不登校がいよいよ35万人にもなったという。
学校に行かなくていいと言った人たちは、今、何を考えているのだろう?
学校に行かない自由を選び取った子どもたちは、
まるっきり自由ではないというのに――、
という話。(写真:フォトAC)
【私は間違っている】
私は次のような考え方を非常に不健康なものだと考えます。
「『不登校35万人』の何が問題なのか分からない。日本の小中学生は922万人もいるのだ。35万人はその3.8%に過ぎない。本当に微々たるものだ。
だいたいこの多様性の時代に『不登校という生き方』を選んだことの何がいけないのか。それは無数にある生き方のひとつにすぎないではないか。それに、今の段階で不登校は、親以外の誰にも迷惑をかけていない。その親にしても実際には心配しているだけで迷惑がかかっているかどうかは疑わしい。仕事に行けないというのは親がそういう選択をしたからであって、不登校の子が行くなといったわけではないだろう。
その可能性は極めて低いと専門家は言うが、不登校がそのまま引きこもりとなって、遠い将来、大きな負担になったとしても、それは社会全体で面倒を見ればいいことであって、誰か個人に責任を負わせるべきではない。
どんな生き方であってもそれは本人が選び取ったもので、誰にも干渉されない独立した権利である。もし世の人々の同調圧力によって、その子が学校や社会に出て来なくてはならなくなったとしたら、それこそ本末転倒だ。人間は自由に生まれ、自由に選択し、自由に生きるべきであって、何者にも強制されることはあってはならない」
もちろんこうした考え方は正しいものではありません。しかし私の気持ちの中には、それを完全に否定しきれない何かがあります。このような考えに対して、背後から「そうだ、そうだ、その通りだ」とはやし立てる数十万人の声が聞こえる気がするのです。
私は完全にネットに毒されています。
【どこが間違っているのか】
上に書いた文章が間違っている部分はいくつもあります。
不登校3.8%は決して小さな数字ではなく、平均で25人にひとり、つまり一学級に1~2人の割合で学校に来られない子がいるわけで、単に学校の負担という面から考えただけでも、担任の先生がやらなくてはならないことは膨大になってしまいます。
しかもその子たちは能動的に「不登校という生き方」を選んだわけではなく、追い込まれてそこにいるのです。追い込んだのが自分自身である可能性も含めて、誰が、何が、その子に不登校を強いたのか、大きな問題ですが選んだわけではないことには変わりありません。
さらに言えば「誰にも迷惑をかけていない」ということは何の免罪符にもならないのです。迷惑さえかけなければ何をしてもいというのは、少なくともこの国では道徳的とは言えないからです。
何十年か先、何のスキルも経験も持たぬ数百万の人々が、親の死を契機に部屋から出てきます。そのとき社会はこの人たちを放置することはしないでしょう。危険すぎます。だから日本社会全体で面倒を見なくてはならないのは事実ですが、それにしても、事前に避けられることなら避けた方が良いには違いありません。
以上、いくつかの点について自ら反論しておきましたが、そういったすべては、実は些細なことです。私が書いた文章の一番の過ちは、
「人間は自由に生まれ、自由に選択し、自由に生きるべきであって、何者にも強制されることはあってはならない」
という部分にあります。なぜなら不登校で引きこもっている子たちのほとんどは、学校の勉強や人間関係からは自由であるにしても、自分の部屋に縛られ、そこから一歩も身動きが取れないからです。とんでもなく狭い場所に閉じ込められ、しかも生き生きと生きてはいない、そうした子がほとんどです。
【制御されない自由は奪われるか、私たち自身の手で譲り渡される】
「全員を完全に自由にしてしまったら、誰も自由でなくなる」
これは私が初めて学級担任になった時、クラスを絶望的なまでに荒らしてしまった上で得た、恐ろしい教訓です。子どもたちは(大人もそうかもしれませんが)、「責任に裏付けられた自由」などというものは望んでいません。人間にはすべてから解き放たれたいという強い衝動があるのです。
しかし自由はきちんとコントロールされなければ「自由を奪う自由」を濫用する強者によって奪われてしまいます。もしくは制御できなくなった自由に困り果てた私たち自身が、誰かに譲渡してしまうのです。ワイマール共和国民がアドルフ・ヒトラーにしたように。
(この稿、続く)