AIの専門家の描いた 耐えがたいほど暗黒な未来
しかし私はそうならないと思う
科学は思ったほど進歩しない
世界は100年たっても案外変わらない
人間はAIが決して搭載することのない特殊能力をつかって
1000年たっても生き生きと生きて行くだろう
というお話。
昨日紹介した「文芸春秋」の「AIと日本人」で話をされていた川上量生(のぶお)ドワンゴCTOは、こんなことも言っておられました。
川上:ちょっと先の時代になると思いますが、AIを通じた他人とのコミュニケーション、あるいはAI自体とのコミュニケーションが必ず発達していくだろうなと考えています。たとえばSNS。これはいま人と人が繋がるツールですけど、最終的にはAIと繋がるものになる。SNSを使っている人の多くが感じていると思いますが、SNSを続けていると、人間とコミュニケーションを取るのに疲れてしまうんですよ。だからAIを伝言役にするかAIと友だちになる方がいい。AIの方が間違いなく性格が良いし、自分を特別扱いして褒めてくれる(笑)。
この方の非常に偏った人間観・人間関係観の現れた部分です。
確かにSNS疲れというのはあります。しかしだからといってAIと友だちになる方がいいはずがありません。自分を特別扱いして褒めてくれる存在だけが友だちではないからです。
そう言うともしかしたら、
「いや、必ずしも誉めるだけではない。AIはキミの体調や表情を見てそのとき最も正しい反応をするはずだ。例えば15%の否定、3%の皮肉、といったふうにね」
仮にそうだとしても、相手はAIだと人間が承知している限りはダメでしょう。バーやクラブで超一流のホステスさんに相手をしてもらっているのと同じだからです。「気持ちよく対応してもらえるのはお金を払っているから」が「AIだから」に代わるだけです。
AIが人間に取って代わることはなく、人類がバージョン2・0に変わることはないと私は思います。それには理由があります。
【科学は案外進歩しない】
1952年に連載の始まった鉄腕アトムの誕生日は2003年4月7日です。
1969年の映画「2001年宇宙の旅」で主人公のひとりは、パンアメリカン航空(1992年に破産した航空会社)の宇宙旅客機で月に向かっています。
1984年の「ターミネーター」では殺人ロボットが未来から現代(1984)に送られてきますが、その未来というのは2029年のことです。
アトムの誕生日も2001年も過ぎてしまいましたが映画のようにはなりませんでした。2029年はまだ先ですが、いまから10年後にシュワルツネッガーと見まごうロボットが闊歩しているだろうと考える人はいないでしょう。
「2001年~」と同じ1969年に始まった「ドラえもん」の誕生日は、22世紀(2112年9月3日)というずっと先の設定ですが、今から100年足らずであんなものができると信じることもかなり困難です。
なぜこんなトンチンカンな未来になったのか。
おそらく1969年の7月にアポロ11号の探査船が月面に着陸したとき、私たちは見誤ったのです。ソ連のガガーリンが初の宇宙飛行士となってわずか8年で月に行けたのです。背広で搭乗する宇宙旅行など簡単に実現すると思い込みました。
しかし現実は違います。一般人の宇宙旅行なんて夢のまた夢。おそらく今世紀が終わっても実現しません。
その必要がないからです。
アメリカにとって月面着陸が必要だったのは、初の人工衛星も初の宇宙飛行士も持って行ってしまったソ連に対し、優位を誇示する必要があったからです。ただ一点、威信のためだけの壮大な科学実験だったのです。
もちろんメンツだけではなく、それによってアメリカ国民の団結や誇り・自信を高めるとか、来るべき新時代に向けて技術力を高めるとかいった目的もありましたが、主目標はあくまでも優位性の誇示です。
だから達成されてしまったら、それ以上の開発意欲はなくなってしまうのです。
川上量生氏の考えるような世界が実現しないと考えるのも同じ理由です。
大型テレビジョンがあって音楽用ステレオセットがあって、部屋に飾る花やポスターがあるというのに、なぜそれをVRに置き換えなければならないのか、理由がありません。
ルーブル博物館の見学をしたければパリに行けばいいのです。行くだけの気力や金がなければテレビやDVDで我慢すればいい。
さらにSNSで心地よい対話をしたければ、AIに頼るのではなく、もっと簡単な方法があります。
第一に友だちを選ぶこと、そして自分自身がコミュニケーション能力を高めることです。
【AIは可能性を計測できない。】
また、AIは過去のデータから可能性を割り出す道具ですから、前例のないケースについては計測を誤ります。
例えば通知票に、
「遅刻の常習犯です。とにかくいろいろな物をなくします。だらしなさは完璧です。私にはどうしたらいいか分かりません」
