カイト・カフェ

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「優しい日本人」~他人に親切にする理由は「特にない」が普通

 しばらく前のテレビ番組の中で、どの国の人間が一番優しいかという実験をやっていました。方法としては、胸に抱えた袋いっぱいのオレンジを躓いて路上にぶちまけてしまう、20回同じことをやってそのうち何回拾ってもらえるか、というものです。
 アメリカ人はなかなか親切で20回の実験中12回拾ってくれました。イタリア人はその上を行く15回で「オイ、オイ、注意しろよ」みたいなお説教を陽気に垂れるおじさんがいたりします。

 ところで日本の場合、何回拾ってもらえたと思います?
 そうです、推察の通り、20回中20回すべてなのです。おまけに外国の人がしばしば転がるオレンジを足で止めたのに対して、日本人は全員が腰をかがめて手で止めようとします。食べ物を大切にしようとする態度がしっかりと定着しているのです。

 その拾ってくれた人へのインタビューに、赤ん坊を背負った女の人は
「この子のことで見ず知らずのたくさんの人に世話をしてもらっていますし、この子(今度は横にいた少し大きき子)にとっても必要なことでしたので」
と答えていました。しかし別の男性は、
「いや、別に、ただからだが動いた」
 私はその答えの方が気に入りましたし、私もおそらく無意識にそうすると思いました。

「情けは人のためならず」という言葉があってかつては「情けをかけると結局その人の自立を妨げることになるから、できるだけしないほうがよい」の意だと誤解されましたが、現在では「情け(親切)は結局、回りまわって自分のところに戻ってくるから、決して他人のためのものではない」という本来の意味に戻っています。

 ただしこの正しい方が、私には「結局自分が儲かるのだから親切にしておけ」といった一種の功利主義のように思えて気に入らなかった時期がありました。親切の先行投資なんて不純ですし、そんなことを考えなくても十分に私たちは親切を発揮できるはずです・・・と、そんなふうに思っていたのです。

 しかし今回このオレンジの実験を見ながら別のことを思いました。「情けは人のためならず」は功利主義などではなく、単に社会のシステムを説明しただけのことではないかということです。世の中は、少なくともこの国では、そんなふうに「情け」がうまく機能しているのだよ、ということです。

 ただしその背景には別の事情もあるでしょう。それは転がってきたオレンジに手を伸ばしても泥棒だと思われない、拾い賃を要求される心配もない、そういう国に私たちは生きているということです。
*これと正反対のことも、私は経験しています。それはある急な土砂降りの午後のことです。車で走っていると若い女性がずぶぬれになりながら歩道を歩いました。本当にひどい雨だったのです。私の車の助手席には、他人にあげていいような安いビニル傘がおいてありました。しかし車を停めてそれを差し出すことができないのです。不審者と思われて相手を怯えさせるのではないかと思うとどうしてもできません。嫌な時代になったものだと思ったのはその時でした。