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「東日本大震災の基本的なことと、学校のやったこと」~13年目の3・11に際して①

 13年目ということは今の中学1年生までが生れる前のこと、
 2~3年生でも覚えているはずがない。
 だから私が現役教師なら、今朝は基本的なことをメモにして、
 精いっぱい語り掛け、そして自分が何をすべきかも考えるだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【震災に関わる基本的数字】

 13年目の3・11です。
 地震の起きた正確な日時は、2011年(平成23年)3月11日14時46分。震源地は宮城県牡鹿半島の東南東沖130 km。深さ24km。地震の規模を表すマグニチュードは9.0。
 最大震度は7が宮城県栗原市震度6強が宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で観測されました。
 
 その後押し寄せた津波は最大波高10m以上、最大遡上高40.1mと言われ、東北地方から関東地方までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。
 死者は12都道県で1万5900人余り。行方不明者は6県で2523人。負傷者は6200人余りだったといいます。
 地震だけならまだしも、津波がとんでもない数の人々をさらってしまい、さらに追い打ちをかけて福島第一原発事故が多くの人々から土地と家と人間関係を奪ってしまったのです。
 まさに未曾有の大災害でした。

【学校は粛々と学んだ通りのことをした】

 私は毎年3月11日の15時くらいになると心がざわめきます。
 2011年のその日、被災地では大きな地震がいちおう収まった午後2時50分ごろから、机の下に隠れたり屋外でしゃがみ込んでいた人たちがようやく動き始めます。
 
 石巻市立門脇小学校では女性校長の指示の下、子どもたちが裏山(海岸段丘)の上にある日和山公園に移動を始めます。校長の判断ではありません。避難手順がそうなっていたのです。
 非常事態とはいえ、避難自体は訓練で慣れていますから粛々と行われます。そこへ学校をアテにした地元住民が訪れてくるのですが、すかさず残った職員が公園に登るよう声をかけます。小雪交じりの寒風の中を、ウンザリしながら仕方なく歩き始めた人もいるかもしれません。しかし、だから助かりました。
 
 広い平野の海沿いに立つ仙台市立荒浜小学校では地震直後、すでに下校を終えていた1年生を呼び戻すため、職員が走ります。そうこうしている間に地域移住民が続々と学校を訪れ、校長は全員を3階以上に案内します。その直後、津波は小学校に押し寄せ、2階までを完全に水没させました。しかし子どもたちはもちろん、避難して来た地域住民も全員が3階以上にいましたから、命を拾うことができました。なぜそんなに手早く動けたか――言うまでもなく、学校と地域の避難手順がそうなっていて、訓練もしていたからです。
 
 宮城県気仙沼市にある気仙沼向洋高校(現在の伝承館)は少し様子が違っていました。海辺の平らな土地に立つ高校でしたが、教師の指示で少しでも高い場所を求めて、生徒と教員は内陸へと走ったのです。途中で地域の人々(その多くは地震の後片付けをしていた)にも声をかけますが、誰も動こうとはしません。これが門脇小学校や荒浜小学校との大きな違いで、小学校は地域にしっかりと根を張り、地域とともに動いているのに対して、高校は日ごろから地域との人間関係が薄く、一方が動けば他も引きずられるというふうにはなっていなかったのです。同じ場所で被災したのに、生徒と教職員は助かり、多くの地元民が亡くなるという不均衡はこうして起きました。

【あの大川小学校もその場で可能な最大限のことをした】

 門脇小学校と同じ石巻市内の、東側の山をいくつか越えた先にある大川小学校でも、児童教職員は地元民とともにありました。避難訓練の手順に従って校庭に集められた子どもたちは、そこで保護者の迎えを待つことになります。雪が舞い始めましたが、余震が怖くて校舎に戻れず、体育館も入れる状態になかったからです。

 マニュアル通りの避難という点では門脇小学校や荒浜小学校と同じでしたが、ひとつだけ大きな違いがありました。大川小学校の避難手順には「津波避難」という概念がなかったのです。直線距離で2~3kmほど先にある海は山に遮られて見ることができず、海抜が1mほどしかないということも意識しにくい場所でした。そして職員にも地元住民にも、津波に対する危機感がほとんどなかったのです。
 
 三陸は有史以来、何度も大津波に遭っていますが、はっきり記録に残る9回の大津波(869年、1611年、1616年、1676年、1696年、1835年、1856年、1896年、1933年)はいずれも大川地区に到達していません。大川小学校のすぐ北側を東進して太平洋にそそぐ北上川は、東日本大震災で巨大な津波を受け入れ、膨大な量の海水を小学校の上流まで運んでしまった大河ですが、1933年の大津波の翌年、ようやくその場所に移された付け替えの川で、それまでの北上川石巻市内を真っ直ぐ南下していたのです。
 つまり2011年の大津波は、北上川が大川地区を通るようになって初めてのもので、津波の記憶は地域の伝承としてもなかったのです。地域の人が知らないことは、教師たちも知りません。
 それがおそらくあの日、地震の瞬間、大川地区にいた児童・教職員を含むほとんどの人が避難せずに津波に飲まれてしまった原因だと思われます。
 ただし、裁判はそのような判断はしませんでした。
(この稿、続く)