『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』
このドラマが描く1984年は、
舞台芸術にとって画期的な年だった。
ここでいう舞台とは、小劇場とストリップ劇場のことだが、
――という話。
(写真:フォトAC)
【大根役者とハム役者】
大根にはアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼなどの消化酵素が豊富に含まれていますが、これらは熱に弱いため、大根おろしにして他の料理と一緒に食べると、まず食中毒になることはないと言います。
「大根は何と一緒に食べても当たらない」→「大根は当たらない」、そこから何を演じてもまったく当たらないヘボ役者のことを「大根役者」と言うのだそうです。
では欧米では同様の下手な役者のことをなんというかというと、これが「ハム役者(ham actor)」なのです。
「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」というシェイクスピアの『ハムレット』の一場面は、いかにも目立ちたがり屋の素人がやりそうで、だから「ハムレット役者」、縮めて「ham actor」というのだと聞いたことがあります。ただし語源としては、『ハムレット』にある劇中劇の大仰な芝居が由来だとか、食品のハムの脂身のようにベタベタした演技という比喩からきているとか、さまざまな説があるようです。
欧米においてシェイクスピアは庶民のもの、日常のものです。英語からシェイクスピアと聖書の慣用句・成句をなくせば、2~3割が失われると言われえるほどです*1。しかし日本国内では明治の初演以来、シェイクスピアは本場イギリスの由緒ある演劇として丁重に扱われるのが常でした。大げさな舞台装置、史実に忠実な大げさな衣装。それが画期的な変化を遂げるには1970年代後半から1980年代にかけて起こった二つの大きな事件がかかわっています。
【ジーパン・シェイクスピアとNINAGAWAマクベス】
ひとつは1975年から始まった出口典夫主催「劇団シェイクスピア・シアター」によるシェイクスピア全37作の連続上演です。翻訳は小田島雄志が担当。渋谷の小劇場ジァン・ジァンを拠点に1981年までに7年間かかって達成しました。
世界初の試みと言われましたが、影響は全作上演という事実よりも、その演出方法にありました。中世にふさわしい衣装や舞台装置、厳かなせりふ回しが常識だったシェイクスピアを、「ジーパン・シェイクスピア」と呼ばれる現代的な衣装と、口語体のセリフを、聞き取れないほどの早口でまくし立てる手法は、多くの演劇人に衝撃を与えるもので、今でも小劇場の伝統として引き継がれています。
もう一つは1980年にロンドンで上演された蜷川幸雄による『マクベス』、いわゆる『NINAGAWAマクベス』です。舞台をヨーロッパから日本の安土桃山時代に移し、西欧の悲劇を日本的生死観・輪廻観で再構成したものとされ、舞台の中央には巨大な仏壇が置かれてその中で物語が進められるなど、世界の度肝を抜いた演出だったと言われています。
どちらも私の在京時代に起こった出来事で、事実としては知っていたのです。ただしそれは「渋谷の小劇場で衣装も用意できない貧乏劇団が普段着でシェイクスピアをやっているらしい」とか、NINAGAWAマクベスは逆に「商業演劇の頂点で行われていることで、私には関係ない世界だ」と思い込んでいたのです。当時のブームでさまざまな小劇団の芝居にシェイクスピアが入り込んでいることについても、「やはり17世紀のイギリスの劇作家の影響力はすごいものだ」と、的外れな感心をしたりしていたのです。
日本における1970年代後半から1980年代にかけてシェイクスピアの存在意義を知ると、あの時期の小劇場の人々が何をしたかったのかよくわかります。テレビドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(略称『もしがく』)の中で演出家の久部三成(菅田将暉)がシェイクスピアの『夏の夜の夢』にこだわり、舞台に大きな蚊取り線香を持ち出すのも、そうした背景を知ればよく理解できるところです。
【1970年代のストリップティーズ】
