カイト・カフェ

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「仕事を減らしても教師の労働時間は減らないだろう。教師は漁師と同じだからだ」~のちに禍根を残さないよう言うべきことは言っておく②

 教員も働き方の意識を変えるようにと専門家は言うが、
 教師の気持ちは大きくは変わらないだろう。
 学校の教師も港の漁師と同じ。
 隣りのアイツには負けたくないのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【思った通り、教師が子どもを犠牲にする話】 

 全国中学校体育大会(略称:全中)の規模縮小の話は昨日のニュースでも扱われていて、ある局では相撲部の大会を取材し、保護者や選手から「困った」「何とかしてほしい」といった言葉を採取した上で、「子どもたちを第一に考えた方策を取ってほしいものです」といったまとめ方をしていました。右上には「教員の負担軽減のため」の文字が浮かび上がっています。
 全部まとめると、
「教員の負担軽減のために子どもと子どもの夢を犠牲にします」
みたいな話になっています。もちろんカッコつきで(先生たちの負担の大きさは重々承知ですが)といったニュアンスも含めた上での話ですが――。
 何をやっても最後は「学校が悪い」「教師が悪い」ということにしておけば視聴者に納得してもらえるニュースが一本仕上がると、テレビ局はそんなふうに思っているのかもしれません。

【内田先生、学校依存社会を叱る】

 昨日はそうした社会の風潮に一石を投じるような形で、日刊ゲンダイDEGITALに名古屋大学大学院の内田良先生の「教育社会学者・内田良氏 教員のタダ働きに甘える“学校依存社会”に警鐘」という記事が出ていいました。子どもが夜に出歩いていたりうるさくしていると地域住民から学校にクレームが入るという話のあと内田先生は、
「他にも、土日にも部活動の顧問をしていることや、学校で起きたトラブルなどについて保護者の帰宅を待って電話するなど、教員の勤務時間外や管轄外の労働に、社会が疑問を抱かなくなってしまっている」
といった状況を紹介し、その上で、
「教員も一人の私人であり、労働者です。にもかかわらず、勤務時間外にも子供の面倒を見ることを求め、教員に大きな負担をかけてしまっている。社会全体で改めて考えていかねばなりません」
とおっしゃっています。しかしその内田先生をもってしても、「社会全体で考えて」いったうえで行うべきこととしては、「財務省はもっとお金を出しましょう」「残業代をきちんと払うようにして、その代わり労務管理をしっかりしましょう」「先生たちも労働というものについて考え方を根本から変えて行きましょう」という話に持って行くのがせいぜいで、とてもではありませんが「社会全体で」ということにはなりません。

 ちなみに財務省はこの先も残業代や教員の増員のための大型予算を出すことは絶対にありませんし、先生たちも働き方を大きく変化させることはないでしょう。大多数の教師たちは子どもが大好きで、子どものためなら何でもやってしまう人たちです。現在の働き方に大きな不満をもつ教師たちも、働き方改革を進め、ゆっくり休みをとって遊びに行きたいと言っているのではなく、もっと児童生徒と触れ合い、もっと直接的に子どもの役に立つ仕事をしたいと言っているのです。けなげなものじゃないですか。

【教師の仕事を減らしても、おそらく労働時間は減らない】

 おそらく教員から事務仕事を大きく減らしても、教師たちが働く時間はさほど変わらないと思われます。なぜかというと現在の超多忙な生活の中で、後回しにして結局やらずに済ませてしまっている仕事が山ほどあるからです。どうでもいい事務仕事(そういうものがあるとして)が大幅に減ったら、これまで心を痛めながら後回しにして来た仕事にさっそく手をつけます。
 その第一は教材研究。
 私の場合、中学校では社会科の教諭でしたが、常に消化不良の感じがあって、そこそこ満足できたのは研究会の授業者として行った授業くらいのものでした。さすがにあれだけの時間を使って《ロクでもない授業》ということはありません。そこまで行かないにしても、時間さえあればもっと質の高い授業はできたはずです。
 小学校の教諭としては、教材研究不足は目を覆いたくなるほどのものでした。あれは何とかしたい。

 他には《良い子の指導》を深めたい。難しい子、手のかかる子、不安な子、そうした子どもたちばかりに目を奪われ、時間を割かれ、良い子はいつもほったらかしでした。しかし《良い子》だって面倒を見てもらいたいのです。力を伸ばしてもらいたいのです。ゆとりがあったら、今度こそその《良い子》のためにもエネルギーも時間も割いてあげたいものです。
 内田先生には叱られるかもしれませんが、働き方の「改革」は必ずしも「時短」にはならないのです。教師は子どものためならいくらでも自分の時間やエネルギーを消費できる――。
 私が特別? 
 そんなことはないでしょう。私のような教員は山ほど、と言うよりは大多数がそうです。

【学校の教師は港の漁師と同じだ】

 大多数の教師は子どもが大好きで、子どものためなら何でもやってしまう――そんなきれいごとが嫌いな人のために、別の方面から同じ話をしましょう。
 
 私は他人の仕事にやたら興味が魅かれて羨ましがる反面、失礼ながら、どんな動機付けでその仕事が続けられるのかと、首を傾げることも少なくない人間です。例えば大病院の勤務医の気持ちはわかる気もするのですが、町の開業医の一部には「何が楽しくてやっているんだ?」と理解できない人がいます。自分が畑を持っているから農家の気持ちは理解できますが、漁師の気持ちは分かりません。釣りの楽しさは知っていますが、仕事となれば別でしょう。
 ところがあるとき、テレビのルポルタージュで一人のいかつい漁師が、
「俺はこの港で一番の漁師になる」
と言うのを聞いてストンと腑に落ちました。
 人は競争に弱いのです。
「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」
は、私がある種の人々を表現するときによく使う言葉ですが、そんな人はざらにいます。漁師だったら自分の暮らす港で一番になれば当然「誉められたい」と「すごいと言われたい」のふたつが同時に満足させられます。そのためなら大抵のことを我慢できます。それが漁師の動機付けです。

 学校の教師は漁協の漁師と非常によく似ています。根本は個人営業なのです。それぞれ自分の船と自分の教室の内部ですべてが完結しています。しかしより良く、より安全に仕事をするために学校あるいは漁協という組織に属しているのです。自分のクラスは自分のものですから、隣のクラスに見劣りするようでは敵いません。子どもだって人から羨まれるクラスだったら鼻が高いでしょう。授業も活動も(他より優れていなくてもいいですが)、レベルが低いとは言われたくない、できればすごいと言われたい――。そうなると、勤務時間を越えた労働もまるで苦にはならないのです。
 私が「教員の仕事を減らしても労働時間は減らないだろう」と考えるのも、調整手当に賛成(残業代に反対)するのも、そのためです。どっちみち、教師は果てしない時間外労働をやるに決まっているからです。それを労務管理とかで、管理職からいちいち制限されるのはいやなのです。
(この稿、続く)