カイト・カフェ

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「大川小学校の校長に責任がある」~被災地をめぐる旅⑤ 

 高台に避難せず校庭に留まった空白の50分間
 教頭はさかんに校長に連絡を取ろうとしていた
 そのとき校長はどういう対応をしたのか――
 今となってはわからないが
 いずれにしろ 校長に責任がある

というお話。

f:id:kite-cafe:20191004073901j:plain石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像3》)

 

【校長と教頭の関係】

 教育行政のありかたや教育委員会・学校の雰囲気は各地方公共団体ごと、かなり違います。しかし根幹部分が決定的に違うということもないでしょう。

 例えば教員の“頭(かしら)”である教頭は学校と教職員のすべてを統べる立場ですが、漢字で「頭」と書くにもかかわらず、学校の“頭(あたま)”であってはいけません。“頭(あたまは)”は校長であって学校に関わるすべて決定権は校長にあり、教頭はその手足なのです。

 “頭(あたま)”を差し置いて“手足”が独自に判断したり行動を起こしたりすれば、“頭(あたま)”は当然、怒ります。“手足”は言われた通り動いていればいいのです。
 しかし教頭は無人格のようなものですから、責任を問われることも、難しい判断を迫られることもありません。そこで利害が一致します。

 教頭は校長に無条件に従う代わりに、困ったときは何でも判断してもらえばいいのです。間違ったら責任は校長が取ってくれます。
 ただし校長は知らないことにまで責任は取りたくありませんから、常に教頭に報告を求めます。教頭は年中報告ばかりしています。
 それが校長と教頭の基本的な関係です。
 
 

【教頭はただ何もせずそこにいたわけではない】

 2011年3月11日の大川小学校で、校舎からの避難が終わって人員確認が済んだあと、教頭はただ何もせず時を過ごしていたわけではありません。必ず校長と連絡を取ろうとしたはずです。こんな大事件に際して、報告を怠ってあとで責任を問われたらかないません。

 いや、その前に校長の方から問い合わせがあった可能性もあります。普通の校長だったら大地震のあとでまず心配するのは学校のことです。家族のことも心配でしょうが、一刻も早く状況を把握して市教委に報告しなければ、こちらも責任を問われます。

 実際に11日の夕方に、石巻市教育委員会のある市役所に真っ先に駆けつけたのは、市庁舎にほど近い門脇小学校の女性校長でした。校長は学校裏の日和山公園に児童を避難させるとすぐに教育委員会に駆けつけ、おかげで急速に冠水し始めた庁舎から出られなくなってしまいます。津波より早く報告に来たわけです。

 二日後の13日には教委から最も遠い学校のひとつである船越小学校からも、校長に派遣された教師が報告に来ます。通常の経路で35㎞もある道のりを、徒歩とヒッチハイクでやってきたのです。市教委への報告というのはそれくらい重いのです。

 ですから地震直後の50分間に、大川小学校の校長と教頭が連絡を取り合ったことは間違いありません。少なくともどちらか一方が連絡を取ろうとしたのは確実です。二人とも無能無策ということはさすがにないでしょう。

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 では実際に二人は話し合えたのか――。

 私はできたと思います。地震から津波が来るまでの時間はまだ携帯電話も繋がり易く、その時間帯のやりとりで釜谷地区を脱出した人もいたからです。
 その場合、児童・教職員が山に向かわずその場に留まったのは、校長の指示ということになります。教頭が指示や承認を仰がないわけはないからです。

 のちに保護者から「もしそのとき現場にいたとしたら、どうした?」と問われた校長は、「私だったら山に避難させた」と答えていますが、そんなことはないでしょう。もしそうなら電話を通して指示できる立場にいたのですから。

 あるいは教頭は、連絡しようとしたのに校長に繋がらなかったという可能性もないわけではありません。実際に被災直後、教務主任が連絡を取ろうとしたときは繋がりませんでした(回線が不通だったのか、校長が出なかったのかはわかていません)。
 その場合、空白の50分間の大部分は校長からの連絡待ちだったことになります。もちろん何回も電話をかけ、メールも打ったはずです。しかし返事はなかった――そうなると動きが取れなくなります。

 最後の最後に三角地帯へ向かったのはその時点で校長の許可が出たか、連絡をあきらめた教頭が津波の恐怖に耐えかねて泣く泣く自己判断をしかたのどちらかです。

 いずれの場合も校長に大きな責任のある話ですが、空白の50分間に校長は何をしていたのか、それについては20㎞以上離れた自宅にいたということしかわかっていません。
 
 

【if】

 もし私があの日あの時の大川小学校の校長だったとしたら――そう考えることも無意味ではないでしょう。私でもおそらく山に避難することはしなかったと思うからです。

 津波の高さが6m~7m、それが10mと報道されるようになっても、地域の人々の大部分は逃げようしませんでした。津波はここまで来ないのかもしれません。大川小学校が海抜1mしかないなんて知りませんし、津波というものがどういうものなのかもわかっていません。それに震度5、震度6といった余震が続く中で山に登ることも安全とは思えません。昨年の北海道地震の山崩れを知った今はなおさらです。

 しかしずっとその場に留まった可能性も多くはありません。「危機管理の『さ・し・す・せ・そ』の第一は「最悪のことを考えて」です。

kite-cafe.hatenablog.com ですから私だったら早い段階で、「三角地帯」へ移動することを考えたでしょう。もちろんそこも安全ではなく、結果論から言えばむしろ一人も助からないような場所でしたが。

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【天災を人災に変えた人】

 結論的に言うと、やはり大川小学校の事件は天災でした。
 「たられば」で言えば、教職員や地域の人々に津波の恐ろしさを周知させ、山の地質を調べて予め避難路を設けておけばよかったのはもちろんですが、2011年3月のあの段階で取りうる策はせいぜいが「三角地帯」程度です。被害の大きさから考えれば「運がなかった」では済まされませんが、それでも限界は見えていました。

 ただしこの天災を人災にしてしまったことには、当時の校長に全面的な非があります。
 これについては事件を扱ったルポルタージュ「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」の感想として別のところ(毒書収監「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」)に書きましたから改めて申し上げませんが、歴史に残る悲劇の日に、そんな校長しか冠していなかったことも大川小学校の取り返しのつかない不運だったのかもしれません。

 校長があのような人でなければ、遺族ももっと心安く、運命を受け入れることができたはずですから。

                    (この稿、続く)

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