朝は8時15分出勤、午後4時15分退勤、
夏休み中は日直以外に一日も学校へ行かない。
そんな昭和が甦れば、
教員不足も一瞬で吹き飛ぶのに・・・という話
という話。
(写真:フォトAC)
【一学期、お疲れ様でした】
長い一学期、お疲れ様でした。
日本の公立小中学校は明日から夏休みという学校が大部分のようです。私がしばしばお世話になる「日本文化研究ブログ」によると、夏休みの始まりが明日でないのは、すでに実質13日(土)から始まっている千葉県千葉市、来週23日(火)始まりの京都府京都市・宮崎県宮崎市、24日(水)始まりの新潟県新潟市、25日(木)からの岩手県盛岡市・富山県富山市、さらに遅れて翌26日(金)が北海道札幌市、これで最後です。
もちろん期日は都道府県ごとに決まっているわけではないので(市町村内では同日が普通)、例えば同じ千葉県でも「まだ授業をやっているよ」という市町村もあるかもしれません。
夏休みの「明け」の方は「入り」よりも多様で、一番早くに終わってしまうのが岩手県盛岡市の8月19日(月)、長野県長野市が20日(火)、21日(水)までが福島県福島市、22日までという市はなくて次は23日(金)まで休みの学校ということになりますが、これは表現の問題で、23日(金)まで夏休みの学校の児童生徒は当然26日(月)まで登校しませんから、実質25日(日)までが夏休み。そんな都市が15あります。8月最終週のどこかで始めるところが15。残りの15が9月2日(月)を待って登校ということになります。
日数でみると最も期間が長いのが三重県津市・香川県高松市・愛媛県松山市の3市で、いずれも7月20日(土)~9月1日(日)の44日間。最も短いのが岩手県の盛岡市で7月25日(木)~8月19日(月)の26日間。その差はなんと18日間、学校5日制で考えると4週間近くも違うことになります。短い方から2番目が北海道札幌市の30日間、3番目が長野県長野市の32日間で、33日間という市は4市ありますから盛岡市の26日は突出して短いことになります。何か事情があるのでしょうか。気になるところです。
しかし振り返ると、昭和の夏休みは7月の中旬に始まって8月いっぱいというのが一般的でした。それがゆとり教育批判の波に乗って東京都が8月最終週を登校日にしたあたりから、一斉に短くなって今日に至っています。もともと短かった自治体でさらに短くしたところもありました。
温暖化が進んで毎年酷暑に見舞われるというのに、逆に夏休みは短くなる一方です。ただし今後エアコンの電気料金が耐えがたいほどに増えたり、使用控えをしていたら熱中症で大量入院というようなことが起きたら、再び短くして家で過ごしてもらうということになるかもしれません。
【昭和時代の夏休み】
職員の勤務から言うと、昭和の間じゅう、部活動の顧問以外の教師は夏休みに出勤することが稀でした。教育公務員特例法第22条第2項に、
教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。
という文言があり、これは当時、自宅で研修をしていてもかまわないと解され「研修」の中身自体も拡大解釈されていたからです。そのため高校の教員で極端に持ち時間の少ない先生などは、曜日によって1~2時間だけ出勤して授業を行い、あとは自宅で過ごしていたりしたのです。私たちはそれを自宅研修と呼んでいました。
義務教育の学校の先生は持ち時間が多いのでさすがにそういうわけにもいかず、朝から晩まで学校にいましたが、長期休業の動向表は、必ず取らなければならない「夏期休暇」「夏季厚生休暇」以外は「部活」と「自宅研修」でほぼ埋め尽くされていました。毎日が日曜日みたいなものですから、長期休み中は朝の涼しい時間に部活を2時間ほどやって(朝6時に来いと言えば子どもは来ました)、あとは涼しい顔で丸一日、好きなことをしていたのです。
教員ですから好きなことといっても映画を観たり音楽を聴いたり、本を読んだり昆虫採集をしたり、旅行に出たりと、ある意味でほんとうに研修らしい活動をするのです。宮沢賢治や島木赤彦が好んで行ったようなことです(しない人もいますが)。
【教師が遊んではいけない時代に】
