カイト・カフェ

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「震災の中で美しく生きることを学んだ世代が、本当にいるのかもしれない」~ツイッターに集まった元気が出る100のつぶやき②

 史上最悪の自然災害が、
 世界で最も勤勉で道徳的な国の民を襲った。
 人々は黙って受け止め、それぞれ最善の選択をした
 その中から”震中派”と呼ぶべき子どもたちが育ってくる。
(写真:フォトAC)

【世界で最も勤勉で道徳的な国民】

 私は骨の髄まで凝り固まった民族主義者で、この世界に日本人以上に勤勉で道徳的に優れた民族はいないと思っています。その、元々勤勉で道徳的にも優れていた民族が極限まで道徳的になったのが東日本大震災に際してのことであり、その姿は世界に報道され、やがて逆輸入されて我が国民も知るところとなった、と思っています。
 そんな言い方をすると必ず「いや、そうでもない。東日本大震災でも略奪はあったよ」という人は出てきます。もちろんその一部は私も知っています。

 ある被災者たちは津波で流れ着いたコンテナから食料を持ち出し、住民どうしで分け合ったと聞いていますし、壊れた自販機の扉をさらに破壊して中の飲み物を分け合った話も知っています。また、ひと気のまったくなくなった原発事故避難指定区域にわざわざ入り、民家から大型テレビなどを持ち出した人たちがいたことも承知しています。
 忘れられないのはある民放のアナウンサーが津波に破壊されたコンビニで待ち構え、生活必需品を取りに来た女性にマイクを向けた場面です。
「それ、持っていくんですか? お金払っていませんよね? それでも持ち出すんですか?」
 その人が手にしていたものが何だったのか記憶にありませんが、しつこく追及された女性は少しためらった後、悲しそうな顔で商品をもとあった場所(もちろんものの散乱した地面)に置くと、何も言わずに去っていきました。
「このように店の商品を持ち出す人も出てきています」
 不道徳なのは誰だと叫びたくなるような場面でした。

 しかしもはや商品とは呼べないようなものを持ち出すことも職業的泥棒も十把一からげにして、ひとつでも不正があったら「日本人だって略奪をしたじゃないか」と言わずにおかない精神的潔癖さ、100点満点でないと0点も同じと思いたがる厳しさこそが、日本人の道徳性の証明なのです。

【特別なことではなく、本来の仕事の先に】

 ただ東日本大震災の際に日本人が示した道徳性の多くは、とんでもなく優れたといったものでなく、日常にほんの少々味付けをした程度のものでした。
 3月14日未明、福島第一原発ではのちに「Fukushima 50」と呼ばれる約50人を残して、残り750名ほどに敷地外へ退避しますが、50名は必ずしも決死隊ではありません。やるべき最低限の仕事があって、その50名が担当者だったから残ったのです。私がその場にいても、同じようにします。私でなくてもそんな日本人はいくらでもいるはずです。

 私はまた事故のあったあの日、たまたま休暇で福島第一にいなかった作業員が、原発に向かおうとして社長に慰留される場面をテレビで見て、深く心に刻んであります。東電の社員ではなく、孫請けかさらにその下あたりの小さな会社の若い社員です。危険だからやめろという社長の言葉にひとことボソッと「フクイチ(福島第一原発)には昔から世話になっておりますんで――」。
 その作業員が実際に現場に戻ったかどうかは分かりませんが、同じ瞬間、福島から逃れる人波とは逆方向に、原発へ、原発へと向かう関係者が何人もいたのも事実です。海外に出張中に事故と聞いてすぐに飛行機に飛び乗った人もいました。私だって同じ立場だったら、わが身可愛さのためにのうのうと海外出張を伸ばすなどいうことはせず、何を置いても帰国することを考えるはずです。普通の日本人は同じように考えるのです。

 原発に限らず、職務で現場に入った多くの人たちが命を懸けることを厭いませんでした。“ツイッターに集まった元気が出る100のつぶやき”にはそうしたツイート(ポスト)も多く見られます。

  • 自衛隊の友達から「死んでも悔いはない」って。現地にいけない私の分まで頑張っている友達。私の誇りです!
  •  ぜんぜん眠っていないであろう旦那に、「大丈夫?無理しないで。」とメールしたら、「自衛隊なめんなよ。今無理しないでいつ無理するんだ?言葉に気をつけろ。」と返事が。彼らはタフだ。肉体も、精神も。


