「アン・サリバンは許さない」〜公教育の行方②

 先週の木曜日「公教育の行方」①と題して文章を書き、中絶したままです。別の話題が入って飛びついたこともありますが、木曜日に書いている最中、結局はいつも言っていることと同じ内容に収斂していくと気づいてしまったのです。それですっかりやる気を失ってしまいました。それが本音です。

 学校は本来「教育基本法にあるような理想的な国民」という型にはめることが仕事で、そのためにカリキュラムを組み教員も努力をしてきたのに、ある時期から「型にはめるな」「自由な発想で自由に活躍できる個性的な人間を育てろ」という声が強くなって現場は何をすればよいのかよく分からなくなった、という話です。
 しかし分からないからといって分かるまで待っているわけにも行きませんから実際には今までと大差ない教育を続け、その結果「いつまでも個性を無視した教育をしているのだ」と怒られ続けているのです。それが現状です。
 世の中の一部の人々は日本にビル・ゲイツスティーブ・ジョブズが生まれないことに苛立っています。しかし別の一部はビル・ゲイツスティーブ・ジョブズとともにジェフリー・ダーマーやテッド・バンディ(二人とも有名なアメリカの殺人鬼)が生まれ出て来ることを恐れていいます。

 学校はこの問題に対して及び腰です。しかし「個性教育重視」の声は確実に一般社会に浸透し、人と違っていることに価値を見出す人々が現れています。小学校に上がるまでにはこれだけは身につけておこう、これができなければ親として恥ずかしい、こうでないとこの子が可哀想だ、そう考える親が確実に減っているのです。
 大きく減少したわけではありませんが、子どもの性格や行動の偏りを、やみくもに“良きもの”として前面に押し出す保護者が現れてきたそういうことです。問題点を指摘しても「それはこの子の個性です」と突っぱねる親たち、そしてそれに呼応するかのように「これは僕の個性だ」「それはボクのこだわりだ」と短所や欠点、わがままを平気で押し通す子どもたちが小学校3年生以降に見られるようになってきました。何かができないことは能力だと言わんばかりの子どもたちです。

 それは結局「個性」を定義しないでスタートさせたところから始まった弊害です。最初に「個性教育」を主張した人々が欲したのは「社会的に役立つ(経済効果をもたらす)特異な才能を育てる教育」でしたが、それを言うと「エリート重視」の誹りを受けますから彼らはそこを曖昧にした。そこに「本気で努力しないと矯正できない子どもの性格や考え方の偏り」に苦労していた一部の親や教師が飛びついたのです。不登校や非行の問題に活路を見いだせずにいた専門家たちも飛びつきます。それは個性だから直さなくていいのだ、と。
 子どもが幼いうちはそれで大した問題になりませんからそれでも良かったのです。しかしライオンの子はいつまでも猫と大差のない大きさでいてくれるわけではありません。巨大な肉食獣が育ってしまったからといって社会全体がサファリ・ランドのようになって受け入れてくれるわけでもありません。結局ライオンは檻に入れるか殺されるしかないのです。

 アン・サリバンは獣のようなヘレン・ケラーを絶対に許しませんでした。鬼神のようになってヘレンを教育しなければ、育ち過ぎたライオンのようになるしかないと分かっていたからです。

 現在の日本の教育現場には、今でもいくらでもアン・サリバンの末裔がいます。彼らを守らなければ日本は崩壊します。 

                               (この稿、続く)