現実の自分はこんなちっぽけでみすぼらしいが、
本当の自分はもっと情熱的で才能にあふれ、輝いている。
その輝く「本当の自分」を探して、若者は旅に出る。
そういうものだと学んできた。
――という話。
(写真:フォトAC)
【何のために生まれてきたのか、老人に聞けば――】
今週の話を、私は、
「この齢になってもなお、何のために生まれてきたのか分からない、人生もあとわずかだというのに、何をして生きるのかも分からない」
というところから始めました。アンパンマンマーチからの発想です。では、私以外の同年輩の人たちはどう考えているのでしょう?
恥ずかしいので聞いたことがありませんが、おそらく多くは、
「そんなことは考えずに、目の前のことを一つひとつやってきた」
と答えるに違いありません。
あるいは仲間の中には、
「教師になるために生まれてきて、教育を行って生きてきた」
という人もいるかもしれません。
同じ構文で「教師」や「教育」の部分を書き替え、
「建築士になるために生まれてきて、大規模工事に関わって生きてきた」
という人もいれば、
「父親になるために生まれてきて、子育て・孫育てを行ってきた」
という人だっているかもしれません。
自分の人生の最も誇りに思う部分を拾って、人々の前に提示すればいいのです。それで「なんのために生まれて、何をして生きるのか」の答えになります。
しかしその話を現代のアンパンマンにしてやっても、果たして納得してくれるかどうか――。ここで言う「アンパンマン」というのは、
「何のために生まれて、何をして生きるのか、分からないまま終わる、そんなのは嫌だ」
と叫ぶ若者たちのことです。
タイムマシンに乗って彼ら一人ひとりの未来に行って様子を見てきて、
「君は不動産屋さんになるために生まれてきて、たくさんの人たちに素晴らしい家や部屋を紹介して生きるんだよ」
「君は機械メーカーのセールスエンジニアとして、素晴らしい機械を多くの人たちに紹介し、相手と自分の会社に大きな利益もたらしながら生きるんだ」
そういわれて、現代のアンパンマンたちは納得するでしょうか? それで喜ぶのでしょうか?
【現実の自分と本当の自分】
もちろん、
「ああ、ボクが大きな失敗もなく、そこそこの人生を送ることのできる“正解”はそれなのか」
と歓迎する若者もいるかもしれません。しかし大方は違っているでしょう。
彼らの知りたい「何のために生まれて、何をして生きるのか」は、もっと情熱的で、熱狂的で、自分の中にある才能や天分を存分に生かして生きることのできる何かです。炭治郎(「鬼滅の刃」)が持っているような、命もかけても惜しくない何か、すべての時間とエネルギーをつぎ込んでも後悔のしない何か、そしてできれば桃太郎が手にすることができたような巨大な価値を生み出す何か――。
なぜなら子どもたちは、小さなころからそう躾けられてきたからです。親たちからではありません。彼らを取り巻く巨大な情報網から繰り返し「夢を持て」「夢に向かって進め」「自分に正直に生きろ」と教育されてきたからなのです。
ですから彼らは「夢」のない人生など考えられないし、夢に向かって進まない人生もあり得ません。夢に向かって進む自分こそ「本当の自分」であって、人間はそうした「本当の自分」に嘘をついてはならないのです。「本当の自分」に対して正直に生きる生き方こそ、人間の進むべき人生なのです。
そしてここに至ってようやく、「夢」の有無、正直になるべき「自分」の存否が問題になってきます。本当に価値があり自分に向いた(自分に可能な)夢とは何か、正直になるべき自分とは何か――そこから「自分探し」の旅が始まります。
三谷幸喜氏が「世の中の物語の9割は自分探しだ」という所以がここにあります。
【旅路の果て】
「自分探し」の旅は「今ここにある自分」は「あるべき自分」とは違うのだという認識から始まります。
実際にここにいる自分は「まだ何者でもない自分」であり、「他の人々から区別されない、簡単に他の人々の中に飲み込まれてしまいそうな、ちっぽけで没個性的な自分」です。しかしそれは仮の姿であって、「本当の自分」はもっと個性的で力にあふれ、輝いていなくてはなりません。ふたつの「自分」は今でこそ分離していますが、何かを契機に、何かの経験を通して、一気にひとつのものとなっていくはずです。どうでなくてはいけません。
具体的に言えば、自分を強力な引力で引き寄せて離さない何かに出会う、あるいは自分の中にある特別な才能に気づく、運命が自分をねじ伏せ、否が応にもある特別な方向に引っ張っていく――自分探しの旅路の果てには、そんな素晴らしい世界があるのだと、現実のアンパンマンたちは感がるわけです。
しかしどうでしょう。「本当の自分」は、果たして自分の外の、どこかにいるものなのでしょうか。
(この稿、続く)