カイト・カフェ

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「Erehwon―ディストピア・ジャパンの人類2・0」~21世紀のエレフォン 3

 早ければ2045年 遅くとも2060年には
 AIとベーシックインカム導入で 働かなくてもいい社会が来る
 人々は簡素な部屋に住み VRのヘッドセットをつけて仮想の豊かさを楽しむ
 人間よりもAIの方が正しい判断をしてくれるため 人間は肉体を捨て
 人類2・0になるらしい
文芸春秋」はそう言っている、というお話。f:id:kite-cafe:20190220181521j:plain

【その前に、だから中国は面白い、だから社会科学は面白い】

 昨日の、
「中国は全体主義化を深める、中国人民は生活の利便性と交換にそれを受け入れるだろう、しかしそれは一面無理のないことである」

という話は、一昨日書いて予約投稿したものです。ところがそのあとJBpressにバブル崩壊後の日本がマシに見える中国のこれから~政治体制はそのまま、悲惨なディストピア時代へ」という記事が出て考えさせられました。

jbpress.ismedia.jp

 中国の経済発展と日本の発展はよく似ている。(1)官僚主導、(2)低賃金労働を武器にした輸出主導、(3)技術を盗んだと欧米から非難されたこと(中国は日本からも非難された)、(4)末期に不動産バブルや過剰融資、それに伴う金融不安が問題になったこと、(5)いずれ米国を抜いて世界最大の経済大国になると言われたことまで、そっくりである。
 崩壊すると言われながら長い間崩壊しなかった中国経済がついに崩壊し始めた。一時は、「中国崩壊説の崩壊」などと揶揄されていたが、やはり不自然なことはどこかで限界に突き当たる。
とあったからです。
 昨日の記事を書いたときの私の認識は、引用にある「崩壊すると言われながら長い間崩壊しなかった中国経済」は今後も崩壊しないというものそのままでしたので、かなりびっくりしました。

 オーウェルの「1984年」と中国の「2019年」の本質的な違いは、前者が“戦争”(実際にそれがあるかどうかは分からない)を理由に経済統制がかかっていて物資が乏しいのに対し、後者が世界第二位の豊かさを享受している点です。豊かで今後も発展性が見込めるから国民は満足している、しかしその豊かさが失われてしまえば、「1984年」の“オセアニア”と現代中国はまったく同じものになってしまうのです。
 考え方を変えなくてはなりません。
――と思っていたら昨日になって、同じJBpressに別の執筆者の中国経済が身につけた底力、逆風下でも安定成長継続~悲観的に報道したいメディアとの間で大きな溝が顕在化」という記事が載りました。

jbpress.ismedia.jp  何をどう考えたらいいのか分かりません。
 とりあえず、「だから中国は面白い、だから社会科学は面白い」ということにしておきましょう。
 さて、


AIが人を測る】

 昨日少しお話しした、「文芸春秋」今月号の「AIと日本人 50年後“AI人間”が生まれる」は、三人の気鋭の、若手AI研究者による対談です。
 三人というのは川上量生(のぶお)ドワンゴCTO、松尾豊東京大学特任准教授、井上智駒沢大学准教授。
 三人はまず「AI」と総称される3分野(IT、ビッグデータの活用、ディープラーニング)の中で、日本はディープラーニングにおいて遅れをとったという事実を指摘したあとで現状について語り、我が国におけるAIの可能性について話を始めます。
 中でも私は川上氏の発言に興味を持ちました。例えば次に引用するような部分について、普通の人はどんなふうに聞くのでしょう。
川上:僕が個人的にAIビジネスの本命ではないかと考えているのは、人事システムの標準化です。たとえば牛丼屋で最も効率がいい、時間単価がいい社員に対して、時給を「10円上げます」「30円上げます」と決める権限をAI人事システムに委ねてしまう。すると、その会社における最も効率のよい給与体系を、AI自身が自分で学習して作り上げることができる可能性があります。さらに「これは牛丼屋用」「これはファミレス用」とAI人事システムの標準規格に合わせてプラグインを作っていけばいいので、標準規格のまわりにSI会社がたくさんぶらさがるといった、これまでのビジネスの延長線上で分かりやすいモデルが作れそうです。
 それに対して井上氏が質問します。
井上:人事評価のデータはどのように取っていくのでしょうか。
川上:カメラによる画像でもいいですし、コールセンターなら受けた電話の数でもいいですし、レジなどの売上端末と個人を組付けるなど色々あると思います。重要なのはAIが個人のパフォーマンスを把握するためのデータにアクセスできることと、AIとなんらかの報酬を決定できる権限を組み合わせることです。そうすると、このシステムによって何パーセント人件費が削減できたか、売上があがったのかを可視化することができます。AIの導入に二の足を踏んでいる経営者たちも、利点が可視化されていれば、一気に使うようになると思いますよ。

