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「指の間から零れ落ちていく命」~被災地をめぐる旅⑦ 

 2011年3月11日
 大川小学校職員はとんでもないミスによって
 74人の尊い命をなくしてしまった
 しかし彼らだけが愚かだったわけでも 無知だったわけでもない
 それはわずかな運命の差でしかなかった

という話。

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【他の学校の実際】

 大川小学校から直線距離で2kmほどにある尾勝小学校では津波警報が出ると校舎2階に避難することを考え、しかしそこはガラスが散乱していたので使えず、次に体育館を考えたものの卒業式準備でワックスを塗ったばかりでここも入れない。そこでしかたなく学校わきの高台の神社に避難して事なきを得ています。結果的には校舎2階に避難しても体育館に移っても、助からない命でした。地域の保護者からの情報もあったということです。(宮城県職員組合編「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」)

 あるいは牡鹿半島の鮫浦湾に面した谷川小学校では、地震直後、子どもたちを校庭に避難させ、職員は体育館に避難所開設の準備を始めました。そこへ地域をよく知る消防団員がきて、津波が来るから今すぐ高台へ上がれと強く促します。
 防潮堤にいた仲間からの合図で津波が目の前まで迫っていることを知った消防団員は大声で叫び、子どもたちは一目散に学校向かいの県道に駆け上ってそこから見守りますが、わずか数分後、津波は学校に襲いかかって引き波は体育館を持ち去ってしまいました。

 さらに湾の底が見えるような大きな引き波にもっと大きな津波が来ることを予見した消防団員はもう一段高い位置まで子ども誘導し、ここでも子どもたちは命を救われます。次に来た津波は、先ほどまでいた場所から自家用車を持ち去ってしまったからです。

 やがて雪が降ってきます。そのままでは夜は過ごせません。すると消防団員は谷川小学校の裏手の山の祠で、昔、津波から難を逃れた人がいたという言い伝えを思い出し、そこまで移動することを提案します。

 祠に行くにはいったん小学校の横まで降りなくてはなりません。教職員の中には心配する声もありましたが、消防団員の説得で津波の合間を縫って強行突破しました。おかげで子どもたちは祠の中で温かく一夜を過ごすことができました。
 こうして谷川小学校の児童・教職員は全員、無事生還できたのです。
(「あの時、わたしは」谷川小- NHK総合1・仙台)

 谷川小学校の子どもたちは地元の人たちの助言によって校庭を離れ、大川小学校の子どもたちは地元の人の言葉に縛られて山に登ることができなかった。一人も死者・行方不明者も出さなかった学校と74人も死なせてしまった学校の差は、その程度でした。

 

【ほんのわずかの違いが生み出す大きな差】

 地元の人といえば、気仙沼向洋高校の生徒たちは地元の人たちが動かないのを見ても止まることなく走り続けました。それは結果的に正しい行動だったのですが、もし津波がもっと早い時間に到達していたら、住民と一緒に巻き込まれていたのかもしれません。そうなれば堅牢な学校の4階屋上に逃げなかった判断は、厳しく非難されたことでしょう。向洋高校の屋上は津波に洗われなかったからです。

 また、“走って逃げた”といえば、伝説となった「釜石の奇跡」でも、釜石東中学校の生徒たちはかなり長い距離を走っています。なだらかな上り坂を、しかもかなりの部分は川沿いです。

 伝説によると、中学生は全く大人の指示を受けることなく自分たちで判断して、3度にわたって避難場所を変更しつつ、ついに高台に難を逃れたということになっていますが、そんなことはありません。それぞれの場所で地元の人たちの助言に従って校長が判断して決めたのです。
「津波から生き延びる 釜石東中学校の報告」他。ただし校長は当日不在で、指示・判断したのは副校長だったという話もある)。
 それも助かったからいいようなものの、津波がもっと早くに到達して川を遡っていたら生徒は大川小学校の子どもたちと同じ目にあっていたはずです。のちに専門家のひとりは中学校の裏山にまっすぐ上るべきだったと言っています。

 釜石東中学校の生徒は裏山に登りませんでした。大川小学校の子どもたちも裏山に登りませんでした。

 

