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『1970年代と小劇場(アングラ)演劇の人々』~2025年秋ドラマのここがすごい②

 『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』
 このドラマの風景には既視感がある。
 薄暗い1970年代が終わり、バブルへの道筋が見える。
 心がざわざわ浮き立ち、何かを待つ気配がする、
――という話。
(写真:フォトAC)

【もしがく:『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』】

 『ザ・ロイヤルファミリー』は意外な低視聴率と言っても秋の民放ドラマとしては第1位の10.35%だそうです。それに対して『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(略称『もしがく』)の平均視聴率はわずか4.26%、最新である10月29日の第5話は3.8%という体たらくです。
 脚本は今や巨匠と言っていい三谷幸喜。主演は菅田将暉、共演:二階堂ふみ神木隆之介浜辺美波。続けてアンミカ、秋元才加野間口徹、さらにはシルビア・グラブ菊地凛子小池栄子市原隼人坂東彌十郎小林薫といったオール・スター・キャストです。加えて主題歌はYOASOBIの『劇場』となれば、これで失敗していいはずはありません。
 NHK大河ドラマ並みとは言いませんが、金も時間もたっぷりかけて“三谷幸喜25年ぶりの民放ゴールデン帯ドラマ”を送り出したはずですが、とんだ大ゴケです。
 ただし私にはめちゃくちゃ面白い。

【舞台となった1984年】

 「もしがく」の舞台は1984年の渋谷の架空の街『八分坂(はちふんざか)』です。
 前年の1983年、日大芸術学部の学生だった三谷幸喜は劇団『東京サンシャインボーイズ』を結成すると同時に渡辺プロダクション放送作家としての活動も始めます。東京サンシャインボーイズはまもなく「チケットの取れない劇団」として有名になるほどに成功し、三谷自身は放送作家としても『欽ドン!』や『お笑いマンガ道場』などの番組構成に携わったり、テレビアニメの『サザエさん』でも若手ライターの一人として参加したりと、瞬く間に演劇界の寵児となっていきます。1984年はまさに三谷が満を持して社会に躍り出た年です。

 その同じ1984年、夢破れて失意のまま東京を離れ、田舎で中学校の教師になろうとしている男がいました。私です。ちょうど今と同じような状況で、教師になるのがとても簡単な時代でした。私の退場と三谷の入場が偶然、重なったわけです。そうした意味で、私にとって1984年は特別な年であり、当時のことは記憶に深く刻まれています。

【「もしがく」前史:1970年代の超インフレと就職難】

 私が東京で過ごした12年間(1972年~1984年)は、ほぼ高度経済成長(1955年~1973年)バブル経済(1986年~1991年)のはざまにあり、オイルショック(1973年と1979年の2回)の後の凄まじいインフレと深刻な就職難の時代でした。

 インフレについて言えば、私が東京に出た1972年は銭湯の入浴料が60円、文庫本は1冊180円、牛乳も1?80円程度でしたが、わずか3年後の1975年ごろにはそれぞれ100円、280円、130円へと値上がりしていました。さらに5年後、第二次オイルショックのあとの1980年ごろには、銭湯の入浴料が150円、文庫本は360円(ものによっては500円越え)、牛乳は160円へと値上がりしていたのです。1972年の4月には家からの仕送り1万2000円から家賃7000円を払い、残りの5000円で一か月の生活ができたのが、10年後には12万円の月給で足りませんでした。

 大学を終えての就活はまさに就職氷河期(超氷河期とは異なる)で、案の定、私のようなボーっとした人間は戦線から弾き出され、アルバイトの延長で塾講師になるしかありませんでした。正規に就職した人も少なくありませんでしたが、多くがアルバイトで食いつなぐ生活を強いられたのです。時代が変わればまた良い就職もできるさ、といった誤解もありました。

 ただしこのインフレと就職難の12年間を、別の文脈で読み解いていた人たちもいました。代表的なのは小劇場(アングラ)演劇の第二世代と呼ばれる人々で、彼らは最初から社会に背を向け、どんなに貧しくとも演劇一本で生きて行こうと決心していたのです。代表的なところで言えば、つかこうへい(つかこうへい事務所)、渡辺えり子(劇団300〈さんじゅうまる〉)、野田秀樹(夢の遊民社)、如月小春(NOISE)といった主催者に率いられた面々です。
 また、いわゆる小劇場(アングラ)演劇とは趣向を異にしていますが、舞踏派と呼ばれる舞踊専門の集団もあって、中でも土方巽暗黒舞踏創始者)や麿赤兒(まろあかじ:「大駱駝艦〈だいらくだかん〉」)などに率いられた人々は異彩を放っていました。ちなみにこの麿赤児の二番目のお子さんが俳優の大森南朋です。

【小劇(アングラ)演劇の人々】

 この世代の特徴は、第一世代の「身体性・政治性・詩性」を継承しつつ、より都市的・言語的・大衆的な表現へと展開した点だと言われています。激しい動きとリズミカルなせりふ回し、観客参加型演劇を含む開放性、都会的で消費社会・情報社会の到来を予感させる雰囲気、それが特徴だという説明もできるかもしれません。

 さらに第二世代も後半(1980年代)になると激しい政治性・反体制性は影を潜め、いつでも商業ベースに乗って「儲かる劇団」になれる準備は整い、実際に食える人々も増えてきます。当時つきあいのあった小劇場俳優のひとりはこんなふうに言っていました。
「公演期間中のバイトをしなくて済むようになった。劇団収入と蓄えで何とか一か月生活できるから、地方公演もできるようになった。芝居は何をやっても連日満員。例えばオレが貧乏人の役どころで、道端に座り込んでじっとしているとするよな。そこにハエが飛んできたので腹をすかしたオレは指でぱっと捕まえて口に入れ、うまそうに食べる、それで大ウケなんだ。今の客は役者を甘やかす。このままだと食えるが芝居の腐る時代が来る。もうすぐ小劇場(アングラ)もダメになる」

 それまでの小劇場の人々の生活は、大雑把に言って、一か月、死ぬ物狂いで掛け持ちバイトをやって生活費を稼ぎ出し、次の一か月はバイトをしながら稽古を積んで、最後の一か月間、公演をしながら可能ならバイトもするということの繰り返しでした。正規雇用どころかきちんとしたバイトにも就けず、収入は一貫して不安定でした。それが公演の期間に限って、バイトをしなくても済むようになり、やがて芝居だけでもかろうじて食べられるようになった――それが1984年ごろ、三谷幸喜が世に出た時期の小劇場の状況だったのです。
 つまりレールは敷かれていた――しかし「もしがく(『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』)との兼ね合いで、三谷幸喜の時代を話すなら、もう二つの要素についても調べておく必要があります。それはシェイクスピアとストリップです。
 (この稿、続く)