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「日本の子どもは何を学んでいるのか」~PISA報道のまやかしと失望②

 科学や数学の分野で常に10位以内、しかもかなり上位の成績を残しているのに読解力だけは一段劣る、これだけ優秀な日本の教育システムが読解力の壁を乗り越えられないとしたら、そこには何らかの制度的あるいは民族的・国語的な制約があるからだ、いったい日本の子どもたちは国語の時間に何を学んでいるのか――。
 それが昨日のお話の最後の部分でした。しかし実は、これにはすでに答えがあるのです。ひとことで言えば、
「日本の子どもたちは国語の時間に、PISAが言うような“読解力”を学んでいない」
ということです。

 この説明のポイントは、「PISAが言うような“読解力”」です。これを「PISA型読解力」と言い、すでに11年前に定義づけられています(「読解力向上プログラム」平成17年12月文部科学省)。
 それによると、
 PISA型「読解力」は、次のように定義されている。
 自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力。

 PISA型「読解力」では、義務教育終了段階にある生徒が、文章のような「連続型テキスト」及び図表のような「非連続型テキスト」を幅広く読み、これらを広く学校内外の様々な状況に関連付けて、組み立て、展開し、意味を理解することをどの程度行えるかについて、可能な限り客観的にみることをねらいとしている。

 簡単に言ってしまうと、PISA型「読解力」は文章だけでなく、写真・図版・表・グラフなどを自己の経験や知識と照らし合わせ「読み」「解く」「力」で、さらにひとことで言ってしまうと、「資料の分析力と説明能力」ということです。
 従来の国語でやっていた小説や詩文の解釈といった意味は全くなく、それらはむしろ毛嫌いします。その点については「読解力向上プログラム」は学習指導要領との絡みで次のように説明します。
 学習指導要領国語では、言語の教育としての立場を重視し、特に文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えを持ち論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることが重視されており、これらはPISA型「読解力」と相通ずるものがある。
 つまり漱石がなんだ、紫式部がどうだと言ってる場合じゃネーダロ! これからのグローバル社会、大切なのは漱石や式部について語れることじゃなくて、資料を読みこなしきちんと説明し、戦える力だ”というわけです。

 そう考えると数学も科学もトップクラスである日本の子どもたちが、“読解力”でトップに立てない理由も理解できます。基本的に今でも文学へ傾斜が深すぎるのです。
 学校でも日常でも、事実を分析的論理的に語り討論において相手を打ち負かすことよりも、文学や詩歌を理解し心豊かに暮らせる子どもの方が好ましいと、私たちは思い込んでいるからです。

 日本の子どもは小さなころから「ひとに迷惑をかけてはいけません」「相手を思いやり、嫌な思いをさせないように」「勉強は自分のためにするものですよ」などと教えられて育ってきています。
「勝ちなさい」「相手が引き下がらない限りは、引いてはいけません」「勉強は社会を戦い抜き自分を売り込むための強力な武器です」、そう言われて育つ欧米の子どもたちとは基礎部分が違うのです。
 PISA型「読解力」で世界の頂点に立てないのはそうした日本人の感性に問題があるからで、したがってそこから叩き直さなくてはなりません。

 しかし、私は花鳥風月を愛し万葉や古今の理解できる人が好きです。
 日本人なら、
「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
と聞いて胸を締め付けられ、
「柔肌の 熱き血潮に触れもみで 悲しからずや 道を説く君」
と聞いて欲情さえ感じる人であってほしいと思う。
 古寺巡礼や鄙びた温泉宿に泊まることを好み、今後何十年たっても「千と千尋の神隠し」や「君の名は。」を生み出す文化を持っていたいと願うのです。

 数学者の藤原正彦は「国語こそ民族だ」という言い方をします。
 ユダヤ人が民族として再興できたのはヘブライ語を失わなかったからだ、逆に古代ローマは日常語としてのラテン語を失ってしまったから民族として再興できなかった――。
 ローマ文明は有史以来最高の文明と考えられ、現在も「ローマ的(ローマンチック)」は素晴らしいものの表現になっています。文学の深い理解の上に成り立つ日本語が西欧語に屈服するなら、半世紀もたたないうちに日本は現在の文化水準を失い、「日本的(ジャポニズム)」は日本人もあこがれる古代文明になってしまうかもしれません。

 (この稿、続く)