カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「エコロジーのわかりずらさ」①

 パリで開かれていたCOP21が終わりました。
「今世紀後半には、温室効果ガスの排出量が森林などの吸収を下回る実質ゼロを目指す」
 今世紀後半といったってまだ85年もあるじゃないかとか思いながらも、協定もまあないよりはましかと思ったりもしています。

 私ども夫婦は極めてケチで必然的にエコな生活を送っていますが、いわゆるエコロジストではありませんし環境保護とか反原発とか、反森林破壊とかにはあまり興味がありません、と言よりよくわからないのです。

 例えばダイオキシン
 十数年前まで青酸カリの2万倍、サリンの数倍の毒性があると言われ、はじめのうちはビニルやプラスチック製品の焼却がダメと言っていたのに、最後には何を燃やしてもダイオキシンは出るということで学校にあった巨大焼却炉(マル秘文書の始末にとても都合がよかった)を始め各家庭の焼却炉(庭木を焼くのに便利だった)を潰し、伝統行事の左義長や奈良の山焼きまでが危うくなったのに、いつの間にか誰も言わなくなってしまいました。それがわからない。

 考えてみると仁徳天皇の昔から、民はかまどで煮炊きをし(高き屋に のぼりて見れば 煙たつ 民のかまどは にぎはひにけり)、火事には総出で駆け付け、うなぎ屋のおっちゃんも焼鳥屋のおばちゃんも煙にまみれて働いていたのに、青酸カリの2万倍のダイオキシンで死んだ人の話を私は知らない。今日まで(おそらく)一人もダイオキシンのために死んでいない――そんな“猛毒”のために私たちは大変な努力をしてきたのです。そこがわからない。

 次。
 割りばしは森林破壊につながるといって「マイ箸」を持ち歩く人もいましたが、「あれは間伐材を使うので割りばしがなくなったら間伐への意欲が薄れ、森が荒れる」という話になり、「やっぱ使った方がいいじゃん」とか思っていたら「いや割りばしのほとんどは中国東北部から輸入される材木からつくられているのであって、現地では深刻な森林破壊が進んでいる」という話になり、「やっぱダメじゃん」と思ったら、「いや、それは中国の問題で、切ったら植林をするのが常識。自然林をほったらかしにすれば森そのものが弱るから伐採して植林するのがベスト」とか言い出す人もいて、割りばしは使った方がいいのか悪いのか、さっぱりわからなくなりました(もっとも私の家は外食も弁当購入も合わせて年1〜2回しかしませんから、何の影響も与えていないようなものですが・・・)。

 COP21は主として地球温暖化阻止のために温室効果ガスをどう減らそうかという話し合いでした。しかし2011年の春から2013年の末まで、日本国内で温室効果ガスが話題になったことはほとんどなかったように思います。もしかしたら温室効果ガスも都市伝説ではないかと思ったほどです。
 原発をすべて廃炉にし、再生可能エネルギーと火力発電だけでやっていこうというときに、二酸化炭素の問題を取り上げようという人はいなかったのでしょう。そしてその間、電力自由化の影響もあって多くの企業がより安い燃料を求め、今や火力発電は石油から石炭に向かおうとしています。日本人のやることですからそれでPM2・5が蔓延ということもないと思いますが、何か方向が違っているようにも思います。

 私は反原発でも容認派でもなく、しいて言えば戸惑い派としか言いようがないのですが、原子力発電を「トイレのないマンション(使用済み燃料の処理方法もないまま始めてしまった)」と表現する人たちは、地球規模の二酸化炭素の処理方法もわからないまま始めてしまった火力発電をどう考えているのでしょうか。
 さらに(これは誰も言わないのでほんとうにいつも不思議に思っていたのですが)耐用年数70〜100年のコンクリートでできている巨大ダム、補強に補強を重ねて延命を図るにしてもいつか限界が来ます。その日をどうするのか。私はかつてダムの町に住んでいましたし今はその下流域に住居を定めていますから特に心配です。これだって「トイレのないマンション」ではなかったか、そんなふうにも思うのです。

 しかし私の一番強く感じているのは、そうした一般的な問いではありません。こうした状況に対して学校の先生たちはどう対処したらよいのかという、極めて具体的な問題なのです。

(この稿、続く)