「指導案をつくるということ」

 昨日、指導案審議をする中で、さまざまな思いに駆られました。私は指導案をつくることがかなり好きなのです。いや、正確に言えば、指導案というもの自体が好きなのです。

 「こういう手を打てば(手立て)児童はこう考えるだろう」とか、「多分ここではこちらにそれるから更にこういう手をかぶせ、あるいはあちらに動く子がいたらこう抑えて」とか、それは果てしのない心理の読み合いです。したがって、よくできた指導案は心理と論理の結晶だといった言い方ができます。

 そうした結晶のような指導案に出会うと、何かのミスで授業自体が失敗しても、私は全力で応援したくなります。そのミスさえ防げば、私でもうまく授業が進むような気がするからです。

 逆に、指導案の段階では「なんで、これで授業が進むワケ」というようなものでも、授業者の芸術的な手腕ですばらしい授業が成立してしまう場合もあります。ただしそんな授業はまったく感心しません。芸術というのは、真似できないところに真価があります。そんな指導案をベースに授業を行えば、私の場合はきっとめちゃくちゃになってしまいます。

 指導案をつくるのは、どれだけ静かに児童の心に身を寄せられるかという点が勝負です。一種の集中力の問題であって、将棋や碁で双方の手筋を読むように、いつまでも果てしなく(締め切りには間に合うようにしながら)、子どもたちの思いの行方を見つめます。