カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「発電用風車2000基はすぐに可能か。人口1億人抑制はできるのか」~科学の話がしたい①

 “正義”のにおいの強すぎるものに出会うと反射的に身構える習性が着いています。

 それは今日まで、学校が常に“正義”に晒され“正義”を背負い込んできたからです。「学校は児童生徒の学力を伸ばさなければならない」――もちろんそれは正しいこと(“正義”)です。しかし防災教育をやらなければならないことも、食育も性教育も人権教育もキャリア教育も、集団行動を高めるための遠足も修学旅行も社会見学も全部“正義”ですからそれらをすべて呑まざるを得ず、呑んだ結果が現在です。

 教員の酒気帯び運転や犯罪は「あってはならないこと」とされていますが、そこには人間の弱さや甘さに対する認識がまったくありませんから、結局、教師の不祥事はなくなりません。

脱原発脱原発依存がわからない】

 さて、その“正義”について、最近のことで言えば私が身構えているのは「脱原発」や「脱原発依存」です。これがよく分からないのです。
 もちろん安全とは言い切れない原発がなくなることはいいに決まっています。しかし現実になくせるものなのか、原発のない世界を私たちは生きていけるのか、そこが理解できません。

 先日テレビに出てきた人は「なくせるに決まっている。だって去年の夏、東京電力管内では15%の節電目標に対して実際には20%もできたのだから」とか言っていました。しかしあれは「できた」うちに入るのだろうかと私は思います。
 なぜなら去年の夏は一回限りのこととしてみんな(特に企業)が精一杯協力してくれたからで、その損失は「工場の生産額が8997億円、雇用が3万3000人減少した」(第一生命経済研究所)と試算されました。この先ずっと通年で行わなければならないとしたら、企業はそれでも喜んで呑んでくれるのでしょうか。
 しかし「だって去年はできた」に、テレビ局の人たちは誰ひとり疑問を持たないみたいです。私でも首を傾げるのに。

 また、例えば原発分は自然エネルギーで十分まかなえるという人たちの中には、こんなことを言う人もいます。
風力発電は陸上と洋上設置を合わせて全国で19億キロワットの発電が可能だった。うち東北地方は3億キロワットで、東北電力の2009年度の供給力1655万キロワットを大きく上回った」
 しかしそれは計算上の話。実際に1655万キロワット分を発電するようになるためには、一体何機の風車が必要かまったく考慮されていません。
 ちなみに、私の計算()では世界最大の風車が1986基あれば東北電力の「原発分の発電量」をまかなうことができます。その風車を横一列に並べると総延長250kmになります。この場合私の興味あるのは費用や景観の問題ではありません。その完成までに何年かかるのか、その間の電力不足はどうするのかということです。

 私は原発推進派でも何でもありませんが、こんな非科学的な会話の中で、私たちの未来が決まっていくのが怖いのです。なぜもっと科学的な会話ができないのでしょう。

 菅直人前首相はまだ在任中の昨年8月、茅野市で行われた会議でこんなことを言っています。
「(日本のエネルギーを)自然エネルギーで全てまかなうことも十分可能だ。日本の新しい産業革命につながっていく。今から二、三百年前は山にしば刈りに行ってやれていたのだから、自然エネルギーを新技術に転換すればいい」

 江戸時代だってできたのだから今でもできるはずだ、というのは十分に分かる論理です。とりあえず日本を人口3000万人の江戸時代に戻し、生活の水準もそこまで下げればいいのです。ただし私は、菅直人前首相のように一億人の人口抑制といった大胆な構想がもてないだけなのです。

(*)
 東北電力原子力発電依存度は21%なので、1655万×0.21=347.55万キロワット、つまりその分の電力を風車が生み出せばいいわけです。世界最大の風車E―126は発電量7メガワット、つまり7000キロワットですから、稼働率を25%と仮定すると、1986基あれば足りることになります。またE―126の羽根は126mあります。126×1986÷1000≒250。間を置かずにぴったり寄せて一列に並べると、総延長250kmほどになります。
 ちなみに東北電力の電力すべてを風車でまかなおうとすると、風車の数は9457基、横に並べた総延長は1200kmほどということになります。東北新幹線の東京―新青森間が674・9km(営業キロは713・7km)ですから、とんでもない距離ということになります。
 以上の計算は違っているのかもしれません。しかしそれが「違っているかどうか」は純粋に科学の問題となるはずです。