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「欧米人は基本的にAIが怖いらしい」~私はChatGPTに取って代わられないだけの文章を書いて来たのか⑤

 政府の国際会議でもChatGPTが話題になるらしいが、
 あれって、それほど恐ろしいものだろうか?
 どうやら欧米人はAIが怖いらしい。
 私たちはそれに巻き込まれず、きちんと向き合っていけばいい。
 という話。(写真:フォトAC)

【欧米人は基本的にAIが怖いらしい】

 明日29日から群馬県高崎で開催される「G7群馬高崎デジタル・技術大臣会合」、さらには来月19日から広島市で開催さる「G7サミット」でも、ChatGPTなどの生成系AIについて議論される見通しだそうです。たいへんな騒ぎですが、昨日も申し上げた通り、私はChatGPTにそこまで大きな価値・影響力があるのか、よく分からなくなっています。
 今のところ大学生がレポート作成に使ってしまうとか、懸賞作文にAI作成の作品が応募されてしまうとか、個人情報保護の観点から心配だとかさまざまに言われていますが、どれもこれも対応可能なものばかりのような気がします。ChatGPTなど生成系AIの何が不安なのでしょう?
 そこで思い出すのがAIをテーマとした多くの映画です。

 思えば「2001年宇宙の旅」は狂ったコンピュータ「Hall2000」が宇宙船の船員を殺す物語でしたし、「ターミネーター」は自我を持った軍事用コンピュータ・システム「スカイネット」が人類を滅ぼそうとするものでした。「マトリックス」ではすでにコンピュータが世界を支配していて人間の肉体を電源に稼働しており、コンピュータではありませんが「ブレード・ランナー」では、苛酷労働用人造人間レプリカントが自らの作成者を殺しに戻って来ます。
アイロボット」でも「エクス・マキナ」でも、AIを搭載したロボットは主人を殺さざるを得ません。基本的にAI(およびAI搭載ロボット)は、人類の友だちにはなれないのです。

 これについて「日本人にロボットと言えば思い出すのは鉄腕アトムで友だちだが、欧米人がロボットと聞いて思い浮かべるのはフランケンシュタインの怪物で、恐怖が先に立つ」という説明を聞いたことがあります。
 その説が正しいかどうかは別にして、いずれにしろ欧米ではAIを何か得体のしれないものとして非常に警戒しているようなのです。

鉄腕アトムもChatGTPも、ひとの手を借りて成長する】

 AIもしくはAIロボットが怖いのは、それが私たちに見えないところで独自の進化を遂げ、未知のものへと成長しているかもしれないと考えるからかもしれません。「2001年~」のHall2000や「エクス・マキナ」のエヴァの異変も、早く気づいて対応していたら大事には至らなかったのです。人間がずっと監視していれば良かったようなものですが、しかし実際問題として、AIが人間の関与を離れ、独自に進化するなど、ありえるのでしょうか? 
 
 鉄腕アトムは天馬博士によってつくられ、基本的な養育と教育を丁寧に施されました。事情があって棄てられた後は、お茶の水博士という稀有な好々爺に情操を育てられることになり、人間に近い心を持つに至ります。つまりアトムの電子頭脳は、二人の「人間」によって育てられたのであり、自己教育で完結していたわけではありません。人間が関与して重要な部分を担っていたからこそ、成長も早く確実だったのです。

 ChatGTPも同じです。
 ChatGTPは開発の第一ステップで「人間がつくった問題を人間が解く様子」を山ほど学習します。「言語による応答というのはこういうものだ」と覚えていくのです。
 第二のステップではChatGPT自身が質問に対する答えを作成しますが、その答えが妥当かどうか、妥当だとしてどの程度のレベルなのか、それを評価し判定したのはすべて「人間」でした。
 第三ステップの現在はこうした「評価」もAI自身が行うようにしています。しかしそのとき頼りにするのがやはり「人間」からのフィードバックなのです。ChatGTPの利用者からクレームや訂正、あるいは無視や利用の状況を分析しながら、ChatGTPは正しい回答の蓄積を続けるわけです。
 生成系AI(その中の少なくともChatGPT)は、成長及び存在の過程での人間の介在が不可欠です。人間の介入を排除した時点で生成AIは成長を止めてしまうわけで、したがっていつまでたっても人間の制御下を離れることはありません。

【ChatGPTとどう付き合うか】

 大学生がChatGPTを使ってレポートを提出するとか懸賞作文に応募されてしまうというレベルの問題なら、さして気にしなくて良いでしょう。
 問題解決の方法はいくつもあって、例えばその作品に生成系AIがどの程度関与したかを分析する「判定プログラム」はすぐにも公開されるでしょうし、ChatGPTが普及すればそんなものを使わなくても、作品の優劣ははっきりします。
 背比べで、同じクラスの中に下駄を履く者が数名だったら不公平ですが、全員がChatGPTという同じ高さの下駄を履けば、身長差は本来もってものと同じになってしまいます。さらに生成系AIを駆使して標準的な下駄を大きく上回る作品を仕上げてくる学生がいたとしたら、それはもう才能として認めざるを得ません。
 もちろんそんな優秀な学生には、
「AIと格闘する暇があったら自分で書きなさい、優秀なのだからその方がよほど早く仕上がりますよ」 
と助言することは必要かもしれませんが。

 インターネットが普及し始めたとき、今ほどコンピュータウィルスやネット詐欺の危険に気を遣う時代が来るとは全く思ってもみませんでした。ブログやSNSが急激な広がりを見せたころも、
「これで世界の人々がひとつになり、誤解や思い込みを解いて統一的で平和な世界を築けるようになる」
 そんなふうに思い込んだものです。まさかネットに分断を助長する機能があるとは思いませんでした。けれどだからと言って、インターネットを遮断し、SNSから手を引く理由にはなりません。
 
 ChatGPTにも有効でなすべき対応の仕方があるはずで、私たちは一刻も早くそれに慣れていくしかないのです。