『もしがく』では主人公の演出家、久部三成が廃業直前のストリップ劇場を借り切ってシェイクスピアを上演しようとします。演目は『夏の夜の夢』です。そのとき(何の意味か分かりませんが)大きな蚊取り線香の造形物を置く場所が、ストリップ劇場に特徴的な舞台部分である通称「でべそ」です。観客席の中央にある丸いステージで、そこから奥に向かって続く渡り廊下で、正面のステージとつながっています。
踊り子たちは1曲目を正面のステージで踊り、2曲目は正面ステージから踊りながら「でべそ」まで出てきて、そこで衣装を一枚一枚脱ぐ、というのが基本的な趣向でした。ところが1970年代に入ったある時期から、3曲目がかかるようになったのです。
3曲目は露骨な性的サービスの時間でした。踊り子たちは正面ステージで1曲目を着衣のまま、2曲目は脱ぎながら踊った後で、「でべそ」に出てきて性器を晒し、やがてカップルで登場して性行為そのものを見せたり、小劇場よろしく観客参加型となって観客をステージに上げて性行為を行ったりと、過激にエスカレートしていきます。この新しい趣向はしばらくのあいだ地方の劇場に留まっていましたが、やがて都会に迫り、ほどなく全国的なものとなっていきます。
令和の今、YoutubeやFaceBookに昔のテレビバラエティの一部分が載せられ、昭和がいかに自堕落であったかと呆れられています*2が、地上波テレビですらああですから、市井の風俗産業の退廃は言うに及ばないのです。
【1984年:一時代の終わり】
1984年、そんな風俗産業に決定的なメスが入れられます。いわゆる風営法の改正です。法律名も「風俗営業取締法」から「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」へと変えられ、キャバレー・バー・パチンコ・ゲームセンターなどを営業形態別に分類して、広く法網を掛けることになったのです。
ストリップ劇場も「性風俗関連特殊営業」という枠に入れられ、強い規制の下に置かれました。特に”学校・図書館・児童福祉施設などから200メートル以内では営業できない”とする「営業禁止区域」の設定は、都市部の多くの劇場を立地的な違法状態に追い込むことになり、新規開業はほぼ不可能。既存店舗も「既得権」によって辛うじて存続するのみになります。
露骨な性表現が禁止されて舞踊性や演劇性が強調されるようになり、劇場の目玉となって過激なサービスもできなくなります。観客は激減。劇場は次々と廃業に追い込まれていきました。もっともAVやビデオボックス*3の普及によってストリップ劇場の集客力自体も落ちていましたから、その意味でも限界だったのでしょう。
ドラマ「もしがく」で舞台となるストリップ劇場が《今月いっぱいで廃業》という設定になっているのはそのためです。
【芸術と修業の場としてのストリップ劇場】
ただ、ここで厳しく強調しておきたいことは、ストリップ劇場が踊りを見せるようになった1948年から、全盛期には300~400軒もあった劇場がわずか18軒に減った現在に至るまで、一貫して「踊りが好きだから踊り子になった」という一定数が――それもかなり大きな割合で存在したし、存在する、ということです。
昨日、私は「小劇場が乱立した1970年代、俳優たちは一か月間、掛け持ちバイトで稼ぐだけ稼ぎ、一か月稽古し、一か月公演を行った」と書きましたが、一部の女優にとってストリップは有力な収入源であり稽古の場でした。特に舞踏派の人たちは肉体表現を極限まで突き詰めていましたから、裸になることをいとわなかったのです。
劇場は収入と観客を保証してくれる格好の場で、彼女たちはそこで実に自由に生き生きと踊り、楽しみ、技術を磨いていたのです。
同じ場所では1950年代~1960年代に渥美清、南利明、八波むと志、谷幹一、東八郎、コント55号(萩本欽一・坂上二郎)、ツービート(ビートたけし、・ビートきよし)など(以上、浅草フランス座)が、1970年代以降にはコント赤信号(ラサール石井・渡辺正行・小宮孝泰)やモロ師岡ら(以上、渋谷道頓堀劇場)が、ストリップの幕間コントで芸人としての腕を磨いていました。
「もしがく」の”コントオブキングス(彗星フォルモン・王子はるお)”のモデルはコント山口君と竹田君(山口弘和・竹田高利)、神木隆之介が演じた新人放送作家・蓬莱省吾のモデルが三谷幸喜本人だそうです。
現在のストリップ劇場18軒はいずれも過激な性表現を捨て、芸術性の高い踊りで女性ファンも増やしているそうです。
(この稿、続く)