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「ブラック霞が関と学校」~官僚が教える“残業代が出ても残業が減らないワケ"①

 霞が関が危機的状況だという。
 異常な長時間労働に苦しんで、人は辞めるが代わりは来ない。
 その姿は学校にそっくりだ。
 いや待て、違う。官僚には残業代が出ていたはずじゃないか?
という話。
(写真:フォトAC)

 明治時代、近代化を急ぐ政府は国民を説得してその子女を学校に出させた、いわば国民にお願いして学校に来ていただいたわけで、そんなところから学校教育は丁寧で、至れり尽くせりなものとならざるを得なかった、というお話をしました。
 今日はその続きで、
「しかし現在は明治とは違った意味で、懇切丁寧で至れり尽くせりの教育が必要とされるようになっている」
というお話をするつもりでした。ところが一昨日のNHKクローズアップ現代「悲鳴をあげる“官僚”たち 日本の中枢で今なに」で、私たちにも関係のある重大な問題を扱っていたので、そちらを先に扱っておきます。

【ブラック霞が関の現状と課題】

 放送で最初に紹介されたのが“ブラック霞が関”と呼ばれる中央官庁の過酷な労働状況でした。そこで働く国家公務員・官僚は約28万人。そのうち、

  • 超過勤務の上限を超えた職員の割合は全体の9.9%と、過去最高。
  • 過労死ラインとされる1か月 100時間以上の残業をした職員はおよそ5500人。
  •  2022年度に官僚を辞めた人は6000人近くで、2015年度と比べておよそ1.4倍。
  •  昨年度の国家公務員採用試験の申込者数は、総合職・一般職ともに、現行の試験制度となった2012年度と比べて、それぞれおよそ3割減。

と、ここまでは同じ公務員として教員も似たようなものだと思うのですが、国会開会中だけを取り上げると、その働き方はほとんど狂気としか言いようがありません。

  •  大臣レクや会見対応のために朝6時に出勤し、夜は予算委員会の総理答弁や想定問の作成で官邸との調整が29時ごろまで続き、そのまま帰れず机に突っ伏して翌日の勤務
  • 時短勤務だが、社会的に注目の高い課題を担当しているため、100時間近くの残業をした月もあった。
  •  正直、体が2個ないと仕事ができないところを、何とかだましだまし働いているというような状態
  •  条文策定のときは連日深夜2~3時まで、内閣法制局と条文の調整をするというのが続いて、年末年始も場合によっては出勤して対応する

と、ここまでの苛酷さは、さすがに教員世界でも少ないように思います。東大法学部を始めとする超難関大学に入るために、高校1年生のころから毎日15時間の学習を続けた――そんな人たちですから耐えられる世界なのかもしれません。

 問題は単なる過剰労働では済まなくなります。
  私たちは「教員の多忙と蓄積疲労は児童生徒の育ちに影響する」などと言って実際にも心配すべきことなのですが、外務官僚の次のような言葉を聞くと、これでこの国はやって行けるのかと、ほんとうに不安になります。
「2国間、あるいは日本対多国間の約束や取り決めを作る条文の中で、『この一文を入れなければ我が国にとって絶対に不利になる』というような場面であっても、非常にタイトに、あるいは少ない人で対応していく中で、その必要な一文が押し込めなかったというようなことも正直ないとは思っていません。それは多分10年後、20年後、日本が国際社会において不利になる原因になっていくような気がしていて。日本の国力がそういったところで下がっていってしまうんじゃないかと危惧しています」

【仕事は増やしても人は増やさない同じ仕組み】

 官僚の仕事がこれほど苛酷なのは、教員と同じように国家公務員にも“定員”があるからです。
 イギリスの歴史・政治学者のパーキンソンは、
「公務員の数は、仕事が増えようが減ろうが、はたまたまったくなくなろうが、常に一定の割り合いで増え続ける」と主張しました(パーキンソンの第一法則)が、そんなことはありません。

