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「水晶の指導案」~隅々まで寝られた指導案は美しい

 研究授業などで指導案を考えているとき、私は“指導案”という文書自体が非常に好きなのだなと思うことがよくありました。考えるのも好きですが、指導案そのものが好きなのです。

 よく練れて一分の隙もなく、論理的で、読んだだけで「ああ、この指導案なら確実に子どもは動くな、これなら1時間をやったに値する十分な成果が得られるな」そう思えるような指導案のことを、私は水晶の指導案と呼んでいつも目標にしてきました。

 しかし実はそうした指導案を作成することは、それほど困難なことではないのです。実際の授業は様々な不純物(生徒の体調やとんでもない思い違い、授業者の身振りや声の調子など)に揺らされますが、指導案は不純物の一切ない単体ですから、十分に時間をかけ一生懸命考えればなんとかなるものなのです。いや、正確に言えば予想される授業から一つひとつ不純物を排除していくのが、指導案作りの大きな仕事なのです。

 私も幾度となくそうした“水晶の指導案”を書き上げましたし、今でもしばしば“水晶の指導案”に出会うことがあります。そうした指導案に出会ったときは授業がどんなにボロボロになろうとも、指導案作成者の側に立って指導案を守る側で発言しようと心に決めていました。なぜなら“水晶の指導案”で失敗するのはたいてい児童生徒が授業案作成者の意図をはるかに超えて、大きく成長してしまったときだからです。

 さて、指導案を作成するときに、まず考えるのは児童生徒の実態です。次に考えるのが1時間の授業の終了時に「どのような力がついていればよいか」「どういうことができるようになっていなければならないか」という授業の目標です。この「実態」と「目標」は関数ですから、「実態」が低ければ「目標」もそれに応じて下げなければなりません。

 この「実態」と「目標」を結ぶのが「学習活動」です。「目標」は常に「実態」より上にあります(目標の方が低いなどということはありえません)から、児童生徒は「目標」達成のために何かを乗り越える必要が出てきます。その「乗り越えなければならない何か」のことを「学習課題」と言います。

 たとえばそれは国語で「『静かに目を閉じました』という、そのときの主人公のほんとうの気持ちを考えよう」といった形になります。「『そのときの主人公のほんとうの気持ち』を理解することができれば、一般的な人間の心情のあり方や人のあるべき心の動きが理解できるようになる、一段ステップアップする」という教師の確信があって初めて課題になるのです。

 では「学習問題」とは何かというと、これは学習課題を引き出す糸口ですから、極端な話「教科書の23ページから24ページまでの読み取りをします」でもかまいません。数学だったら「8と12の最小公倍数について考えよう」でかまわないのです。

 実態が明らかにされ、目標が設定されて学習課題と学習問題が置かれたら、ここからが教師の腕の見せ所です。コンピュータ・プログラミングなら虫取り、プロスポーツなら作戦会議。敵が(児童生徒が)こう考えたらこうした発問で切り返そう、あっちに逸れたらこちらの子に発言させて引き戻そう、こちらへの動きが鈍かったらこの資料で推進力をつけよう、こんな動きをしたらこう支えよう・・・そういったすべての不純物の排除が、指導案作りの後半の仕事になります。もっとも面白いところです。こうして“水晶の指導案”はつくられます。

 こんなやり方ですから私の指導案はいつもガチガチで「こんな指導案じゃ子どもは自由に活動することなんかできないよ」といった批判を受けることもありました。しかし私には確信があるのです。私は児童生徒を信頼しています。

 どんなにガチガチの指導案をつくっても、子どもは絶対に私たちの思い通りにはならない、必ず逸れてくれる、のです。
 自由に飛び回り私たちには思いもつかないとんでもない発想で、私たちを特別な場所へ連れて行ってくれます。それが子どもです。