たぶん転機は平成大不況です。直前のバブル景気時代には豊かさ華やかさから完全に置いていかれていた教員は、「失われた10年」「失われた20年」と呼ばれる不況が始まると、逆に「豊かで華やかな存在」としてメチャクチャに叩かれるようになります。
公務員全体が「聖域なき行政改革」で圧迫される中で、特に教員は深刻ないじめ自殺を防げなかったり不祥事が続いたりで口実を与え続けしまった結果、ほとんど存在自体が悪であるような言われ方をするようになります。あの「ゆとり教育」でさえも、《教師がゆとりを謳歌するための教育》と曲解されたほどです。また日本の教育は死んだとみなされ、「再生会議」がつくられむやみな蘇生処置が施されます。動いている心臓にタイミングの合わない心臓マッサージを施し、健康な体にカンフル剤が打たれます。
そしてふと気づくと、夏休みに教員が休んでいる姿などあってはならないものになり、校内研修や校外研修をびっしり入れて動きを封じると、年休ですら取りにくい雰囲気が生れました。
自宅研修は、法改正の必要もあるので制度的にはそのままにされましたが、極めて取りにくいもの変えられていきます。令和に入って「教員の働き方改革」が本格的な課題となると「自宅研修」の復活も話題となりましたが、平成元年の通知「学校における働き方改革の推進に向けた夏季等の長期休業期間における学校の業務の適正化等について」で改めて、基本的に取得しないよう指示されています。誤解を招きやすい「自宅研修」の呼称も、今は「承認研修」等に改めるよう、強調されています。
【昭和の学校の日課(東京の場合)】
私は1970年代のおしまいのころ、東京都の多摩地区の中学校で教育実習を受けました。当時の東京の勤務体系は「東京方式」と呼ばれるユニークなもので、8時間労働時間にセットで与えられる45分の休憩時間を、すべて放課後に持ってきてしまったのです。そのため4時15分が退勤時間となり、それを過ぎて学校にいるのは管理職の先生と、たった六つしかない部活の顧問だけ――。5時間授業の水曜日の午後に行う職員会以外に会合は全く取れないので、学年会などは給食の時間に空き教室で、食べながら行うという忙しさでした。
朝も、電車の関係で7時50分ごろ学校に着く私たち教育実習生が一番乗りで、8時の開門からわずか20分間に30人弱の教職員と600名近い生徒の全員が登校を終えます。それだけでも見ものでした。
東京の教育課程には他にも特殊な面があって、例えば学習指導要領に示された年間の授業時数は、私たちの県では最低線なのに東京は上限、しかも努力目標でした。ですから日程にもかなり余裕があり、夏休みが45日も取れたことにはそうした事情もあったのです。
そんな緩い学校で教育実習をしたので、地元に帰って教職に就いたらアテが外れて大変でしたが、それでも楽しく教員を続けることができたのは、もしかしたら実習中に楽しい経験ばかりをさせてもらったからなのかもしれません。
東京都では石原都政(1999-2012)が始まって「東京方式」が改められ、指導要領の時数も努力目標から最低基準へと変わって地方並になりました。けれどその「地方」は、先ほども言ったように東京がレベルを上げるのに連動して時数を増やしましたから労働環境はいっそう悪化しました。田舎の学校の苛酷な状況の一因は、東京がつくったものです(ちょっと言い過ぎました)。
【今が昔であれば、教員不足もなくなる】
講師不足や教員採用試験の志願者低下に際してどんな打つ手があるのか、そうした話題が出るたびに思い出すのはこうした昭和の、特に東京の勤務状況です。学期中は8時15分までに出勤し午後4時15分には学校を出られる、夏休みは毎日が日曜日で遊んでいられる――そうなれば全国の若者が教員採用試験会場に殺到するはずです。
繰り返しになりますが、教師になろうというような人に暇を与えても、大部分の先生が行うのは勉強です。国語の教師が読書三昧の日々を送り、社会科の教師が外国旅行や歴史的名所に旅行するようになれば、英語科教師が英語圏に遊びに行くようになれば、あるいは技術科教員が自宅の家具をつくったり、家庭科の教師があれこれ食材を試したりするようになれば、学校教育はもっともっと豊かで面白くなるはずです。しかし――。
皆さま、おからだに気を付けて、暑い夏をお過ごしください。