 別の場面では、井上氏が
井上:先ほどの牛丼屋の例もそうですが、「HRテック」という、人事の分野にAIを導入するサービスが流行っています。その中に、採用面接のときAIに人の表情を画像認識させれば、応募者にどれぐらい仕事の意欲があるかも分かるという身も蓋もない話があります。人間の面接官が質問をするけれど、判断するのはAIカメラで、AIが採用・不採用を決めるということになる。これで果たしていいのかという気もして、ちょっと恐ろしくなります。
と水を向けると、 川上氏は即座に、
川上:良い悪いは別にして、その傾向は進んでいきますよね。
とにべもない――。松尾氏も、
松尾:東京医科大学などの例によって、大学入試の人間による不正がバレてきましたし、「AIに決めてもらった方が公平だ」と皆が考えてしまうかもしれません。
と、危惧なのか当為なのかよく分からない発言を加えます。
 この人たちには具体的想像力というものがないのか――。

【非人間的な社会】

 かつてある数学者と文学者の対談で、文学者の方が、
「ボクなんか鶴亀算なんかで計算しようとすると、鶴や亀がジャマになって頭に入らないのです」
というと数学者がたちどころに、
「ボクには足しか見えません」
と返すやり取りを読んだことがありますが、理系の人間はしばしば生身の人間の存在を忘れてしまうのかもしれません。

 人事評価や採用面接をAIにやらせようとするとき、正確を期そうとすれば大量のデータ採取が必要になります。何台ものカメラ、声や息遣いを測るマイクとセンサー、体温の変化を読み取る装置、やがて離れたところからでも脳波や発汗を測れるようになるのでその機械。
 そうした大量の装置に囲まれながら、採用面接を受けたり職場で働き続けたりする、そんなことができるのでしょうか? 
 もしそうした状況があるとすれば、それは私たちが何が何でも就職したい、働き続けたいと願うような超就職難になったときのことです。
 そして彼らは、日本の近未来は必ずそうなると予言するのです。

【人が働かなくていい時代】

井上:問題はAIが発達しても、さほど新しい職業が生まれにくいと予想されていることです。第一次、第二次産業革命では職を奪われた人が産業革命によって生まれた新しい職に就き、労働者全体の所得も上がっていきました。しかし、IT革命のときは違いました。アメリカでITに職業を奪われた人たちは何の職業に就いたかというと、清掃員や介護スタッフになったのです。むしろ古い産業に移り、所得も下がった。AI革命で起こることも、恐らく一緒ではないでしょうか。
(中略)
川上:多くの職業がAIに置換されていく以上、一定の政府の関与は絶対に必要ですよ。政府が全国民に対して最低限の生活を送るのに必要な現金を定期的に支給するベーシックインカムはやらざるを得ないと思います。究極的には、VR空間に住む時代がくれば、食べ物と住むところと電気代以外のお金をほとんど使わずに暮らせます。遅くとも五十年後にはありうる社会です。
井上:私もAIとベーシックインカム導入で働かなくてもいい社会が、早ければ2045年、遅くとも2060年には来ると予想します。

VR空間」の部分についてはすこし補足が必要です。というのは川上氏はすこし前のところでこんなことを言っていたからです。
川上: 身の回りのことを「AIを搭載したロボットに全てやってもらいたい」という考え方がありますね。それはそれで一つの未来像だとは思いますが、人間がみなヘッドセットを付けてVR(仮想現実)空間で生活をし始めたら、片づけは不要になります。もしかしたらVR生活の方が、人間並みに繊細な片づけのできるロボットを工学的に開発するよりも早く実現するかもしれませんよ。
 能力があって仕事のある人間は仕事をすればいい。けれど能力のない人間は政府の支給する最低限の生活費(ベーシックインカム)を受け取って“働かない生活”を送るしかない。
 大丈夫。未来の生活は金がかからない。
 VRのヘッドセットを被り、一日中テレビを見たり仮想現実の登山を楽しんだり、ルーブル博物館の見学をしたりアカプルコに遊んだりして暮らせばいい。 しかしどうしても生活向上を図りたかったら、大量のカメラやセンサーに囲まれた職場で人事評価を受ける生活を送るしかない。それを受け入れよ――ということです。

【人類2・0】

川上氏はそのとき、人間そのものが変わってしまうとさえ言います。
川上:そうです。人間の定義が変わってしまう。おそらく人間の機能はどんどん外部化されていきます。これからAIが発達すると、人間が自分で考えて話すよりも、AIの意見をコピペして話したほうが知性的な人間だと思われる社会になっていくでしょう。すると人間の肉体と別の場所に知能がある方が便がいいわけです。どこかの段階で人類は、いまの肉体を捨て始める可能性がある。遺伝子組み換えをするのに抵抗感がなくなる、サイボーグにするのに抵抗感がなくなる……

 私は昨日、中国や統一朝鮮では絶対主義の下、管理された平和を楽しむ人々が奇妙な道徳国家をつくるだろうと言いました。しかしそれでも彼らは“人間”でした。
 しかし日本海を挟んだこちら側では、遅くても50年後くらいから、日本人は人間であることをやめ始めるかもしれないというのです。
*「エレフォン」は副題に「倒錯したユートピア」と添えられたサミュエル・バトラーの小説です。日本語版は絶版のため私も読んだことはありません。ギリシャ語の「ユートピア」の英訳「No where」をうしろから読んだアナグラム。いわゆるディストピアのことです。 

(この稿、次回最終)