と書かれたウエストン・チャーチルや、
「間違いなく失敗に向かっている。クラスの道化で、他の生徒の時間を浪費させている。絶望的」
と書かれたジョン・レノン。
「科学者になりたがっているがいまの成績では話にならない。習う人と教える人ともに時間の浪費」
と評されたのは京大の山中伸弥先生と一緒にノーベル賞をとったケンブリッジ大学のジョン・ガードン教授です。イートン校の生物学教室では250人中250位の成績でした。
もちろん3例とも教師が見誤った事例ですから人間の方が優秀という訳ではありません。しかし人間のつくるシステムはあちこちに穴がありますから一度見捨てられた彼らも出てこられるのです。AIの合理性のもとでは、チャーチルもレノンもガードン教授も出る幕はありません。
2002年ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの受賞理由は1985年の「ソフトレーザーによる質量分析技術の開発」というものです。それ以後ノーベル賞受賞の2002年はもちろん、2011年に「一滴の血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出する」という研究を発表するまで四半世紀も、これといった成果を出していません。
これなどもAIの人事システムでは真っ先に弾かれてしまう。漠然とした期待、ノーベル賞受賞者を放擲してしまったら何を言われるか分からないといった非合理な理由、田中じゃしょうがないかぁといった情実、そういうものがあって初めて画期的な発明はできたのです。
そもそも田中さんの発見は一度目はミス、二度目は副産物の抽出というところから始まっているのです。これはAIのアルゴリズムに入って来ないでしょう。
私たち人間はそういうことを知っています。そして知っている以上、AIの判断は参考にするにしても、採用や人事から手を引くことはないのです。
【グリーン・フィールズ—美しい自然がある】
SF映画を観ていて思うことのひとつは、宇宙や都市の風景はしょっちゅう出てくるのに、地球の田舎の風景となるとほとんど出て来ないということです。
私はけれど100年たっても200年たっても、田舎の風景は現在とほとんど変わりないと思っています。なぜならこれも変える必要がないからです。
砂漠の一部を緑地化することに成功したり、温暖化のために国土が海に沈んだり凍土地帯が農地になったりといったことは部分的にはあっても、山脈が切り崩されたり大きな湖が埋め立てられたりすることは、よほどの理由のない限りめったに起こりません。
野菜や穀物のすべて工場でつくる時代は、映画「マトリックス」のように核戦争で地表が全部使えなくなるといった特別のことのない限り来ないでしょう。太陽と土と水がある限り、農作物は畑で作った方が楽だからです。
山も海も湖も、田も畑も、いまと大差ないまま、500年でも1000年でも続きます。
そう思ってみると人間と見まごう完璧な人型ロボットを描いた映画「A.I.」(2001)や「エクス・マキナ」(2014)の主人公たちは、それぞれ森の中や大山岳地帯に住んでいます。
それどころか「ブレードランナー」(1982)や「マイノリティ・レポート」(2002)の描く未来、2019年(なんと今年!)のロサンゼルスと2054年のワシントンD.C.は、大半の建物が20世紀の終わりと変わりなく、しかも内部の生活は現在とまったくと言っていいほど変わっていないのです。
【新技術は必ずしも古いものを淘汰しない】
バイクが発明されても自動車が普及しても、自転車はなくなりませんでした。ほぼすべての家庭にテレビが入るようになっても、ラジオ局はなくなるどころかむしろ増える傾向にあります。音楽も、アナログレコードやカセットテープが新たに売られる時代です。
さらに我が国に限って言えば、通信手段はインターネットやスマホだけでなく、固定電話もFAXも公衆電話も、郵便も電報も、それどころか普通の田舎では回覧板も掲示板も残っているのです。その方が便利で使い易いからです。用途も違います。
複数の通信手段があるということは、危機管理上、非常に有利です。
(参考)
我が家でも自動お掃除ロボットは埃をかぶってマキタの182が大活躍。。時計は置時計も含めてすべてアナログ表示です。
人間がそう簡単に進化しない以上、技術が人間に合わせるしかないのです。
私たちにはAIには絶対搭載されない特別の機能があるからです。
【AIには決して搭載されない特殊な人間の能力】
という真実は、権力者がエリートだった時代も、資本家がエリートだった時代も、そして来るべきAI勝者がエリートとなる時代にあっても、変わりありません。