カイト・カフェ

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「日本語の創造者たち」①〜日本語の統一

 国土を失ったユダヤ人が千数百年の時を経ても民族として生き残ることができたのはなぜか、という問いがあります。ユダヤ教を核心とする考え方もありますが、棄教した現イスラエル国民もいますから必ずしも宗教がすべてではありません。
 答えは「言語を失わなかったから」ということになります。

 これについて数学者の藤原正彦は、こんなふうに言っています。
 祖国とは国語である。ユダヤ民族は2000年以上も流浪しながら、ヘブライ語を失わなかったから、20世紀になって再び建国することができた。私には英米ユダヤ人の友達が多くいるが、ある者は子供の頃、家庭でヘブライ語で育てられ、ある者はイスラエルの大学や大学院へ留学し、ヘブライ語を修得した。ユダヤ人の国語に対する覚悟には圧倒される。(中略)
 それに比べ、言語を奪われた民族の運命は、琉球アイヌを見れば明らかである。

 祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。
【『祖国とは国語』藤原正彦講談社、2003年/新潮文庫、2005年)】

 その国語が、わが国で危機に瀕した時があった――10月7日のNHK「歴史ヒストリア」はそういう話でした。(「"日本語"を切り開いた"マンネン"な人びと」l)

 簡単に説明すると、

 明治新政府が始まってすぐに深刻な問題が浮上した。それは日本人同士で言葉が通じないということだ。全国各地から人が集まってくると、それぞれの“お国言葉”、“各階層・職業・男女等で異なる言葉”があり、互いの意思疎通ができない。特に軍などは「これでは指示命令が徹底しない」と深刻な危機感を持つにいたった。
 前島密は「日本語ひらがなか計画」ともいうべきものをつくって共通の言語、共通の表記を目指し、西周は「日本語ローマ字計画」を立てすべての表記をローマ字で行おうと考える。
 森有礼はさらに過激で、(どうせ日本人同士が会話できないのだからと思ったのか)「日本語英語化計画」ともいうべきものを考え、ただし英語はそれなりに厄介だから、例えば、見る「see」話す「speak」の過去形はそれぞれ「saw」「spoke」だがこれを「seed」「speaked」にするなどかなり具体的な考えを持つに至った。
 そこに登場してきたのが言語学者上田万年(うえだかずとし)、通称マンネン先生だった。
 彼はバラバラな日本語を標準語に統一し、日本語表記もできる限り一つのものにしようと考え、ヨーロッパ留学帰ると東京帝国大学教授となり、文部省における国語政策の重職を歴任して日本の標準語づくりに奔走する。彼が手本としたのはドイツの標準語作成だった。
 マンネン先生は東京の山の手で使われ始めていた(彼の言う)「教育ある東京人」の言葉を基礎としよう考え、言葉の一つひとつ採集して小学校の国語の教科書に反映し、授業や唱歌を通して広めようとした。
 特に教科書には心を砕き、例えば明治37年に定められた「尋常小学読本」1年生には挿絵をふんだんに入れ、絵と合わせて文字を一つひとつ覚えていくことができるようにした。。また「イ」の次に「エ」を学び、「シカ」「ヒト」を並べて学ぶ――これは東北地方の人たちが「イ」と「エ」を識別が難しく、東京の下町では「シ」と「ヒ」が混同されやすいことに配慮したもの――といった工夫にも余念なかった。
 そして毎時38年、夏目漱石が口語で「吾輩は猫である」を書いてベストセラーになり、それによって標準語は爆発的に全国に広がっていった――。

 そういうお話でした。
(番組のかなり詳しい要約が「じゅにあのTV視聴録」というブログにありましたので合わせてお読みください)

(この稿、続く)