【できる範囲で人を助け、人の役に立とうとした】

 命のかからない場でも、人々は自分のできる範囲で、誰かを助けよう、何かで役立とうとしていました。被災地でも、帰宅困難者であふれた都会の道々でも――。

  • 自宅は流されて自分は避難所にいるのに店が大丈夫だったから、って無料でラーメンをふるまっているラーメン屋さん…日本ってこんなに皆暖かい…日本に生まれたことを誇りに思う。
  • 昨日青葉台駅で帰宅困難者が溢れる中、車に乗ってる人が「○○方面の方どうぞ!」って行って車に乗せてた。「困った時はみんな一緒ですから!」って言ってた。超感動したの思い出した。
  •  お母さんが大量に豚汁作ってる 人のためだってさ ちょっと感動
  •  昨日の夜中、大学から徒歩で帰宅する道すがら、とっくに閉店したパン屋のおばちゃんが無料でパン配給していた。こんな喧噪のなかでも自分にできること見つけて実践している人に感動。心温まった。東京も捨てたもんじゃないな。
  •  僕も秋葉からの帰りにおにぎりとみそ汁配ってる方に会いました、感動しました、チャリだったからダイジョブです他の人にって言ったけどもらっておけばよかったなぁ絶対うまかったと思う
  •  東横線の車掌さん、アナウンスで「大変なことになってますが、ここが頑張りどころです。みんなで力を合わせて乗り切りましょう!」と。たぶん、マニュアル外だと思う。素敵だ(^^)

 そして日常が少し戻ってからも。

  • 個人商店で「困ったときはお互い様セール」やってた。日用品とかが安くなってんの。日頃から値下げしまくってギリギリ運営だった癖に……! ほとんど儲け出ないと思われる数字の値札を貼りながらにこにこ笑うおばさんに感動した。
  • 今朝の朝礼で「何があっても決して不安な顔は見せずに売り場に立つ以上はおもてなしをする気持ちを忘れずにお客様を安心させてあげてください」ちょっと感動した。がんばるか。開店です!
  • 急に、給食中止・弁当持参になっても「もし弁当を忘れた子がいたら食べさせてください。」と余分におにぎりをにぎってくれる保護者がいた。その優しさ・あたたかさに感動(>_<)

【震災の中で生き方を学んだ“震中派”は、本当にいるのかもしれない】

 「艱難(かんなん)汝を玉にす」と言いますが、テレビなどを見て自然に起こる代理体験も、子どもを育てる原動力になるのかもしれません。東日本大震災ほどの規模の体験となると、放っておいても子どもは育ってくる――。

  • うちの三歳の娘が、いきなり十円玉だらけのお小遣いを持ってきて、泣いている人に一つずつあげるんだって。これで、地震治るねって。。みんな良く考えよう。自分にやれる事がやれているか。
  • 妹のmixi日記に泣けた…『長男@小4が、自分の財布と貯金箱の中身を全部募金したいと、号泣しながら差し出してきた。コロコロコミック買えなくてもいいから、日本まもりたいから!って』みんなの節電の結果がすごいことになったみたいだね。
  • 今日小学生の弟が自分のお財布から5000円札にぎりしめて、学校の募金箱の中に入れてた。毎月500円をお小遣いでもらってる弟。10か月分だよ。かなり感動した(:_;)
  • 子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんがその子供の背中に向けてかけた、ありがとうございます、という声が震えてました。

 この子たちが今、20代から30代になろうとしているとしたら、震災の中でリアルタイムに美しく生きることを学んだ“震中派”ともいうべき世代は、本当にいるのかもしれません。
 当時はもう大人といっていい若者たちも、学んでいました。

  • 鹿児島でひとり暮らす母に電話。声を聞かせて安心させるつもりが、逆に叱咤激励されてしまった。母曰く「あなたが今その年齢で其処に立っていることの意味を真剣に考えなさい。自分にできるやり方で世のため人のために尽くしなさい」と。僕はあなたの子であることを誇りに思います。明日も生きるぜ

【最悪の地震が世界で一番準備され訓練された国を襲った】

  •  本当に感動。泣けてくる。⇒BBCめっちゃ誉めてる。地球最悪の地震が世界で一番準備され訓練された国を襲った。その力や政府が試される。犠牲は出たが他の国ではこんなに正しい行動はとれないだろう。日本人は文化的に感情を抑制する力がある

 2021年、夏のオリンピックがコロナ禍のため、一年遅れて開催されました。当時コロナ感染はまだ収まっておらず、試合は無観客、選手村は強制収容所さながらの封鎖状態でした。それでも、何とか開催にこぎつけ、何とか大過なく終えることができました。しかし私たちは忘れているのです。2021年の夏にあれほどの大きな競技大会を開き、無事に終えることがどれほど大変だったのかを。

 オリンピックは2021年7月23日に開会し、8月8日に閉幕しましたが、この間デルタ株の感染拡大によって1日の新規感染者は約4200人前後(7/23)から約1万4000人前後(8/8)へと過去最高を繰り返し更新。死者は2~3週間遅れて増加するため、8月上旬までは1日10~20人台だったものの、月末には40人~60人へと急増したのです。世界の様子もだいたい同じような状況でした。
 おそらく、あの年にオリンピックが開催できたのは日本だけでした。最悪のパンデミックが世界を襲っていた時に偶然、世界で一番準備され訓練された国でオリンピックが開かれたわけです。
 (この稿、終了)