降るはずのない土砂降りが二度もあって、
そのあいだは汗が滝のよう。
食事は値段が高くて、会場は広すぎる。
しかし楽しい成熟社会の万博、
という話。
(写真:SuperT)
【降れば土砂降り、晴れれば灼熱】
晴れ男が二人も三人もいて、台風一過なのだから降るはずはない雨が、12時50分過ぎ、それこそ「天のバケツをひっくり返したみたい」な暴風雨となって私たちを襲います。
およそ15分間。私たち、老夫婦と孫3号(in the baby carriage)は「風の広場(マーケットプレイス)」に避難し、予約のあった「未来の都市 参加型シアター」(13:00~13:20)までの最後の100mが動けません。目の前に見えるのに。
それでも雨の弱くなった間隙を突いて13時5分、チェックインブースを突破。しかしシーナたちはなかなか来ません。締め切りまであと15分。この雨ですから遅刻してもよもや「ダメです」とは言うまいとも思ったのですが、ネット社会は融通の利かないところがありますから、QRコードの読み取りではねられたら、対応のしようがない場合だってあるのかもしれません。
そこへシーナからLINE、
シ:「今西ゲート前、イーツが走れずごめん」(午後1:12)
S:「一番奥の白い建物。入口でベビーカーの家族といえば案内してくれる」(午後1:13)
シ:「遠すぎるね。泣」(午後1:15)
走れなくなったイーツをようやくなだめながらシーナたちが到着したのは、ギリギリの午後1時20分でした。
あれほど暑さ対策を考えてきたのに、ずぶ濡れの体は気化熱を奪われて震えだす始末です。
【昼食は、値段を考えると食べられない】
万博にもっとも来たがっていた孫1号のハーヴは、よほど気に入ったのでしょう、15分ほどのショーも含めて、「未来の都市」館で1時間半も過ごします。“ほかのパビリオンも見よう”と言ったりせず、それだけの長時間を付き合った父親のエージュも立派なものです。
私たち夫婦は、ふたりだけが当たった2時45分からの「オーストラリア館」があったので、娘のシーナ、孫2号のイーツ、孫3号のドリ(in the baby carriage)とともに2時には外に出て、「夢の広場(マーケットプレイス)」で食事。
二種類のカレーとピラフめいたもの、チキンナゲット風のもの(ジュースはサービス)で、合計7,100円でした。食事に関しては「一世一代の散財」くらいのつもりでいかないと、気持ちが持ちません。
私は大屋根リングに登りたかったので2時15分ごろ一足先に出てダッシュ。しかし地図上でリングを時計に見立てると11時の場所にある「オーストラリア館」は2km近くも先にあり、遠いこと、遠いこと・・・。ようやく着いて大屋根に一気に登り、あたりを見回すと、もう入場時刻でした。
右の白地に派手な模様の描かれているのがオーストラリア館。大屋根リングからの風景をざっと見て、そこから一気に駆け下って入館した。
【オーストラリア館――帰途】
オーストラリア館の呼び物は大陸の大自然を紹介する360度(4面の壁と天井)、5分間ほどの映像でした(下の写真および記事タイトルの写真)。とても素晴らしいものでした。

ただし「これを見るためだけでも、万博会場に足を運ぶ価値がある」というほどのものではありません。素晴らしいものや素晴らしい映像は、今やネットにもテレビにもあふれています。何も大阪まで来てみるほどのものではないのです。
けれどそうした「決定的ではないが、そこそこにすばらしいもの」が「集約的に、たくさん集まっている」ところが万博なのでしょう。こまめに映像を探したり、足しげく世界を旅する手間やエネルギーを惜しむなら、万博会場はとても便利な場所には違いありません。
私たちがオーストラリア館に入っている間、娘のシーナと孫2号のイーツは大屋根の最上階に登り、十分に景観を楽しんだようです。婿のエージュと孫1号はようやく昼食を終えたところです。そして再びの大雨。その雨上がりを待って、私たち夫婦と孫2号・3号はホテルに戻りました。帰りは朝と違って人の動きが分散しますか、東ゲートからすんなり電車に乗って混乱なく戻ることができました。
シーナと夫のエージュ・孫1号はそれから2時間余りも滞在して、「アラブ首長国連邦」「ペルー」「モザンビーク」「マルタ」「夜の地球」「国際機関」などを見てきたようです。もちろん最後に、大屋根からの景観も楽しんできました。
【55年の夢(まとめ)】
55年前の前回大阪万博(1970年)。私は行けませんでしたが、当時は日本人として無関心ではいられない雰囲気がありました。今回はそれと違って、たまたま娘からの誘いがあったので私もでかけましたが、社会全体に熱狂と言われるほどのものはなく、落ち着いた雰囲気だと言えます。
開催前に言われたような凍りつくほどさめた感じ(赤字は必至、途中閉幕もありうる、IR《統合型リゾート》化への単なる地ならし等々)ではなく、適度に熱く、適度に落ち着いた感じがあります。日本はすでに1970年のような燃えたぎる青年の国ではなく、落ち着いた壮年国家なのです。熱狂する人もいれば、そうでない人もいる。
思えば70年万博の直前の1968年~1969年、日本は国内外に多くの問題を抱えていました。
1968年(昭和43年)は1月にベトナムでテト攻勢があったかと思うと、合衆国内でキング牧師(4月)とロバート・ケネディ元司法長官(6月)が相次いで暗殺され、ヨーロッパではチェコでソ連軍が自由化運動の“プラハの春”を踏みにじりました。日本国内では小笠原諸島の返還(6月)、川端康成のノーベル文学賞受賞(10月)、といっためでたい出来事のある一方で、東大紛争は激化し、12月には東京都府中市で三億円強奪事件が起こっています。
69年(昭和44年)になると1月にいわゆる東大安田講堂の攻防戦があって学生運動は一気に下火になり、東名高速道路が全線開通(5月)して沖縄も返還されることが決まりました(11月)。GNPで西ドイツを抜いて世界二位になったのもこの年でした(6月)。
そして1970年。前回大阪万博が開かれたこの年は、”よど号”ハイジャック事件もあって学生運動がいよいよ崩壊に向かい、三島由紀夫自衛隊乱入事件が古い道徳や倫理の終焉を強く印象付けたました。銀座で歩行者天国が始まり、ケンタッキー・フライドチキン(名古屋)とマクドナルド(東京)がほぼ同時に日本上陸を果たす――。
70年は終戦から四半世紀を経て日本が生まれ変わり、世界の一等国として君臨することを予感させる年だったのです。
「こんにちは、こんにちは、西の国から、こんにちは、こんにちは、東の国から」
という無類の明るさは、そうした状況から来るものです。
翻って55年後の今年、日本のGDPはインドにも抜かれて世界5位になるといわれています。もう誰も「もしかしたら合衆国を抜くかもしれない」と思ったりはしません。しかし斜陽の国ということでもないでしょう。長く安定した成熟国になった、ということだと私は思います。
期間限定の大人のディズニーランド「大阪関西万博」も、なかなか楽しいものでした。
(この稿、終了)