「時代はこんなにも変わっている」~普通の教師であることのすごさ②

 世間の学校に対する大きな誤解のひとつは、「学校教育は子ども相手の楽な仕事だ」というものです。自分の子どもの難しさは痛いほど分かっているのに、学校の子どもは楽だという思い込みがあります。

 そこから、例えば学力問題のような場合、「子どもはきちんとやれるのに学力が低下するのは、教師の質が低下したからに違いない」といった方向でものが考えられます。しかし再三申し上げていますが、教員の質は上がりこそすれ低下するはずはないのです。

 平成不況以来、教職試験は就職試験の中で最も難しい試験のひとつでした。倍率だけを考えても私が教員になった時代の比ではありません。現在の待遇や勤務条件を考えると、これ以上望めないほど難しい試験が続きましたから、限界まで優秀な先生が集まってきているはずです(実際に20代〜30代にはとんでもなく優秀な先生がいくらでもいます)。
 またそれとは別に、ここ十数年の教育改革は(その内容こそ空虚で無意味であったにも関わらず)、私たちの恐怖と意識を刺激し、大量の研修の義務や機会を与えました。昔に比べると受けるべき研修の量が飛躍的に伸びたのです。

 これで教員の質が下がるとしたら問題は個々の教員にあるのではなく、教員選考の方法や研修内容にとんでもない錯誤があるということです。私はクビをかけて言いますが、現在の教員は私の新卒時代に比べると、すべての年齢階層で飛躍的に伸びています。そうであるにもかかわらず、全体として学校教育がうまく行っていないように見えるのはなぜでしょう。

 今度は、この数十年の間に衰えたもの、あるいは失ったものを見てみます。そんなものはいくらでもあります。

 昔は子どもがきちんと授業を受けるさまざまな仕組みがありました。(私は賛成しませんが)抑止力としての体罰がありました。学校に対する保護者の絶対的帰依がありました。無着成恭の『山びこ学校』を読むと、とにかく家内労働が厳しくて学校に行って勉強をすることが何より幸せといった過酷な状況がありました。

 しかし現在はそれらがすべてなくなり、その中で教師は自分たちの言葉だけで児童生徒を動かさなければならなくなりました。さらに生活科や総合的な学習、小学校英語といった昔の教師がやらなかったさまざまな追加教育に翻弄されています。

 その中で、毎日毎日授業内容や指導の手順を考え、“普通の授業を普通にできる”ことは、本当に大変なのです。それがすべてで、とてもではないがそれ以上を目指せる状況ではない、というのが“普通”の教員の普通の実感です。偉大な授業は偉大なカリスマにしかできません(だからカリスマなのです)。

 火の鳥NIPPON全日本女子バレーボールチーム)は先日のワールドカップを4位で終えました。1960年代の東洋の魔女(ニチボー貝塚チーム)は世界選手権を含め258連勝というとてつもない成績を残しています。しかしだからと言って、現在の火の鳥NIPPONは全盛期の東洋の魔女に勝てないと言う人はいないでしょう。100試合すれば100試合とも火の鳥NIPPONが勝ちます。

 バレーボール選手同様に、教員の資質は「絶対的」には飛躍的に伸びました。しかし社会状況や学校の状況変化によって、「相対的」には低下したのです。この相対的低下に対して、教員の側だけをいくらいじっていても課題が克服できないことは、火を見るより明らかです。