カイト・カフェ

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「自由の鎖、あれかこれか」~若者の問いに答えるために④

 私たちは自由だ。何を選んでもいい。
 しかしひとつを選んだ以上、
 他のすべてを諦めなくてはいけない。
 それが自由の鎖、あれかこれかの問題だ。
――という話。(写真:フォトAC)

【青い鳥を求めて】

 誰でも内容は知っているのに、実際に本物を読んだ人はほとんどいない、そうした本のひとつに、メーテルリンクの『青い鳥』があります。主人公の兄妹チルチルとミチルは、幸福をもたらすという青い鳥を探して長い旅に出る。けれど結局みつけることができず、落胆して家に戻ると、青い鳥はそこにいたという有名な話です。「幸福は遠くにあるものではなく、身近なところにある」という教訓を描いた児童文学らしいのですが、読んだことがないので細かなところはわかりません。
 ただ、日本の若者が「自分探しの旅」に出るのも、チルチル・ミチルが「青い鳥」を探しに出たのも、同じことではないかと思ったので書いてみただけです。

【まず生まれて、そこから考える】

 人間の生み出したもののほとんどは、実際に生まれる前に創作者の頭の中にイメージとして存在し、時には実物に先立って設計図も作られ、やがて具体物になります。一昨日は鉛筆を例に書きましたが、まず「インクの汚れや持ち運びを気にせずに使える簡便な筆記用具」というイメージがあり、「黒鉛を粘土で固めて焼き、木の軸で挟んで手で持てるようにする」という設計図がつくられて、そのあとで実物の鉛筆はつくられるわけです。
 しかし人間は違います。
 神様のような存在が思い浮かべたイメージがまずあって、個々の人間が生まれてくるわけではありません。とりあえず生まれてくる、生まれてからどうするかを考える――。

 もちろん親がアスリートで、最初から生まれた子どもをオリンピアンにしようとする計画があったとか、もっと現実的な例を挙げれば家業を継ぐ跡取りが必要だったとか、生まれる前からそうした予定のある場合もありますが、親が決めたからといって、それで選択の余地がなくなるわけではありません。優秀な親から生まれても本人に才能がなければオリンピアンにはなれませんし、跡取りとして生まれた子が必要な能力だけを持って生まれてくるわけではありません。むしろ親の望んだ方向から外れたがるのが人間です。そこが「字や絵を書く以外の使い道がない」鉛筆と違う点です(人を刺したり、二本で箸がわりに使ったりするのは論外です)。人間は自由なのです。

【自由の鎖、あれかこれか】

 能力のことさえ考えなければ、人間は何者にもなれる、何を望んでもいい。その点で無限に自由なのですが、無限に選べるわけではありません。一度消防士になったら次は警官、次は教師というわけにはいきません。同時にいくつかを兼ね備えるわけにもいきません。選択肢は山ほどなのに、選べるのはひとつです。
 そのことをキルケゴールは「あれか、これか」と言い、サルトルは「人は自由であることを強いられている」と言いました

 「自由に選んでいいが、ひとつしか選ぶことができない」
  そうなると選択は苦痛です。100枚のセーターから一枚を選ぶのは、3枚のセーターから一枚を選ぶのに比べて圧倒的に自由なように見えますが、後者が2枚あきらめればいいのに対して、前者は99枚もあきらめなくてはならないと考えると、どちらが良いかはかなり微妙なのです。
 自由主義世界に生まれ自らの才能に頼むところの多い若者が、世の中にある幾千もの生き方の中から一つを選ぼうとする、それは100枚のセーターから1枚を選ぶような仕事です。
 一度しかない人生の、そう何度もあるはずのない選択の機会に、誤った判断はしたくない。できれば100%正しい道を選択して、自ら才能を開花させて情熱的に生きていきたい――そう願うのは無理のないことです。
「何のために生まれて、何をして生きるのか、分からないまま終わる、そんなのは嫌だ」
というアンパンマン・マーチの歌詞は、そうした若者の気持ちを反映したものです。

【老爺は語る】

 しかしこの件に関しては、繰り返し若者たちの突き返していくしかありません。
「何のために生まれて、何をして生きるのか」は、予め決まっているものではない。いくら歩いても、いくら数多くの経験をしようとも、「本当の自分」がどこかにいたり、眠っていた才能が突然めざめて大きく膨らんできたりすることはない。
 それらは自分の外にあったり、自分の奥深くに潜んでいたりするものではなく、自分で生み出し、育てていくしかないものなのです。それが70年生きてきた老爺の忠告です。
(この稿、続く)