 日本では消費税導入や増税のたびに、
「国民に増税をお願いするからには、まず政府が身を切る行政改革を行わなければいけない」
とか言って、国会議員自身は大して身を切らないのに官公庁は次々と縮小統合し、国家公務員の定数は減らされ続けてきました。
 その結果、国民1000人当たりの公務員数は、フランス(23.3人)、イギリス(6.3人)、アメリカ(4.4人)に対して日本はわずか2.9人です。全体的な人数も平成の初期には約80万人いたのが今は約28万人と、65%も減ってしまったのです(国立大学の法人化や郵政民営化の影響も大きい)。
 もちろんそれで以前と同じような仕事ができれば問題ないのですが、勤務時間が 23時間(午前6時から翌朝午前5時まで)といった不健康では、とてもではありませんが“同じ”という訳にはいきません。“国家”を扱う人の不健康は国益に関わります。しかし改まらない。

【結局、国家公務員も教師も同じ】

 一昨日のクローズアップ現代では過重労働の問題以外にも、かつて官僚政治と呼ばれるほどに大きな権限と権力を持っていた官僚が、いまや議員の下請けとなり、意に沿わない仕事や本来しなくてもよいことまでさせられている現状についても紹介していました。やりがいが奪われたのです。
 選挙のたびに構成の変わる議員と違って、長く務める“官僚”は日本の政治を百年の大計で考え、行えるやりがいのある仕事でした。中には政治家を手玉に取るような人もいましたがそれは例外で、官僚と政治家は協力し合ってこの国を盛り立てようとしていたのです。
 そんな時代が、少なくとも昭和の間は続いていました。「忖度」という言葉もその時代の官僚の辞書にはありません。それが今や議員の顔色を窺って生きる政務の奴隷です(*1)。

 同じ時期に、教育の世界でも「時代と環境の変化」は起こりました。
 おそらく昭和の間じゅう、教師と保護者は相互に協力的で、学校における教育活動もかなり自由に行われていました。それがいつの間にか(おそらく平成の10年ごろから)次第に変化していき、今や学校はかつてのように自由に活動するのではなく、保護者や教育委員会、ひいては背後にいる議員やマスコミ、市民に気を遣い、忖度しながら活動する場になりました。
 その間に保護者はPTA活動からも身を引き、学校から遠ざかるようになります。放っておいても学校は気にしてくれますから、こちらから興味を持つ必要もないのです。
 保護者たちの表情からは、
《私たちはああだこうだと細かいことは言わない。学校は子どもたちを、私たちが望むようにきちんと育ててくれればいい。それだけだ》
 そんな意思が読み取れるような気もします。
《もちろん思い通りに育たなかったらならなかったら容赦はしない、必ず責任は取らせるけど・・・》

【残業代を払う制度があっても残業は減らない?】

 今の状況が続くと官公庁も学校も、基準に満たない、力不足の官僚・教師に占拠されるようになります。それでもいないよりマシというところでしょうか。
 一昨日のNHKクローズアップ現代を見終わって、私は暗澹たる気持ちでテレビのスイッチを切ろうとしました。そして突然、気がついたのです。
 いま話題の”教職調整額10%以上に増額”について、そんなまやかしではなく、正式な残業代の制度を創設せよという人たちーーこの人たちも金が欲しいわけではありません。残業代制度をつくることによって学校に労務管理という概念を定着させ、もって時間外労働を削減するというのが狙いだったはずです。
 でも、教員と違って国家公務員には残業手当がありますよね? それなのに「過労死ラインとされる”1か月 100時間以上の残業”をした職員がおよそ5500人」というのは、どういうことなのでしょう? 残業代は時間外労働を減らす決め手ではなかったのでしょうか?
(この稿、続く)
*1:私はこの問題についても何回か扱っています。例えば↓です。

kite-cafe.hatenablog.com