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「義務教育の学校は何のためにあるのか」~自由と不自由と安全・安心の物語②

 「無知や貧困を絶対に世襲させない」
 それは日本の学校を支える最も強い信念である。
 そのため教育を親に任せることができいない。
 学校のやるべきこともとんでもなく大きくなる。
という話。(写真:フォトAC)

【無知や貧困を絶対に世襲させない】

 義務教育は何のために行われるのかという問いに対する一番明確な答えは、「教育基本法」の中にあります。
第五条 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
 簡単に言ってしまうと、個人としては自己実現のため、社会からすると国家に有用な人材を輩出させるためです。
 それは事実ですし、特に明治の黎明期においては富国強兵=「国家に有用な人材を確保する」が最大の目的でありました。しかし同時に、新時代を迎えるにあたって、そこには人間に対するもっと本質的な、強い願いがあったのです。
 それは無知や貧困を絶対に世襲させないという思いです。

 明治時代はトンビの家によくタカが生れる時代でした。それは前時代がタカがタカでいられないような、タカがトンビの生活を強いられるような身分差別の時代でしたから、明治になってタガが外れると、トンビがタカを生んだように見えたのです。
 野口英世然(しか)り、現在のNHK朝ドラの牧野万太郎も然り。主人公のモデルである牧野富太郎は土佐高知の大きな商家・酒造業家の生まれですが、商家から学者が生れるためには、やはり世襲制度が崩される必要があったのです。

【学制発布の精神】

 人々を貧困から救う第一の道が教育です。親が貧しかったからといって子が教育を受けられないとしたら、子も孫も同じ道を通らざるを得ません。それだけは絶対にダメです。
 私は明治5年に出された学制発布の前文がとても好きなのですが、そこにはこうあります(口語訳)。
「世の中には、路頭に迷い、飢餓におちいり、家を破産させ我が身を滅ぼすような人たちがいます。そうした人たちは、まさに『学ぶ』ことをしなかったことによって、人生を誤った人たちです。
(中略)
 また、学問は武士だけのもので農工商や女性については学ぶことすらさせないとかいう議論も、そもそも学問とはどういうものかをまるでわかっていない議論です。
 そういうものこそ、旧来の陋習(ろうしゅう)というべきものです。
 そんなことをしているから、貧乏や破産や、財を失うものが出てしまうのです」
 そしてこのあとにあの有名な一節が続きます。
「自今(いまより)以後一般の人民、華士族農工商及女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」
(みなさんにお願いしたいのは、これから一般の国民は、華族・士族、農民・職人・商人、あるいは男女の区別さえもいっさいへだたりなく、町でも村でも家庭でも、学校で学ばない者がひとりもいないようにする、ということです)
 一部には違った思いの人もいたのかもしれませんが、これが明治政府の意志であり気概なのです。

【人間の教育は素人の親に任せきれない】

 学校教育に関する論議の中でたびたび出される言葉、
「躾は学校がすべきことではなく、親のすべきことだ」とか、
「校外で起こった事件や問題行動は親が解決すべきだ」
などに私が賛成しないのは、そのためです。
 世の中には子どもを間違った方向にしか導けない家庭がいくらでもあるのです。能力としてその任に堪えない親もいれば、誤学習のために信念をもって間違った道を突き進む親もいます。それを止めて修正しなければ、子どもは間違った人生を歩んでしまいます。親の無知や過ちの責任を、子が取らされてはいけない、私はそう思います。

 学校の勉強なんて人生を豊かに送るためにはそれほど役立つものではありません。だから勉強などできなくてもいいのですが、できないにも「ほど」があります。日常生活に支障をきたしたり、大人になって社会で繰り返し恥をかくようなら、あるいは自分の子に訊かれてあまりにも多く答えられないようなら、それは自信や自己肯定感に関わり、人間関係にも齟齬をきたします。ひとことで言えば、あまりにも可哀そうです。
 親や家庭がそんな子どもを支えてあげられればいいのですが、親は必ずしも教育のプロではありません。
 
 夏休みに入って学校給食がなくなり、そのために栄養状況の心配な子どもが多く出ているとニュースで言っていました。ありそうな話です。日本の保護者はほとんどが優秀ですが、千組に一組といった養育能力に不安のある保護者だけでも、日本全体だとかなりの数になります。日常の子どもの栄養状況にも気を配れるのは、児童相談所と福祉事務所と、あるいは学校・NPOくらいのものです。子ども全体に目を配りながらということになると、やはり学校が適任ということになります。他にないのです。

【義務教育の学校がすべきすべてのこと】

 学校は子どもの「知・徳・体」すべての分野に関与し、責任を負うようにつくられています。
 具体的に何をすべきかは学校教育法第21条にこまごまと書いてあります()が、それを全部やらなくてはなりません。諸外国では教会や宗教指導者や党指導部や”委員長”が担う部分も、学校がすると法律で決まっているのです。その莫大な仕事を、1クラス最大35人~40人(かつては45人~50人以上)もの児童生徒を抱えて、学校はさまざまな工夫で乗り切ろうとしてきたのです。
(この稿、続く)
 
*学校教育法
第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一. 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二. 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
三. 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
四. 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
五. 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
六. 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
七. 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
八. 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
九. 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
一〇. 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。