カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「魂の音叉」〜話す内容なんてどうでもいい……ことがある

  一昨年に亡くなったピアニスト中村紘子の夫は、庄司薫ペンネームで知られる芥川賞作家です。 

 東京大学在学中の21歳の時に『喪失』で中央公論新人賞をとり、その後2〜3作書いて文学界から消え、およそ10年後、今度は『赤頭巾ちゃん気をつけて』を引っ提げて再デビュー、芥川賞までもっていってしまったのです(そののち数冊のベストセラーを出してまた消えてしまいましたが)。
 その再デビューのとき、
「およそ10年ものあいだ、いったい何をしていたのですか?」
と訊かれて庄司は、
「男の子、いかに生きるべきかを考えていた」
とトボケた返答をしています。

 翻って私の話。
 定年退職で学校を去って別の仕事を2年やったものの、堪え性が全くなく、家居してこれまた2年、友だちからも親戚からも「一日いったい何をしているんだ?」と問われるのですがこれがよく分からない。
 母の介護の真似事と専業主夫の真似事をして、あとはあれこれ必要なこととしたいことをしているうちに、退屈もせず一日は終わる、同じことの繰り返しです。人から問われても納得できるような返事ができないので私も最近は、
「老人初心者、長い晩年を、男の子どう生きるべきかを考えている」 と答えるようにしています。

【夫婦は必ずしも似てこない】

 しかし一日が慌ただしく終わるのも事実で、ゆっくりテレビを見る暇もない。ニュースとワイドショーは半分習慣みたいなものですから一応見ていますが、バラエティーやドラマまでは見る機会がない、時間がない、気力がない。

 一方まだ現職の妻は、朝は6時半に出かけ、夜は山ほどの持ち帰り仕事を抱えて18時半には帰宅。夕飯を用意し、ついでに作り置きのおかずも作りながらパンを焼き、その間に学校の仕事もしながら同時にテレビドラマを見る、という超人的な活動をしています。

 なにより感心するのは“ながらドラマ”で、推理ものを見ている時でさえご飯が炊けたといっては事件の発端を見逃し、パンが発酵したからオーブンに入れなくてはいけないといっては結末部分を見逃す――どんなふうに事件が発生してどう解決したか分からない推理ドラマの鑑賞、そんなものにどういう意味があるのか分からないのですが、とにかくそういうことのできるの人なのです。

 対する私は、妻に比べてそんなに頭が悪いとも思わないのですが、とにかく細部まで掴んでいないと気が済まない、テレビの前で正座こそしませんがきちんと集中していないと入り込めない、理解できない――それで疲れてしまって、近ごろは見なくなってまったのです。

【ドラマ3本、意外な共通点】

 ところがあろうことか、今年は年初からテレビドラマを3本も見続けているのです。

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 NHK大河ドラマ『西郷どん』
TBS金曜ドラマ『アンナチュラル』
フジテレビ『海月姫』

 いずれも妻の勧めですが見始めるとやはり面白い。
西郷どん』は原作が林真理子で脚本が『ドクターX』の中園ミホだから面白くないわけがない。

『アンナチュラル』は取り合えず出演者が怪物ばかり(石原さとみ、井浦 新、窪田正孝市川実日子、松重 豊、飯尾和樹大倉孝二北村有起哉)で、脚本が野木亜紀子(「逃げるは恥だが役に立つ」『重版出来!』『空飛ぶ広報室』ほか)だからこれも面白いに決まっている。

海月姫』は原作が人気漫画で主演が芳根京子――と来ればこれも間違いない。

 どれも保証されたようなものですが、そうした作品の面白さとは別に、一見なんの繋がりもなさそうなこの3作品、実は妻でなければ察知できないある共通点があったのです。

 それは中で語られるセリフが、
 しばしば何を言っているのか分からない
 という点です。

西郷どん』は薩摩弁のために分からない(特に第一回の子どもたちの会話は、ほとんど分からない部分があった)、
『アンナチュラル』はph(ペーハー)がナンチャラ、肝臓がナンチャラ、エチレングリコールがナンチャラといった衒学的な内容によって分からない、そして、
海月姫』は主人公オタク娘の、クラゲに関する早口で専門的な説明によって、ところどころ、あるいはかなりの時間にわたって、何を言っているのかまったく分からないのです。
 先週の『海月姫』などは芳根京子のセリフにテロップまで重ねるのですが、それも目で追えない――。

【そう言えば】

 しばらく前、映画館で同じような思いをしたことがあります。 シン・ゴジラ」です。
 あのときの市川実日子などは最初から観客を振り切る早口で、一気に長台詞を最後まで押し切る、主役の長谷川博己も場面によっては、しばしばそうでした。
 なぜそうなるかというと、そこで語られるのが難解な法律論だったり科学的な問題だったりして、私たちがまじめに聞き取ろうとするとかえって混乱するからです。
「とにかく何か法律的に厄介な問題が持ち上がったらしい」
「とにかくゴジラを科学的な方法で倒せるらしい」
 観客はその程度のことが分かれば良くて、それで先へ進めるわけです。

 もっとも私などは画面を見ながら、
「こんな早口で難しい会話でも、東大卒の官僚だと聞き取った上で理解できるんだろうなあ」 と(フィクションなのに)傷ついたりしてるのですから、見方によってはずいぶんとバカにしたような話ですが、映画の作り方としてはそういう手法なのでしょう。

――と書きながら思い出しましたが、1970年代の小劇場では、やはり5分以上の長台詞を一気にまくしたてるといった場面がしばしばありました。あれも台詞を聞き取ってもらい解釈してもらうという気持ちのまったくないものです。

 とにかく主人公の怒りを感じてほしい、絶望を分かってもらいたい、それ以外に生きる方法がないと思いつめたその気持ちに寄り添ってほしい――そう考えると、場合によっては言葉の中身など、むしろ邪魔なのです。

【怒りを伝える、思いを伝える】

 さらに、いま唐突に思い出したのは、30年近く前に大阪の中学校で見た同和教育の授業です。

 先進的な活動を続けている学校なので期待して行ったのですが、とにかくその授業では最初から最後まで先生がしゃべり続ける、生徒の意見を求めることも話し合いをさせることもほとんどなく、ひたすら教師ががなり上げる――。
 私たちの普段の感覚では最低の授業なのです。けれどそのときはそうでなかった、――というか迫力に押され、授業が終わったときには“何が何だか分からないけど、とにかく差別は絶対いかん、許してはならない”と、そんな気持ちに追い詰められていたのです。
――それも授業だな、と私は思いました。

 私たちは子どもと話すとき言葉の内容には十分な時間をかけ、吟味します。言葉は一面で論理ですから、正確で破綻のないことが大事です。

 しかし一方、言葉は魂を震わす音叉のような働きもします。大切なのは内容ではなく共振させること、そのために必要な声の大きさ、抑揚、速さ、言葉の色つや、声の張り、そんなものがあるはずです。そのことについて、いまごろになって気がつきました。