15年前のあの日、それに続く復興の日々、
私たちの周辺では様々なことが起こった。
そして日本人は変わった、あるいは変わらなかった。
それをこれからも見ていこう。
(写真:フォトAC)
【あんなに人が亡くなるとは思わなかった】
東日本大震災は私にとってずいぶんと予想やアテの外れた災害でした。
例えば3月11日の午後5時半ごろ、私は市内の大学病院の集中治療室廊下にいました。むかし関わりのあった子どもが意識不明で低体温治療を受けており、その家族を励ますのが目的でした。
大きな地震があって大津波が発生したことは知っていましたが、阪神・淡路大震災から16年、公共の建築物のほとんどは耐震工事を終えており、津波と言っても名うての津波常襲地である東北地方。田老町の巨大な防潮堤のことも知っていましたから、大した被害はないと思い込んでいたのです。被害者は、地震と津波を合わせて、多くても十数名。現実的な数字として5~6名というところかな? くらいに考えて、ニュースも見ずに計画通りの行動をとっていたのです。
まさかその瞬間、すでに1万8000人を超える命が失われているだの夢にも思いませんでした。東北地方の人たちがそこまで警報疲れしていたことも、田老町の巨大防潮堤が歯の立たない津波があるということも、まるで分かっていなかったのです。
【原子炉が危機に陥るはずはなかった】
地震当日の夜、すでに原子力発電所の危機に関する報道はありましたが、私は心配しませんでした。日本の科学技術と人々の優秀さ、誠実さを信じていたからです。危機的状況があっても二重三重四重の安全策があって、結局、回避されるのではないかと思い込んでいたのです。
けれど津波からほぼ24時間後の12日午後3時36分、福島第一原子力発電所一号機が爆発した瞬間、さすがの私も、「日本は終わった」と思いました。「終わった」の具体的なイメージはありませんでしたが、日本が世界から孤立することを考えたのです。
世界で初めての原爆被害を受けた国、世界で最初の水爆被害者を出した国、そして原発事故自体は世界初ではないものの、複数の原子炉が同時に危機に陥り、順次爆発していくという悪夢を経験しつつあるこの国の人々は、1945年のヒロシマ・ナガサキのように、差別され、排斥され、行き場を失うだろうと思ったのです。
しかし危機は回避されるだろうという予測も、国民そのものが差別されるだろうという予感も、双方外れました。
【トモダチ作戦と台湾】
もちろん部分的に忌避や排除はあったと思いますが、全体として日本は差別されることなく、それどころか世界中から膨大な支援と励ましを受けたのです。
中でもアメリカ合衆国は軍を総動員して被災地支援の最前線に立ち、とんでもない物量を現地に送り続けてくれました。いわゆる“トモダチ作戦”です。最悪の被災地の最前線まで支援物資をヘリコプターで運ぶ米兵の姿を、私は決して忘れないでしょう。しかし同じことが起こったとき、今のトランプ政権やMAGAの人々は“トモダチ作戦”を敢行することができるでしょうか? 災害に関しても“外国のことには関わるな”と言わずに済むでしょうか?
私の尊敬するアメリカは“エエカッコしい”のアメリカです。自国の利益のために同盟国を押しつぶすような国ではありません。これが私の「トランプ政権を強く憎む理由」です。
さらに、義援金と励ましの声は世界中から集まりましたが、中でも台湾は人口に不相応な額を集め、日本に送ってくれました。政府はしかし、中国に対する配慮から、台湾に十分な謝意を表すことができませんでした。
高市総理の言った「台湾が中国から武力攻撃を受ければ、日本の“存立危機事態”になり得る」は“台湾が中国に攻められたら、それは日本の国が存立するかどうかの危機だ(したがって米軍に合わせ、自衛隊も動かす可能性がある)”という意味で、決して“台湾が攻められたら助けに行きます”ということではありません。しかしだからと言って、 “台湾が攻められても何もしません”といったサインは絶対に出せない。それはあまりにも恩義に反します。
高市発言は、確かに総理の言葉としては不用意なものだったかもしれません。しかし実際に台湾が攻撃されるようなことがあった場合、国際情勢に縛られている政府の動きとは別に、国民として私たちに何ができるか、考えておく必要はあると思っています。
【震災を境に、日本人は鮮やかに生まれ変わるはずだった】
東日本大震災を経て、日本人は世の無常・人生の無常を感じるとともに、「絆」に対する渇きに似た望みを持つようになりました。「絆婚(きずなこん)」に代表される「大切な人と一緒にいたい」「家族という絆を持ちたい」という思いは、家族や親戚あるいは先輩・同僚・友人にまでひろがり、互いの関係のありかたを再認識して、そのものを組み直す傾向が強まりました。
家族で過ごす時間が増え、恋人同士が夫婦になったり同窓会が復活したり、あるいは新たな人間関係を取り結ぶなど、“絆”は新たな日本社会をつくりつつありました。
また、震災の中で再発見された日本人の美質は、外国人記者によって海外に発信され、逆輸入されることで、日本人の共通認識となりました。この国の人間である以上、ひとに対して恥ずかしいことはできない、ゴミは捨てられない、列は乱せない、街の中で、大声で話すことはできない――それは一面で社会道徳の強化でもありました。
昔の日本社会はもっと道徳的だったという人もいますが、冗談ではありません。第一回東京オリンピック(1963年)以前の東京なんてゴミ溜めみたいな都市でしたし、公害裁判で企業がことごとく敗訴する1970年代まで、国内はあちこち息もできないような暮らしをしていたのです。
日本人のお行儀がよくなったのは1980年以降のことです。中でも平成以降の30数年は特に人権意識が浸透し、東日本大震災の2011年以降は息苦しいほど道徳的な国になっていたのです。2020年以降、“絆”に代わって“ソーシャル・ディスタンス”が合言葉になり、“道徳的である”ことよりも“同調圧力に屈しない生き方”が尊重されるようになるまでは、の話ですが。
【震前派、震中・震後派】
2011年当時、私は未曽有の災害に対し、「震災前に人格形成を終えていた人」「震災と震災復興を生々しく見ながら育った人」「震災にも震災復興にも同時進行的な記憶のない人」のみっつの別ができるだろうと考え、それぞれ「震前派」「震中派」「震後派」と名付けました。震中派として想定したのは、「絆」を希求する気持ちが最も強く、社会的にも、個人としても道徳心の強い人たちです。目立ちませんが、もしかしたらそういうものも本当にあるのかもしれません。
いずれにしろ、15年前の今日、そしてその後半年余りの間に起こったことをどう自分の中に取り込んでいくか、どう国の在り方に反映して行くかは、時々の社会状況と対照しながら、これからも長く続いていく宿題だと思うのです。
(この稿、終わり)
《参考》