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「親ガチャ:親から与えられたものがあまりにも少ない恨み」~夏休みに思ったこと、考えたこと③  

日本にゲイツジョブズが生れないことに苛立った政財界は個性教育の名のもと、子どもが本来持っている力を保護・伸長させる教育に舵を切った。
しかし子どもの「本来の力」の大部分は、親からもらった遺伝的・環境的資質だ。それが少なすぎる子は必然的に親を恨むことになる。親ガチャと――。
という話。(写真:フォトAC)

【親ガチャと学歴社会】 

「すでに学歴社会は終わった。どこの大学を卒業したかで人生は決まらない。人生を決めるのはどこの家に生まれたかだ」
 このブログで再三引用する言葉ですが、どこで覚えたものか記憶にありません。私の書いたものについて調べると、初発は2006年2月15日の『「子どもの人生は◯◯で決まる」~身も蓋もない人生観の話』。ブログを書き始めてまだ1年も経っていない頃ですから、聞いたのはさらに昔、もしかしたら20年以上前のことかもしれません。

 当時はまだ学歴社会(正確には学校歴社会)への恨みつらみが芬々と匂っていましたから、私は得意になってこの話を広めようとしたものです。
「学歴社会は終わった、学歴社会は終わった、すでに時代は変化しているのだ――」
 ところが今は「親ガチャ」という便利な言葉ができて、この不平等の概念は簡単に共有することができるようになりました。

 「親ガチャ」とは、
「子どもがどんな親のもとに生まれるのかは運任せであり、家庭環境によって人生を左右されることを、スマホゲームの『ガチャ』にたとえた言葉だ」
と、あるサイトに書いてありました。私が言い続けてきたこととほとんど同じで、例えば「一流大学を出ればある程度安定した生活が保証されるが、その一流大学へ入れるかどうかはすでにどこ家に生まれたかで決まっている」、そう考えるわけです。

【教育は子どもを型にはめようとする】

 ただし「親ガチャ」という概念は最近のものでも、それ自体は遥か昔からありました。江戸時代の身分差別はその典型で、どんなに素晴らしい才能を持っていても農民の家に生まれた子は農業しか選べません。医者の家に生まれた子は凡庸でも医者になれます。しかしそれでは個人も国もまったく成長できません。
 そこで明治以降の政府は一律の学校教育を用意して、能力のある者は精一杯それを伸ばし、そうでもない者もよりレベルの高い教育を受けることによって社会のよき構成者として国家を支えていく、そうした仕組みを生み出したのです。
 
 国が税金を使って行う事業ですからとうぜん目標が設定され、あるべき国民の姿が示されます。現在の教育基本法第一条にはこんなふうに書いてあります。
「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
  泥棒学校だとか詐欺教室だとか、何でも教育すればいいというものではありません。少なくとも公教育は、基本法に書かれているような国民を育成しようとして行われるのです。その意味で学校教育は子どもを型にはめます。
 日本国民である限り、この枠を逃れることはできません。

【個性とは何か】

 教育基本項に書かれたような「型」にはめる教育に対する批判は、昭和時代にすでにくすぶっていました。しかし本格的に問題視されるようになったのは平成以降です。個性教育、ないしは個性を尊重した教育への希求が、政府・財界・マスコミ・保護者の間でほぼ同時に始まったのです。

 この間の事情をお話しする前に、個性とは何かという定義が必要です。私の理解を金八先生ふうに言うとこうなります。
「個性の個の字は人偏(にんべん)に固い、つまり人の中にあって固いものだ。しかし尋常な固さではない。『固』の真ん中にある『古(ふる)』はどくろの象形文字で、古いことを表すとともにそれ自体が固いという意味もある。つまり固い『古』を国がまえでさらに固めたものが『固』で、そこに人偏がついたのが『個』というわけだ。『性』は立心偏(りっしんべん)に『生』、つまり心の生き方・あり方を言う。だから『個性』は人間の中にあるものすごく固い心の在り方・生き方、そういうものだというわけだ」

 例えば世界的ピアニストが持つ、どう修正しようとしても直せない偏り・癖の中で芸術的に価値あるもの、あるいは特定の技術者にいつも生じる不可思議な着眼やこだわり、一般の人とは異なるわずかな見方のずれ、その中で価値あるもの、それが個性です。したがって普通の人は持っていない。
 しかし極端に狭く考える必要はなく、「あの人の生き方は個性的だね」といった言い方で表現され、他者に影響を与えるものも「個性」の中に含めてもいいと思っています。もちろんそれでも全員が持っているものではなく、少数だから珍重されるのです。

 【親ガチャ:親から与えられたものがあまりにも少ない恨み】

 政府財界、あるいは学会、あるいは芸能界などが希求して止まないのは、そういった個性だけです。将来的に金にならなくてはなりません。しかしそんなことを学校の中に持ち込むと、すぐに差別の誹りを受けることになるのでできません。
 そこで「個性」は「誰もが生れながら持っているその子らしさ」といった妙な言い方に書き換えられます。「その子らしさ」の中には虚言癖なんかがあったりしますが、無視されるか「想像力が豊か」とか「表現が巧み」とかに書き換えられます。
 
 しかしどうでしょう?
 「人間が生れながら持っている」と言っても子どもですから、自ら獲得したものは多くありません。その大部分は親からもらった遺伝的形質と、その歳までに育てられた環境によるものです。もちろん中でも親自身が第一の環境です。
 学校で与えられたり自ら獲得したりしたものより、生まれたときから親に与えられたものの方が重視される――、とうぜん親の持ち物には差がありますから与えられたものの少ない子は、取り返しがつきません。
 「親ガチャ」という恨みはそこから生まれます。
 
 (この稿、続く)