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「教え子を再び戦場に送るなと、あの日は真剣に思った」~アンパンマンと戦後社会②

 NHKの朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは、
 教え子を戦争に向かわせた自責のために職を辞した。
 他の教師たちは戦争のない平和な国づくりを目指した。
 しかしそれも、今は昔のことだ、
 という話。
(写真:フォトAC)

 一昨日のNHK朝ドラ「あんぱん」の、主人公の二人、柳井嵩(北村匠海:モデルはやなせたかし)と将来の妻:のぶ(今田美桜)が4年ぶりに再会する場面についてお話ししています。

【戦争に反対した教師もいた】

 この回の「あんぱん」についてはデイリー新潮が一昨日*1、次のように書いています
『のぶは子供たちに詫びる。「先生はみんなに間違うたことを教えてきました」。敗戦後の第61回の(放送分での)ことだった。1936(昭11)年に女子師範学校に入り、担任の黒井雪子(瀧内公美)に国家主義を叩き込まれているころには予想もしなかっただろう。謝罪を行ったのはのぶだけではない。教師個人の判断で全国的に行われた。
(中略)
 国家主義教育に関わった教師は大勢いた。だからといって「仕方がなかった」では済まされなかったので、難しかった。のぶの苦しみもそこにある。戦時下でも国家主義教育に懐疑的だった教師は少なくなかったのだ。国家主義を断固拒否した教師も存在した。
 たとえば1937(昭12)年、平和教育に取り組んでいた京都府京丹後市の小学校教員は警察署で事情聴取を受けた。その最中に変死する。警察側は遺族に対し、「遺体を医者に見せるな」と命じた。
 墓石には「平和を愛し戦争に反対して」と刻まれた。享年42。(中略)これは一例に過ぎない』

【戦争は始まったら拒否できない】

 世の中にはこういう人もいた、だからお前もできたはずだと言われるのは辛い。
 来月97歳になる私の母は、今年が終戦80周年であることを考えるとその年に17歳だったことはすぐに計算できますが、やはり熱烈な軍国少女でした。それから数えてわずか8年後に少女は母親となり、生まれた子、つまり私はやがて思春期に差し掛かるとそんな母親を恥じたのです。命を懸けて戦争に反対した人がいた以上、自分の母も反戦の士であって欲しいと思ったからです。しかし母はそんな17歳ではありませんでした。
 当時21歳だった父の方はさらに悪くて、昭和20年の3月の都城(宮崎県)で、特攻隊に志願したりしています。つまり私は軍国主義者の息子だったのです。

 もちろんそんな思いにいつまでも囚われていたわけではなく、いくらもしないうちに自分も同じであろうことを知るに至ります。「あんぱん」の中で八木上等兵妻夫木聡)は「戦争で生き残りたければ卑怯者になることだ」と言いましたが、「かつての同級生が戦争に行った」「隣の○○ちゃんが戦死した」「親戚の家では3人も出征してふたりが死んだ」といった状況で、「ボクは行きません」とはとてもではないが言えないことです。どうせ征くのならと勇猛果敢な言葉も残しかねません。
 戦争は始まってしまったら拒否できないのです。

【デイリー新潮は無罪か】

 デイリー新潮の出版元である新潮社は、戦前から続くメディアとしては比較的翼賛色の薄い出版社でした。
 日中戦争の始まった1937年には尾崎士郎『人生劇場』(上・下)を刊行し、太平洋戦争の始まった1941年には吉川英治の『新書太閤記』全9巻の刊行を開始、戦況がまったく不利になった1943年に山本有三の『米・百俵』を刊行していたという、いわば雲の上に避難していたような企業でしたから、戦争に加担した教師たちを責める資格があるとでも思っているのかもしれません。

 しかしもともと教育は国家の権利であり、統治の手段でもあります。現在の日本では公立学校でキリスト教を布教することはできませんし北朝鮮の主体(チュチェ)思想や毛沢東思想を広めることもできません。国家がそう決めたからです。その意味では、反戦を貫いて死ななかったと戦後に生き残った教師たちを責めることはできないはずです。

 反戦を貫いて死んだ教師も、あるいは昨年の朝ドラ「虎に翼」に出てきた「戦後のヤミ米を拒否して餓死した判事」も、それぞれりっぱな死ではありますが、一昨日の「あんぱん」の嵩の一言、
「のぶちゃん、死んでいい命なんて…ひとつもない」
に、と対応させると難しい話になります。
「卑怯者とならないために死ぬ」のと「卑怯者と呼ばれても何が何でも生きる」のと、どちらが正しいかは案外難しい問題なのです。

【教え子を再び戦場に送るなと、あの日は真剣に思った】

 終戦の年、大きな価値転換によって自分を見失った人々は大勢いました。中でも積極的に国家主義と戦争を翼賛してきた教師たちの心の傷は深く、のぶと同じように教育の世界にいられなくなった人たちも多くいました。
 子どもを生かし育てるのが天命なのに子どもを戦場に送ってしまった――。
 一昨日ののぶの言葉を借りれば、
 取り返しのつかんことをしてしもうたがや。あの子らあを戦争にしむけてしもうたがはうちっちゃ。(中略)あの子らあの自由な心を塗り潰して、あの子らあの大切な家族を死なせて…。うち…生きちょってえいがやろうか。
 それはおそらく、当時のほとんどの教師に共通する思いだったはずです。のぶは続けて嵩に問いかけます。
「はあ、うちは…どうすればよかったろうか」

 戦後GHQの指導下で労働組合ができた際、日本教職員組合日教組)は「教え子を再び戦場に送るな」を旗印にしました。それが「どうすればよかったろうか」のひとつの答えでした。
 「国家を最優先にするのではなく、教え子を最優先にすればいい。そのための教育をこれから始める」という強い決意を表す言葉です。その中には「自分たちが教え子を殺した」という明確な自責の念が込められています。
 昭和20年の教師たちは、二度と教え子を戦場に送ることのない学校をつくることで贖罪にしようとしたのです。

【私たちが日教組の息の根を止めた】

 戦後も20年、30年と過ぎてきて、私のような戦後生まれ・戦後育ちが中心になってくると、教師たちの間でも《自分たちが教え子を殺した》という思いは共有されなくなってきます。そして労働条件の改善など、足元のこともきちんとやれないのに世界平和の話ばかりしている組合(日教組)が鬱陶しくなってきます。社会的にも一部の人々によって、日教組反日組織、日本の弱体化を図る社会主義の手先とみなされ、叩かれることになります。そして昭和の終わりごろ、日教組は実質的な力を完全に失ってしまいます。
 これほど教師の働き方改革が問題になっても、誰ひとり組合に頼ろうとすることはなく、マスコミも取材に行ったりしません。ほかに教員を代表して政府や社会と掛け合ってくれる組織はなく、声を上げたい教師たちの活動の場はSNSくらいしかないのです。
(この稿、終了)