カイト・カフェ

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「この惨状を見ろ! 組織を失うというのはこういうことだ」~社会三悪の行方②  

 労働組合・町内会・PTA。人々の自由を奪う“社会三悪”。 
 この中で、最初に衰退したのが労働組合だ。
 労組なんてなくても大丈夫だとみんな思っているが、
 ほんとうにそうだろうか? 

という話。(写真:フォトAC)

日教組が消えた日】

 労働組合も今や“三悪”などと呼ばれ、なんとか抜けたいといった話がネット上のあちこちから聞こえてきます。しかし労働組合の組織率はわずか16.5%。私がかつて加入していた日教組日本教職員組合)はそれより多少マシな20.1%ですが、似たようなものです。

 ここまで組織率が落ちた理由は、抽象的に、
「産業構造の変化、働き方の多様化、雇用形態の複雑化、生活水準の向上、及び、それらの変化に労組が対応しなかった」
――要するに、組織が組合員の要望に応えられなくなったからだ、と説明されますが、それで分かったような分からないような――。

 教員の場合、日教組は戦後間もない時点ではたくさんの教え子を戦場に送って死なせたという深い反省から、反戦・平和を大きな旗印として掲げてきましたが、高度成長期を経て学生運動の季節も終わり、バブルの時代を迎えみんなが浮かれている最中にも「反戦・平和」で、なんともピンとこない状況が続いたことも問題だったのかもしれません。
 日教組の平和主義はしばしば政府の方針と対立し、一部の教員は右派の人々から上げ足を取られるような度を越した平和主義を推し進め、実際に上げ足を取られ、「学校教育の至らぬ部分は、すべて日教組の悪しき影響のため」といった宣伝に易々とはまって行ったふうもありました。

【組合は交渉のテーブルを奪われた】

 それでも昭和のうちは何とかやれたのです。
 学校の教育問題や教師の労働問題は、文部省(当時)を舞台として、官僚と組合ががっぷり四つに組み、時間をかけて話し合ったものです。特に春闘の時期には組合の代表が文科省の廊下に座りこみ、無言の圧力をかけながら交渉の行方を見守っていました。
 ところ気がつくと、そうした風景はいつの間にか見えなくなり、文教政策は文部官僚と日教組の丁々発止のやり取りから生まれるのではなく、首相官邸近辺の「臨時教育審議会」だとか「教育改革国民会議」(小渕内閣森内閣)だとか、あるいは「教育再生会議」(第一次安倍内閣)、「教育再生実行会議」(第二次安倍内閣)といったところで決められ、天から降ってくる形になっていたのです。
 中でも衝撃的だったのは1992年、自民党の文教部会が学校5日制の実施を決め、年度途中の9月から実際に月一回の土曜日休みを実現してしまったことです。日米貿易摩擦解消のために、アメリカから強く求められていた週休二日制が一向に広がらないことに業を煮やした自民党が、学校を休みにすれば産業界も従わざるを得ないというアイデアから行ったもので、政府でも文科省でもなく、自民党の一存でやってしまったことに歴史的な意味があります。
 これ以降、組合はどこに闘争の矛先を向けていいのかわからなくなり、交渉のテーブルも見えなくなってしまったのです。それが活動を停滞させました。

【労組は死んだ、労組は死んだ、私たちが殺してしまった】

 普通の教員は組合の上層部が交渉相手を見失っていることに気づかず、周囲から投げつけられる「日教組批判」には辟易としていました。さらに組合が自分たちの生活を守ってくれているという実感も湧かない中で、組合費や動員の負担ばかりが大きく感じられるようになり、ひとりふたりと抜けるうちに、気がつくと5人中1人しか組合員がいないという体たらく。
 
 昔であれば、非組合員であることは肩身の狭いことでしたが、80%が非組の仲間ならどうということはありません。組合費は払わなくても済むし休日の動員に応える必要もない、お気楽なものです。かつて何年も組合に入っていたのは何のためだったのだろう? 結局に何にもならなかったのだから、できれば今まで払った組合費についても、返してもらいたいくらいだ――と、そんなふうにも思えてきます。
 しかしそれでよかったのでしょうか?

【教員の働き方改革に教員の声は考慮されない】

 昨今、教員の労働状況が限界にまで達し、その様子が世間に知れ渡るにしたがって教員の働き方改革の必要性が叫ばれるようになっています。ところがその働き方改革案の作成に、現職の教員はほとんど何の影響も与えていません。教師たちの要求をまとめ、整理し、政府・文科省に突きつけて交渉する、主体がないからです。

 一向に進まない部活動の地域移行や「定額働かせ放題」解消にいら立った教員たちは、怒りをぶちまけますが、矛先の向かうところは地教委でも文科省でもなく、X(旧ツイッター)やヤフコメ(Yahooニュースコメント欄)です。そんなもの、権限のある人たちは誰も読んではいません。

(この稿、続く)