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「人間の本質は優しさと弱さだと、ドラマに教えられる」~夏ドラマから知ったこと考えたこと③

 日本テレビのドラマ「何曜日に生まれたの」を見ながら、
 ドラマや芝居を見たり、小説を読んだりすることは、
 私たちが人間関係や社会を解きほぐす練習をしているようなもの、
 人間の本質は優しさと弱さだと、教えられているようなものだと思った。
という話。(写真:フォトAC)

【薄っぺらな人も厚みのある人も、同じように周囲を動かす】

 世の中には薄っぺらな人間はいない――そう言いたいのですが、いることはいます。仮面を剥いだらその下に何もないような、のっぺらぼうのような人間がやはりいて、逆に、中国の伝統芸能「変面」みたいに下から下から、いくらでも仮面の現れる人もいます。

 ただし薄っぺらな人の人生に価値がなく、多重仮面の人の人生が重いわけではありません。物事をあまりにも軽々しく扱い、まるで何も考えていないように見えて、その実やはり深く考えていなかったとしても、その人のわずかなウソ、思わず隠してしまった秘密、意図的に跡を消した思いやり、そういったものが人間関係において決定的な役割を果たしたり、周囲を大きく動かしたりすることも少なくないからです。
 
 その“見えないもの””隠されたもの”から、価値あるものを拾い出し、もつれた綾や誤解を解きほぐして本質を明らかにし、説明してくれる、そうした人がいてくれたら、私たちはもっと傷つかずにすんだはずですし、もっとだれかに優しくなれたはずです。
――と、そんなことを言い出したのは、まもなく最終回を迎える日本テレビの「何曜日に生まれたの」が、まさにいま私が望んだような人間関係の解説者、人生の探究者を扱っているからです。
 ある一定の関係をもった若者たちが長く抱えてきた小さなこだわりや疑念を、ひとつひとつ丁寧にほぐして、それぞれが隠した優しさや弱さ、傷つきやすさを明らかにしていく、そうした人物が主人公です。

【人々の背後にあるもの】

 実はこのドラマ、ネット上ではあまり評判がよくないらしいのです。私はトップ4に入れたのに――。
 脚本を書いた野島伸司という人は1990年代に「高校教師」「人間・失格」「未成年」の三作をヒットさせ、テレビドラマの世界に不動の地位を築いた脚本家のようです。そのころ私は中学校の学級担任で、ドラマというものを全く見なかったので知らなかったのですが、Wikipediaには、
『暴力、暴言、レイプ、いじめ、障害者、自殺など現代人の暗部を過激、露悪的に切り取った作品を多く手掛け』
とありますから、90年代からの野島ファンからすれば、今回の作品は相当に物足りないのかもしれません。露悪的どころか「善きこと」「弱きこと」を暴露する――強いて言えば“露善的”な物語ですからまったく違います。
 ただし、『「登場人物らの背景に何があるのか」(中略)など、サスペンスの要素を織り込んだ』(同じくWikipedia「高校教師」より)という作風は今も生きていて、全編は推理小説のように進みます。
 
 「日ごろつき合っているようには見えなかったふたりがバイクで海をめざした」と言えば当然そこに告白めいたものが想像されます。しかしもしかしたら男女の愛の告白ではないのかもしれない――。
 上昇志向の強い妻は会社の上司と深い仲になり、夫を棄ててマンションを出た、そう言えば自立志向の強すぎる女性の冷酷な振る舞いが想像されますが、実はそうでないのかもしれない――。
 「何曜日に生まれたの」にはそういった場面が随所に出てきます。

 もちろん目に見えて耳に聞こえた事実から導きだした常識的な判断(愛の告白があったのだろう、不倫をしたのだろう)をいちいち疑っていたら生きていけませんから、ひとまずそれに従うとして、しかし心の片隅の百分の一、いや千分の一ほどの空間に、常識を疑う自分を置いておかないと大切なものを見失います。
 なぜなら人間関係はちょっとした判断の狂いや欲望、あるいは思い遣りや優しさから出た小さなウソや欺瞞、さらには折り重なる猜疑心や度重なる誤解、そういったものによって簡単に動き出し、場合によっては取り返しがつかなくなることもあるからです。
 明らかになってみれば本当につまらないことのために、問題を抱えながら生き続けている人もいます。
 
 そのことをドラマの主人公はこんなふうに言っています。
「誰かの魔が差す発火点、様々なキャラクタの複合的な疑心、誤解。物語は捉え方でいかようにも動きます。種を明かせばそれほどのことではなくても」(第6話「オレンジウィッグの堕天使」)

【人間の本質は優しさと弱さだと、ドラマに教えられる】

 私はドラマを見たり小説を読んだりすることの意味は、こうした《本当は単純なのになぜか複雑にしてしまっている》人間関係の綾を、私たち自身が解きほぐすために訓練をすることだと思うことがあります。誰かの物語を借りて、「人間とはこういうものだ」「人間関係はこんなふうに見るとわかりやすい」と繰り返し学習するわけです。これをもっとあからさまにしたのが学校の道徳の授業でしょう。
「何曜日に生まれたの」は、人間関係の中で人々が隠したものを優しく容赦なく暴くことによって、本来見えているべきだったものを見えるようにし、人々の関係をあるべきだったかたちに戻す――そういう意味では実に道徳教育的なドラマです。

 若い人たちは人間が周囲から隠したがるもの――悪意や嫉妬や裏切りこそ人間の本質だと考え、露悪的なものを信じ、大切にしようとします。しかし人が隠すのはそうした後ろ暗いものばかりでなく、弱さも優しさも隠されます。そうしてより深く隠される弱さや優しさこそが、もしかしたら人間の本質なのです。
 
 そのことは、長く人間をやっていると分かってきます。野島伸司も還暦となって、隠された善きものを書きたくなったに違いありません。
 
(この稿、続く)