あれだけ盛りだくさんの「特別活動」なのに、
与えられた時間は年35時間だけ。
しょせん無理な話で、だったら自分流に、
価値を組み直すしかないだろう
という話。
(写真:フォトAC)
【あれだけの盛りだくさんを、年間35時間で行う】
日本の学校に特徴的な「特別活動」は、日本人の子どもを日本人に育てようというとんでもない試みですから、内容もとんでもなく豊かになり、そして時間もとんでもなくかかるものです。ところが呆れたことに、学習指導要領を見ると「特別活動」にかけることのできる時間は年間で35授業時間*1しかないのです。
*1:小学校45分、中学校50分
例えば運動会の一日開催は6時間(実際には60分×6時間かかったとしても、計算上は45分授業が6コマ行われたとする)ですが、練習は14(授業)時間もかかったりします。これを全部「特別活動」にしてしまうと運動会だけで年間授業時数の57%(20/35)も消費してしまうことになりますから、もちろんそんなことはできません。したがって運動会の練習のほとんどは体育の授業として計算することになります。
修学旅行はどうでしょう?
中学校の修学旅行などは2泊3日でおよそ60分×60時間、50分授業に換算すると70(授業)時間も使わなくてはならないので指導要領の規定の2倍。そのままだと実施できないことになってしまいます。
そこで(正確に言えばの話ですが)「一日の学校の授業時間は最大6時間だから」という理由で強引に3日で18(授業)時間しか使わなかったことにして、現場で調査活動をすれば「総合的な学習の時間」で2時間、名所の見学をすれば社会科で5時間、短歌を詠んだので国語2時間というふうに細かく割り振っていくしかなくなります。
しかしこんな面倒くさく言い訳がましい計算は、平成に入ってカリキュラム管理が厳しくなってから始まったことで、昭和のあいだじゅうはおおらかに無視していられたのです。学校も6日制で今ほど窮屈ではありませんでしたし、指導要領の標準時数はクリアすべき最低基準だと考えていましたから、増え続けることは気にならず、教師たちは自由に、好きなだけ子どもたちに力をつけようとすることができたのです。
まさか令和になって文科省から「標準時数を何時間もオーバーするとは何事だ」と叱られるとは思いませんでした。
【誰もこんなふうになるとは思っていなかった、解決策もない】
昭和の教師が、修学旅行も文化祭も運動会も、児童生徒会も、音楽会や合唱コンクールなども、好きなだけ肥大化させてしてしまった――もちろんそこには「定額働かせ放題」で制度的な歯止めが効かなかったこともありますが――、教師たちもやりたがった、そういう事情もあります。子どもの成長が手に取るように見える特別活動は、教員の「やりがい」の源泉のようなものだったのです。
平成に入って5日制が始まり、総授業時数が減るとともに次から次へと追加教育がもたらされ、不登校やいじめ問題、不審者対応や薬物依存対策などが学校の責任となって、時間やエネルギーがどんどん奪われる時代が来るだろうとは、誰も想像していませんでした。
いつも言っているように、この問題の解決策は教職員の数を増やすか、指導内容を減らすか、ふたつにひとつしかないのですが、最近の選挙でも当選者は減税を叫んできた人ばかりで、国会が教員を増やすためであっても増税をする可能性はまるでありません。したがって政府も大幅な教員増のための予算を出すことには及び腰で、そうこうしているうちに志望者自体が減って事実上不可能になってしまいました。
一方、教育内容を減らすことは、今日まで増やし続けてきた先輩官僚の顔を潰すことになるためか、「私がそれを実現した」と主張する国会議員がいるからか、はたまた利権がらみで、やめると煩い議員が顔を出すからか、いずれにしろこれも可能性がほとんどありません。
だったらどうするのか――。
【教師としてのアイデンティティの構築】
なにもかも受け入れることで学校が教育のアイデンティティを失ってしまったことについては、先日お話ししました。きちんとした価値体系がなくなり、したがって優先順位も決まりません。
不登校25万人と言われると活動が不登校問題中心に傾斜し、いじめがマスコミで大きく取り上げられると忘れていた「いじめアンケート」などを取り出して慌てて調査する。道徳教育はしっかりできているのかと訊ねられて自分の授業を見直し、保護者対策は万全かと訊かれて面倒くさい保護者の言い分も聞いているととつぜん、「ところで教科指導の方も当然しっかやっているよね」と詰められる――この30年余りの学校は、常にそんなふうに動かされてきました。そしておそらく5年~10年といった短い間隔では、大勢は変わらないと私は思います。
「他人を変えることはできない。変えられるのは自分だけだ」
という言い方があります。制度や状況も同じです。自分以外のものを変えるのは容易ではありません。特に実効的な圧力団体としての労働組合を失った教員たちは、個人で立ち向かうしかありませんが容易なことではないでしょう。しかし自分のなかで、教員としてのアイデンティティをくみ上げるのは可能です。
早くも自分を「教科を教える教員」と位置づけ、部活動や校務から手を引こうとする先生もおられます。圧倒的な授業力で学校全体をけん引してくれるような教師はやはり必要ですから、その人の抜けた分を補うのもやぶさかではありません。ただし、教科の指導方法というのはあらから掘り尽くされている感じがあります。小学校英語やプログラミング学習といった新規の学習はまだしも、一般の教科は10年も修行を積めば、これといった教材研究をしなくても普通の授業はできるようになります。本当に苦しいのはせいぜい5年程度です。
しかし道徳や特別活動は掘り尽くせない――。
【手を抜くなら教科教育しかない】
残念なことに子どもの側にも、教科指導で伸びる力には限界があります。「1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(ビリギャル)などといったものもありますが、それは最初に偏差値を取った時の母集団がメチャクチャ優秀なのに本人が怠けきっていたからで、普通の受験生が受ける試験で偏差値30だった普通の生徒が、1年間で70にもなることはありません。教科の成績には「地頭(じあたま)」という限界があって、私たちがどんなに頑張っても、普通の公立中学校で任意に与えられた生徒のほとんどを、東京大学にいれることなどできないのです。
ただ、クラスのほとんどの子を、気持ちの良い、責任感に溢れた、誠実な人間に育てることは不可能ではありません。
挨拶ができて、掃除ができて、身辺の整理がよくできて、明るく思いやりがあり、人の知らないところで困ってる人にさりげなく支援の手を差し伸べることができる子。そして一朝、災害や問題が発生したら、進んで活動できる子・・・私はそういう子を育てたい。
現状、何かから手を抜かなければならないとしたら、知育・徳育・体育の中から私だったら知育への力を抜く。どうせ教員なんてそのすべてに120・120・120の力をかけているに決まっています。それを100・120・120に減らすのに、何の問題もないでしょう。
しかし徳育(道徳・特別活動)の120を100にするのは不可です。ましてや90~80にしてはなりません。なぜなら英語が喋れなくても因数分解ができなくても生きていけますが、挨拶ができなかったり掃除ができなかったりする子は、どこに行っても苦労が絶えないからです。そんな子を育ててしまうことはそれ自体が罪悪だと私は思うのです。
(この稿、終了)