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「危険な場所こそ安全という逆説」~被災地をめぐる旅② 

 「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は 
 校舎が丸ごと津波に飲み込まれた気仙沼向洋高校を震災遺構として残したもの
 ここではきちんとした避難マニュアルと教職員の臨機応変な判断
 教師たちのプロフェッショナルな行動力と若干の運によって
 全員無事避難できた事例を学ぶ
というお話。f:id:kite-cafe:20191001073417j:plain気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館)

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館】

 「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は、震災当日まで宮城県気仙沼向洋高校の校舎として利用されていた建物に震災伝承館(資料館)を加えた施設です。

 入り口で入場料(600円)を払って最初に13分間のビデオを観覧し、壁の写真資料を閲覧してから旧気仙沼向洋高校校舎を見学するようになっています。


f:id:kite-cafe:20191001073537j:plain 建物は二棟で、南校舎の1・2階全部と3・4階の一部が公開となっており、屋上に出て周辺の風景を眺めてから、外付けのエレベーターで一階まで降りてきます。もちろん歩いて降りても構いません。

 それから屋外の総合実習室や生徒会館、屋内運動場跡を見学して北校舎の1階部分を回り、改めて伝承館に戻り、掲示物と任意の映像を見て出口に向かうことになります。

 

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 周辺は一部を除いてきちんと片付けられていますが、津波の襲った校舎内は2階で転倒している自家用車を含め、多くの流入物が残されていて津波の威力をまざまざと見せつけています。

 そこにはきちんとしたマニュアルと臨機応変な判断、教師たちのプロフェッショナルな行動と若干の運が働いていたのです。

 
  
 
 
【その日、その時】
 運の第一は地震の瞬間、生徒の大半が体育館か地上のプレハブ校舎、あるいは中庭にいたということです。
 当時、教室のあった南校舎は改修中で、北校舎も入試事務のため生徒の立ち入りは禁止となっていました。ですから放課後にも関わらず、地震直後に生徒を集めて人員把握をするのはとても簡単だったのです。

 第二の運は停電のために一切情報の取れない中で、ひとりの職員がワンセグ付きの携帯を持っていて、津波の到来をわずか5分で知ることができた点です。

 向洋高校の津波避難は校舎の4階に上がることを基本としていました。しかしこのときはマニュアル通りに動いていません。170名あまりの生徒を改めて中に入れ、屋上まで昇らせるのはむしろ危険と考えられたからです。津波はその時点で6~7mと予告されていましたからとりあえず一気に3階まで行かなくてはなりません。さらに4階、屋上となるとどんな事故が起こるか分からないのです。
 そこで校舎を諦め、海岸から反対側に1kmほど進んだところにある寺院をめざすことになりました。

 ところが寺院に着いて再度点呼を取り始めたころには、カーラジオの伝える津波予想は10mに大きく変更されていたのです。ここも危険だということでさらに1km離れたJR気仙沼線陸前階上(りくぜんはしかみ)駅まで歩き、ここでも腰を下ろそうとした瞬間に「津波が来ているからもっと上にあがれ」という住民の声に促され、また数百m歩いて市立階上中学校に入り、そこを最終的な避難場所とします。多くの生徒・教職員が震災の夜を一晩過ごすことになる建物です。

 報告書によると、
「(階上中学校につくまで)教職員は気を利かせ先頭、中間、最後尾に分かれ生徒たちに注意を促しながら誘導した」
「恐怖のため腰を抜かし動けなくなる生徒が数名おり,教職員が肩を貸したり,おんぶしたりして国道まで逃がした」

 先生というのはこういうことをやらせると実にうまいのです。

 一方、校内にはまだ20名ほどの先生たちが残り、書類や入試データの保全のための仕事を行っていました。そしてここでも、2階のコンピュータサーバーを外して4階に持ち上げたり、ストーブを持ち出したりとそれぞれが自分の判断で必要な仕事を果たしました。
 中でもマスターキーを持って4階まで駆け上がった職員がいて、おかげで最終的には屋上に避難することも可能になったのです。屋上への出口には通常カギがかけられていました。

【危険な場所こそ安全という逆説】

 この事例が教えてくれる最も重要な点は「危険な場所こそ安全という逆説」です。

 気仙沼向洋高校は海辺の学校です。日ごろから地震があれば津波が来る」「その際はもっとも被害を受けやすいのがこの学校だ」という切実な思いが教職員にも生徒にもありました。だから垂直避難にしろ水平避難にしろ、とにかく津波が来たら一刻も早く、一歩でも高く(あるいは遠く)に逃げなくてはいけない――その思いが切実だったのです。
 危険な場所に校舎があった――それも気仙沼向洋高校の運だったのかもしれません。

 ところで生徒と教職員は避難する途中で多くの地域住民に声をかけ、一緒に避難するよう促しました。しかし人々は瓦礫の片付けなどに忙しく、多くは避難しようとしなかった――その後襲った津波によって、寺院を含むその地域は多大な被害に遭って多くの人々が亡くなりました。

 一般に教職員というのは“地域の人”ではありません。生徒も、小中学校と違って高校生の場合、多くは遠隔地から通うよそ者です。私はそのことも全員が助かったことと関りがあるように思います。
 情緒的に土地に縛られていない、ここまでは津波は来ないといった経験知がない、他の人が逃げていないのに自分ひとり逃げ出すのは恥ずかしいといった人間関係がない――それこそなりふり構わず、一目散に逃げてもいい人間ばかりです。だから助かった。

 このことは、もしかしたら次の石巻市立大川小学校の例を考えるうえで、とても重要なポイントなのかもしれません。

(参考資料)
「その時,現場はどう動いたか」宮城県気仙沼向洋高等学校

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