【「釜石の奇跡」の功罪】

 「釜石の奇跡」には、2004年から釜石市の防災・危機管理アドバイザーとして津波避難を指導してきた片田敏孝(当時群馬大学)教授の、自画自賛的な誇張があると私は思っています。
 「生存率99.8%」にしても、その日、病気などのために在宅で被災した小中学生のうち、津波被害で亡くなった子どもは5名でこれが99.8%の根拠です(当時の釜石市の全児童生徒数は2936名)が、地理的にも近く地形も似ている気仙沼市も小中学生5688人中亡くなったのは11名で、これも「生存率99.8%」です。
 “奇跡”は釜石だけで起こっていたわけではないのです。

 もちろん石巻市東松島市名取市といった場所では被害者も多く、子どもを引き取った保護者が車で危険地域へ向かったり、石巻の日和幼稚園では園バスを海岸に向けて走らせたりと、市町村としての津波対策や防災意識不備があったことも事実です。しかし同時に、街の規模や地形、津波の到達時間といった要素も考えておかなくてはなりません。
 釜石に比べると石巻津波の到達時間が5分遅く、その分、保護者は児童生徒を引き取る余裕がありました。また基本的に海沿いの街から山の手の住宅街に避難する釜石や気仙沼に対し、石巻や名取には学校より海側に住宅のある例も少なくなかったのです。
 その石巻市でさえ、小中学生の生存率は大川小学校の74名を計算に含めても98.6%です。

 津波が夜間だったり休日だったりした場合を考えると、いったいどれほどの子どもが犠牲になったのか――。校舎の堅牢さといった部分も含めて、いかに学校が優れていたかは容易の想像できます。

 「釜石の奇跡」では児童生徒の自主性を強調するあまり、事実を曲げて、あたかも避難に大人が一切かかわらなかったような表現が一般化しました。その結果、「釜石では子供たちが先生の指示を聞かずに動いたために助かって、大川小学校では指示に従ったために助からなかった」とか「大川小学校では子どもが教師に殺されてしまった」とか言った極端な見方も横行しました。

 大川小学校を除けば学校管理下で死者・行方不明者を出した学校はひとつもなかったという事実は忘れられ、学校は辱められ、大川小学校職員の遺族は苦しめられました。
 まさかそんなことはないと思いながら、私もあの時期、親から「災害のときは先生の言う通りにしないで、自分で判断して行動しなさい」と教えられた子どもたちが、いざというときにそれぞれ勝手に走り出す悪夢を想いました。

 

【指の間から零れ落ちていく命】

 大川小学校の遺族の中に夫婦で中学校の教員をやっていた人がいました。その人はこんなふうに言っています。
「やっぱりね、生き残ったA先生のお気持ちをどうしても考えるわけですよ。それとね、流されてしまった先生たちの無念さも感じます。だって、子どもを救えなかったことは、先生たちにとっては非常につらいことだったはず。子どもに対して、本当に申し訳ないと思っていると思う。私は失敗してしまったと、たぶん、あの波にのまれた瞬間、あるいはあの世でも、そう思っていると思うんですよ」(「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」)
 私もそう思います。

 人間は命に係わる瞬間、本能的にわが身を守る行動を取るといいます。例えば車で正面衝突しそうなとき、助手席の家族を差し出すような形になってもハンドルを切ってしまうと。

 大川小学校の職員も、津波に飲み込まれる瞬間は思わず回避行動を取ったかもしれません。しかしその目と頭と心は、自分のことでも家族のことでもなく、目の前で自らの手の指の間から、漏れ落ちていく子どもの命を見ていたに違いありません。
 無念と言うでもなく、切ないと言うでもなく、申し訳ないと言うでもない――決して言葉では表すことのできない絶望――。

 もしもあの世でも、子どもたちに対して本当に申し訳ないと思い続け、自分は失敗してしまったと考えなければならないとしたら、私はあの世なんていりません。

                 (「被災地を巡る旅」終わり)

(参考文献)
「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」

「学校を災害が襲うとき: 教師たちの3.11」

「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」