
 学校はムダな会議が多すぎると繰り返し言われますが、当然「防災マニュアル」の読み合わせはやっていて、だからいざというときは誰かが「バットの森」を思い出すはずです。そして選択肢が生れます。
 「マニュアル」に《書いてある》ということが重要で、マニュアルを盾に取れば、地区の役員もしぶしぶ了承せざるを得なかったのです。

 石巻市立大川小学校は廃校となり、その後、復活しませんでした。しかしこの災害と裁判をきっかけに、全国の小中学校の防災マニュアルが検討しなおされ、多くの学校が「バットの森」のような「絶対に安全な最終避難場所」の指定を行ったに違いありません。それだけが無能な校長の、結果論的な功績でした。
(この稿、続く)