カイト・カフェ

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「イスラム国物語」~なぜ学生はISに加わろうと思ったのか

 二十歳のとき、私は自分が天才だと思っていました。
 絵も描ける、音楽もできる、文も書ける――もちろん明日から生活ができるほどではないにしてもそのうちの何かで天才であることは間違いないと思っていたのです。しかしそれが何の天才か分からない、それが悩みでした。

 そうした悩みを抱えながら、高校も普通科を選び大学も無難な学科を選択して可能性を狭めないよう注意してきた私も、二十歳をすぎるとさすがに切羽詰ってきます。何かを選ばなくてはなりません。しかしそれができない。
 選べるのは基本的に“ひとつ”しかないのです。他はすべて諦めなければなりません。もちろんその“ひとつ”が正解ならいいのですが、誤った場合は取り返しがつかないのです。それがとんでもない間違いであり、真の“天才”が別のところにあったら私は自分の人生と才能をドブに投げ捨てることになります。
 そこで、私はこんな物語を書きました。

『アリス』 
 ある日アリスは一人の女神に出会いました。
 女神はアリスに向かって、こう言いました。
『アリスよ、あなたはいい子なので願いを一つだけかなえてあげましょう』
 そこでアリスは答えました。
『ドレスがほしいの』
 女神はさらに言います。
『それではここに100枚のドレスがあります。どれでも好きなものを一つお取りなさい』
 アリスはすっかり喜んでさっそくドレスを選び始めましたが、何時間かかっても選ぶことができず、すっかり困ってしまいました。
 本当に困り疲れ果てたところに、一匹の悪魔が訪れ、
「アリス、お前の悩みは分かっている。オレが97枚奪ってやろう。この97枚はつまらないドレスだ。お前は残りの3枚の中から一つだけ選べばいい」
 そう言います。
 アリスは程なく1枚のドレスを選び終わると、小さくこう呟いたのです。
『悪魔って本当にステキだわ』

 あとから考えると私の“天才”など典型的な「器用貧乏」です。しかし若く傲慢で、そのぶん異常に臆病で自己を試さなかった私は、本当に切羽詰って誰かが決めてくれることを本気で願うようになったのです。
 誰でもいいのです。私の“天才”を見極めてくれなくてもかまいません。とにかく強力な存在が有無を言わさぬその恐ろしい強制力で私の未来を決めてくれたらいい、せめて可能性の枠を狭めてくれたらいい――そんなふうに思っていいました。
 何を決めてもいいがその責任はすべて自分で取らなければならないという“自由”が、私には非常に不条理に思え重荷だったのです。

 昨日、日本の若者が“イスラム国”に参加しようとして警察の事情聴取を受けているというニュースに接したとき、まず思い出したのがそれです。貧しく力もなく自由しかない若者には、宗教の厳しい戒律と正義が正義であるような分かりやすさは、むしろ耐え難い“自由”からの自由ではないかと思ったのです。

 さて、上の話とは重ならないのですが、もうひとつ思い出したことがあります。1982年のアメリカ映画「ランボー」の一場面です。
 州警察に追いつめられ反撃に出て街を破壊しつくしたベトナムの帰還兵ジョン・ランボーは、最後にこう言って嘆きます。
「(ベトナムでは)ヘリも飛ばした、戦車も走らせた。100万ドルもする武器も任された。そのオレが国に帰れば駐車場係の仕事もないんだ」

 裏を返せば、日本国内では駐車場係の口もない人間も、シリアに行けば100万ドルの武器を任せてもらう機会があるのかもしれないのです。子どものころからコンピュータのシューティング・ゲームで修練を積んできた若者にとって、それはあながち荒唐無稽な夢ではないのかもしれません。

 そして三つめは“生きる実感”です。
 皮膚のピリピリするような感覚、筋肉がみなぎり骨の軋むような――肉体と精神がこの世に確かに存在して躍動している絶対的な“感じ”です。それはスポーツの中で体をいじめている最中にも瞬間的に実感できるものですが、生活の中にはない、特に学生生活の中にはないものです。
 ドストエフスキーが『罪と罰」の中で言ったような、
 まわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、そしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ち続けていなければならないとしたら、それでも今死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!
 そういった感覚です。

 いずれにしろ、これは日本を含む西欧諸国が考えなくてはならない問題です。“イスラム国”がインターネットを駆使して効果的にリクルートしているからといったことではありません。