カイト・カフェ

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「授業がきちんとできること自体が偉大な時代」~普通の教師であることのすごさ①

 先日の地区懇親会で、学校評議員の某氏と話をしました。本業は企業の社長さんです。話を進めていく中でこの評議員が一人の教員の名を上げ、
「ああいうカリスマ的教師をもっとふやしていかなければならない。たくさんの授業を見てきたが他はみんな『金太郎飴の輪切り』。なぜ独自の授業を目指さない、なぜ一流の教師になろうとしない。
 
聞こえてくるのは『忙しい』とか『たいへんだ』とかいった話ばかり、しかし公務員は民間に比べたらはるかに恵まれた立場にあり、いくらでもヌクヌクとしている、それでやっていける。民間だったら、そんな『普通程度』の人はすぐに淘汰されてしまう。
 普通にできるのは当たり前、その上に何を積み上げるか、それができない人間は消えてもらうしかない」
といった話をされました(何か橋下大阪市長みたい)。話を聞きながら思わず「ウン、ウン」と頷いてしまい、しばらくして少しボーッとしてしまいました。

 評議員のおっしゃることは言葉面だけを見るとまったくその通りなのです。たしかに教科書どおりの授業なんかできて当たり前、それは教員としての最低条件です。その上でよりよい教師、カリスマ教師を目指すべきなのです。しかし何か割り切れない。一緒になって「そうだ、そうだ」と言えないものがある。私はそれを掴みかねていました。

 これだけ話が分からないときはたいてい根幹の部分に大きな見落としがある場合です。そしてしばらくしてようやく気づいたのです。

「普通程度」の授業をすること自体が非常に難しいのだ。

 30人もの子どもをきちんと座らせ前を向かせ、45〜50分の授業を行い、発言をさせ話し合いをさせ、最低限の知識技能をつけさせる、その“当たり前のこと”がどれほど難しいか、委員を含め世間の人はそれを知らず、私たちも世間の人たちがそれを知らないことに気づいていない、ということです。

 世の中の人たち、中でも何らかのオピニオン・リーダーたちは教育というものを簡単に考えているのかもしれません。それは彼の話を誰もがしっかり聞こうとするからです。

 “社長”が社員の前で訓示をたれれば社員は必ず聞いてくれます。“評議員”が学校職員の前で語れば何時間でもおとなしく聞いてくれます。講演会の講師を依頼された人が講演をすれば、聴衆は必ず聞きます(成人式以外)。

 しかしそれは「社長―社員」「評議員―学校職員」といういわば上下の関係があるからではありません。聞く側が“大人”だからです。どんなくだらない話でも、どんなに難しい話でも、公式の場で話す人と聞く人の関係があれば、“大人”はきちんと聞くのです。そういうルールに縛られています。

 しかし私たちが相手にしているのは“大人”ではなく、彼らは授業を受けたくて学校に来ているわけでもありませんし、同い年という以外の何の共通性も持たない(そのスタートにおいては)烏合の衆なのです。

 それを意のままに操ろうとしている。それが私たちの仕事です。 

(この稿、続く)
* 北朝鮮の最高指導者、金正日総書記が亡くなりまた。東アジアの情勢は一気に動くかもしれません。児童生徒にはその年齢にふさわしいかたちで、注意を促しておくとよいでしょう。歴史の重要な1ページに触れているのですから。
 なおこのニュースについてTBSが「北京の北朝鮮大使館 反旗を掲げる」と報道したみたいで、ネット上で評判になっています(正しくは“半旗”)。しっかり勉強しておかなければ恥ずかしい一例です。