「天災としての”あの日、大川小学校で起こったこと”」~災害と学校④

 大川小学校については語りつくした感じもあった。
 しかし謎は解明されていない。
 空白の50分余の間、教師たちは何をしていたのか、
 何を考え、どうしようとしていたのか。
という話。f:id:kite-cafe:20210315075837j:plain(大川小学校校舎《2019年9月撮影》)

【大川小学校被災を見直す】

 大川小学校についてはすでに何度も扱ってきました。そのたびに調べ直したり考え直したりするのですが、あの日地震があってから津波が押し寄せるまでの50分間(あるいは51分間)に、大川小学校校庭で何が起こっていたのかは見えて来ません。
 関係者の大半は津波で亡くなってしまいましたし、生き残った教員ひとりと児童4人は、重要な判断と決断の場面には参加しておらず、その証言もバラバラだったりつじつまが合わなかったりするからです。

 世間は現場に行けば誰でも思いつく、「裏山に避難する」という避難行動を取らなかった教師たちをなじり、私も指揮官である教頭を無能呼ばわりしたこともあります(校長はその日自分の娘の卒業式のために休みを取って不在だった)。

 ただ、今回もう一度、石巻市立門脇小学校から仙台市立荒浜小学校、気仙沼向洋高校などの避難行動を確認してみると、やはり当時の大川小学校の教職員の、行動には無理ならぬ面があったような気がしてくるのです。
 


【“事実”の見方、切り取り方】

 地震から津波被災での50分余りに起こったできごとについては、生き残った5人の他、早い時刻に子どもを迎えに行って何ごともなく帰ってきた保護者たち、近くを通過したり実際に職員と話をしたりした石巻市役所支所職員、あるいは通学バスの運転手と無線で会話した同じ会社の同僚、そういった人々の証言から点描として描かれるだけです。

 その中から一刻も早く校庭を出て高所へ移動すべきだったと判断される内容を拾うと、

  1.  地震で校庭避難が完了した直後(14時50分ごろ)、すでに6mを越える大津波の警報が出て、それを教頭たちはラジオを通して知ることができた。そのため教務主任が裏山への避難を提案して、そこで協議がもたれた。
  2. 地元の民生委員の女性が「津波が来るから早く逃げろ」と言った。子どもの迎えに来た母親も「早く山に逃げて」と懇願した。
  3. 15時10分には予想される津波の高さが10mに引き上げられ、(おそらく携帯のワンセグ放送でテレビを見ていた)保護者が、不安を口にし始めた。少し遅れて15時21分にはFMラジオが予想の高さ10mを伝えていた。(ただし教頭がそれを知っていたかは不明)
  4. 母親同士が「3時30分には津波が来るんだって、あと20分しかないじゃない」といった会話をしていた。
  5. 15時15分ごろ、消防署の広報車がサイレンとともに大津波警報の発令を知らせながら避難を呼びかけて小学校前を通過した。

等々。
 大川小学校の敷地は海抜1mほど。堤防が持ちこたえればなんとかなりますが、一か所でも決壊すれば校舎の2階まで水に浸かる計算です。それでも避難しなかったというのはあまりにも愚かに見えます。

 ところが避難しない、避難できないという観点から情報を拾うと、それもまたかなり集まって来るのです。

  1. 大川小学校は市のハザードマップでも津波の予想到達地点から800mも離れたところに位置していて、津波の避難所指定さえ受けていた。つまり逃げ出す場所ではなく、逃げてくるべき場所だった。
  2. そのため校庭を離れて避難する具体的な計画がなかった。教員の中には「学校の方が安全だから、しばらくここにいましょう」と勧める者もいるくらい場所を信頼していた。
  3. ちなみに学校は河口から4km近く遡った位置にあり、山が邪魔をしていて海を望むことはできない。
  4. 多くの人々がそこへ逃げるべきだったという裏山は、倒木こそなかったものの度重なる余震で木々が大きく揺れていた。しかもすぐ南にはコンクリート造りの堅牢な擁壁があり、山が崩れやすいことを暗示していた。
  5. 15時00分までの間に十数人の地域住民が避難してきた。
  6. 保護者が迎えに来て児童の引き渡しが始まり、集団で移動すると保護者がどこへ引き取りに行けばいいのか分からなくなる。
  7. 15時23分(地震から37分、津波到達の13分前)。支所の広報車が立ち寄り、大川小学校体育館を避難場所として開放できるか打診してきた。教頭は照明の落下を恐れて受け入れられないと伝えた。広報車はその後、海岸方面へ向かって行った。市の職員に危機意識はまったくない。
  8. 学校に隣接する釜谷交流会館が避難所として開放され、住民の一部が入り始める。住民も津波を心配していない。
  9. 15時28分ごろ(?)、海岸に向かった広報車が実際に大津波を目撃して、大慌てで引き返してくる。「津波が松原を通過しました。すぐに高台に避難してください」という放送を聞いて、教頭は区長に「山に上がらせてくれ」と言ったが区長が「津波がここまで来るはずはない。三角地帯(大橋のほとりの小高い部分)に行こう」といって喧嘩みたいになっていた(児童の証言)。その時点でも区長は津波に襲われることはまったく考えていなかった。
  10. 15時30分ごろ、三角地点へ移動開始。
  11. 15時36分~38分、津波到達。

【誰も津波が来るとは思っていなかった】

 大川小学校の被災状況が明らかになるにしたがって、裏山に避難するという選択肢がさまざまな方面から差し出されていたにもかかわらず、学校はなぜ校庭に留まり続けたのかという疑問が出されるようになりました。大川小学校では児童が教師に殺されたと言われる由縁です。
 しかし空白の50分間のうち最低でもおよそ42分間、先生たちは多少の不安を感じながらも、津波に襲われる可能性などまったく考えずにその場で時を過ごしていたのです。教員だけではなく、地域住民も――。

 子どもの引き取りなどでその時間帯に学校を訪れた人々は、のんびりと時間を過ごす学校関係者や子どもたち、地域の人々の様子を証言しています。

 この震災と津波によって、大川小学校のある釜谷地区では当時109世帯393人いた住民のうち197人の死者・行方不明者が出てしまいます。人口のおよそ半分が一瞬で失われたことになります。日中の津波でしたから地区外に働きに出ていた人がそうとういたことを考えると、津波襲来時に釜谷地区にいた人々の9割以上が亡くなったと思われます。津波の襲来を予測できた人はほとんどいなかったのです。

 2016年10月の仙台地裁判決でも、現場の教師が津波の襲来を予見できたのは、海岸近くで津波を目視した支所の広報車が引き返して、高台に避難を呼びかけた15時30分ごろのこととして、それ以前の時間については教職員を免責しています。

 考えてみれば地元の住民の危機意識の薄さは釜谷地区だけではありません。同じ石巻の門脇地区でも気仙沼の向陽高校周辺でも、地域をよく知る人たちはむしろ危機感を持たず、津波の襲来も予見しなかったのです。
 地域の人々が予見しないものを他所者、外様の教師たちが予見することはできません。

 では津波が来ると予想しなければ避難はできないのか――。
 私はそれもないと思うのです。

(この稿、続く)