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「英語を日本の準公用語にできるか」~日本の公用語について②

 標準語と方言とのせめぎ合いの末、日本は国内のどこへ行っても現地の人と普通に話せる公用語を獲得しました。方言の味深さが失われるのはいかがなものかという議論はありますが、統一言語を持っているということは大いなる幸せです。言語表現はすべて一つの言葉で済みますし、そのための社会的コストも最小で済みます。そして何よりも民族の統一性とか共感とかいう点で非常に有利です。同じ言語を持つことで、“同じ日本人”という言い方、感じ方がすんなり入ってきます。何といっても言語は民族の核心なのです。
 そんな日本にどうしても二つ以上の公用語を持ち込まなければならないとしたら、その一方は英語などではなく、選ばれるべきはおそらくアイヌ語です。アイヌ語母語として使用する人は10名以下と言われますが、何といってもアイヌ民族は日本国民ですから最優先で扱わなければなりません。

 いや、数はやはり大切だろうという話になれば、準公用語は中国語です。在留外国人で最も人数の多いのが中国人だからです。中国語は難しいからいやだ(四声もあるし漢字も多い)ということであれば次は韓国語でしょう。いかなる観点からも英語が準公用語として伸してくる理由はありません。

 もっとも英語を準公用語としたところで国民の犠牲は財政的な面に限られます。政府の広報は英文を加えて2倍の厚さになり、通訳や翻訳者が大量に必要になるにしてもそれは金で解決できる問題です。テレビ画面の下にいちいち英文のテロップが出るにしてもむしすればいいだけのことです。婚姻届けに日本語版と英語版の2種類出てきても、ほとんどの日本人は日本語版を利用するでしょうし、選挙の投票用紙も敢えて英語版を受け取る人は少ないでしょう。公用語・準公用語を選択的に使えるなら、普通は使い慣れている方を使うのが当たり前です。日本人の英語力高めるための準公用語というのは、さほどの意味を持つものではありません。そこで中西議員はさらに過激な提案をします。

「英語を準公用語にしては?」と問い質し安倍総理が「その考えはない」と返答した、そこまでは多くのマスコミで記事になりました。しかしそれに続く部分は報道されていません。そこで中西議員はこんなことを言ったのです。
「私は小学校で英語を学ぶのではなく、英語で授業を行うようにしたいと考えています」(大意)

 もちろん「英語ができなければ、子どもは算数も理科も学べない」となれば、親は必死で英語を学ばせるでしょう。豊かな家ではせめて6歳までは英米で生活させようとすることになります。家の中でも厳しく日本語が制限され、当然、英語力は高まりますが、それで日本人は幸せになるでしょうか。
 小学校の授業を原則的に英語で行う――国会議員とは恐ろしいことを考えるものだとあらためて考えさせられました。

 ただし、外国語を国民に強いる政策は、基本的に外国による占領下でしか行えません(日本に併合された韓国がその被害にあったように)。あるいはイスラム原理主義やオウムのような狂信的な政府・団体だけがなしうる業です。中西議員はいつの日か、自分が独裁者となって日本を英語国家にしようと考えているのかもしれません。

 以上、本気で考えているわけではありません。中西議員も深く考えずに話しているだけでしょう。しかし「本気で考えていないこと」「できもしないこと」を大切な国会の質問時間に行うこと自体が問題です。
 重要法案を山ほど抱えていながらいつまでも大臣の不明朗会計やら埒もない準公用語論で時間を空費している国会。私はすっかり嫌気がさしています。