ブログの題材に困ると「今日は何の日??カレンダー」みたいなサイトに行って、その日の歴史的できごとについて、何か自分の知っていること、特別なことはないだろうかと調べ、文章をつくろうとしたりします。
心動かされるものがあれば、そこから文を捻ればいいわけです。
昨日もこれといったアイデアがなかったのあちらこちらを探し、Wikipediaの「7月13日」の項に、
「1995年 - ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: スレブレニツァの虐殺。ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァでスルプスカ共和国軍が推定8千人のボシュニャク人を殺害。第二次世界大戦以降では欧州最悪のジェノサイド」
という文を見つけてそこで立ち止まりました。
「第二次世界大戦以降では欧州最悪のジェノサイド」 という一節が気になったのです。
【旧ユーゴスラビアで起きたこと】
私がこの地域について知っていることは多くありません。けれど昔の地理の教科書に印象的な記述があって、そのため比較的表記の少ない東ヨーロッパの中ではかなり明確なイメージをもって覚えていました。それはかつてボスニア・ヘルツェゴビナも属したユーゴスラビアという国に関する次の記述です。
「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二種類の文字、そして一つの連邦国家」
“ヨーロッパには民族の集合体というべき国家がいくつもある”ということを、ユーゴスラビアに代表させて学習する場面でした。
ところが多民族国家の優等生のようにうまくやっていたユーゴスラビアは、1980年に英雄チトー大統領が亡くなるとあっという間にバラバラになり、血で血を洗う民族紛争に呑み込まれていったのです。
チトーは英雄でしたが一面で“独裁者”でもあり、相当な強権をもって国を押さえていたのです。
一口でユーゴスラビア紛争と総称されるこの地域の紛争は、細かく分けるとスロベニア紛争、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)、コソボ紛争、マケドニア紛争などに分けられ、とくにボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やコソボ紛争では国連も手を出せないほど混乱が深まり、「お互い、殺し合いに疲れるまでやらせるしかない」と言われるほどにまでなってしまいました。
私もいちおう社会科の教員でしたのでしばらくはニュースを追っていたのですが、民族構成があまりにも複雑で情勢の変化もすさまじかったので結局追い切れず、その中で「スレブレニツァの虐殺」も見落としてしまったようです。
もちろん、最も残酷で国際社会に見せられないことは巧みに隠された、という事情もあって、途中から何が何だか分からなくなってしまったから、ということもありました。
今回改めて「スレブレニツァの虐殺」について読む中で、やはりほんとうに切ない気持ち、地の底に沈みこむくらいのやる瀬ない気持ちになりました。
そこで行われたのが通常の紛争ではでなく「民族浄化」だったからです。
民族浄化というのは自分の属する民族を純粋にする、つまり他の民族を根絶やしにするということです。通常の紛争や戦争では相手を丸ごとなくしてしまうことなど考えたりはしませんが、民族浄化は“他民族のひとりたりとも残さない、全員殺す”が目標なのです。途中で留まることを知りません。
ユーゴスラビア紛争は人類の汚点であり、歴史の傷として残すべき出来事でした。
なぜなら私たちは途中で解決を諦めてしまい、人々が互いに殺し合うに任せてしまったからです。もちろん今でも世界中に紛争はありますが、ボスニアやコソボで起こったことはレベルが違っていて、私たちはほんとうに何もできず、何もせず、ただ放置したのです。私は「それしか方法がなかった」という考え方に賛同する立場にいますが、それでも歴史の傷、心の傷として残すべきことだと考えます。私たちは巨悪を放置したのです。
【子どもたちになんと言うのだ?】
現場の教員であったころ、私がもっとも苦手としたのは国際政治でした。国内政治だったら多少の不備はあるものの最後には必ず正義が通ると教えられるのに、国際政治ではそうならない、だから旧ユーゴスラビアで起きているようなことを生徒にうまく説明できないのです。
ナチスドイツのホロコーストや731部隊の人体実験などだったら「乗り越えてきた歴史」として教えられます。しかしいま目の前で起こっている不条理、不正、人権侵害、侵略、独裁、虐殺を説明するのはとても難しいのです。背後に「なぜ大人はそれを放置するのか」という質問が控えていて、それに応えられるような気がしなかったのです。
例えば、
昨日のニュースによると中国のノーベル平和賞受賞者:劉 暁波がいままさに死のうとしています。しかし死の床にあっても国を離れることができません。
トランプ大統領の長男が父親が“CNNジェット機”を撃墜するという加工動画をツイッターのアップしたそうです。その父親もこの前、頭にCNNテレビのロゴをつけた人物を殴り付ける動画を投稿していました。そういう人がアメリカ大統領なのです。
核ミサイルの開発を続ける北朝鮮を中国は抑えることをしません。圧力を加えても今度はロシアが代って援助したりします。
アメリカの一部と韓国大統領は“北”が核開発を凍結すれば話し合いに応じてもいいと言っています。しかし北朝鮮が抱えている問題はそれだけではないでしょう。一般市民がたいへんな人権弾圧に晒されているのです。それを放置して、核凍結だけ国際社会に暖かく迎え入れていいものでしょうか。
日本でも、拉致問題と核ミサイル問題が解決すればそれでいいといったふうがあります。
そういうすべてのことを、私たちはどう子どもに教えられるのか――。
情けないことですが私はいつもそういうことを巧みに避け、子どもに見つからないよう素早くかわしながら授業をすり抜けて来たような気がします。